老人の回想 高校1年生 冬
23 蔦莉
「朝か・・・。」
朝。私はパーキンソン病になって、朝が少し嫌いになった。『死』に向かって、歩いている感じがして。
私は起き上がろうとしたが、力が入っていないことに気づいた。顔を上げ手を見ると、震えていた。私は諦め、頭を枕に沈めた。私はなぜか『学校に遅刻してしまう。急がなきゃ。』と言うような感情には支配されなかった。
そのまま時間はどんどん過ぎていき、いつもなら朝食をとっている時間になった。ドアの前に気配が感じられ、ノックされた後、
「
と、お母さんの声がした。
「大丈夫?」
私は
「こっちに来て。」
と言うが、その声は小さすぎて部屋の外にいるお母さんには届いていないだろう。
一向に返事が返ってこないことに異変を感じたのか、お母さんは
「入るよ〜。」
と言い、ドアを開けた。私は
「お母さん。」
と呼んだ。
「起きれないの。」
私がそう言うと、お母さんは焦ったように近づいてきた。そして、体を起こしてくれた。
「病院、行こうか。」
彼女はそう言って服を出してきてくれた。「ありがと」私はそう呟き、立とうとしたが体が支えられなくなり、ベッドにストンと座りこんだ。その様子を見たお母さんは、
「万歳して。」
と言い、パジャマを脱がせ、服を着せてくれた。
「ありがとう。」
私はそう言い、笑った。お母さんは、私の微笑みにつられたように––––でも、悲しそうに––––笑った。その切ない顔を見て、私は心が痛んだ。
「そうだ。髪の毛くくってあげよう。
と彼女は言い、パタパタとスリッパの音をたてて部屋を出て行った。洗面所に行く彼女の背中を見ながら、私は
「ごめんね。」
と小さく呟いた。
「今、あなたの進行状況は、ホーン・ヤールの重症度分類の4度、厚生労働省の生活機能障害度分類の3度にあたります。」
病院で放たれた、主治医の藤原先生の言葉に私は唖然とした。
前は確かホーン・ヤールの重症度分類の3度だったはずだ。––––つまり、病状は進行しているということだ。
「この段階にくると、介護が必要になってきます。えぇ––––」
––––介護。自分には関係のないと思っていた言葉が出てきて、少しびっくりした。
その日は、お医者さんから難しいことを言われた。私はほぼ意味が分からず、意味もなく笑って頷いていた。処方された薬をしっかり飲む上に、学校に行く日は介護福祉士の方に付きそってもらうことを約束された。
「––––では、また来てください。」
と言う藤原先生の言葉に
「ありがとうございました。」
と、私は言った。
診察室を出た私とお母さんは、しばらく無言のまま病院の廊下を歩いていた。病院を出る頃に、お母さんが口を開いた。
「介護福祉士さん、紹介してもらえるの、よかったね。」
その静かで優しい声に、私は少しばかり安堵を覚えた。どうやら私は、病院の無機質な匂いに、不安を抱かずにはいられない体質らしい。
病院に行った日の翌日だろうか。母にいつもより早く起こされ制服に着替え、ゆっくりリビングに行くと、見知らぬ女性の話し声が聞こえた。
「おはよ。」
と言いながらドアを開けると
「こおはようございます、蔦莉さん。介護福祉士の本田です。」
と、藤原先生に紹介していただいた介護福祉士さんであろう人がいた。移動するのが大変だろうからと、わざわざ朝から来てくれたのだ。本田さんは50代前半といった感じだろうか。私は、
「おはようございます。よろしくお願いいたします。」
と頭を下げた。が、体の重心が片寄ったせいで転びそうになった。すると、危険を察知したのか慣れた手つきで本田さんは私の体を支えた。
「大丈夫ですか。」
そう言って彼女は微笑んだ。
それを見て私は、さすがだなと思った。この方なら、お母さんにも迷惑をかけなくていい、安心できると––––。
ある日の朝––––。
「蔦莉ちゃん、おはよう。」
そう言って本田さんは朝日に照らされたカーテンを開けた。シャという音と共に、薄暗い部屋に朝の清々しい光が満ちた。
「本田さん。」
私は、半ば寝ぼけながらそう言った。いつもならお母さんが起こしに来てくれる。でもそうではないと言うことは・・・。
「お母さん、会社に行ったの?」
私の問いに本田さんは
「そうよ。」
と、日光を浴びなが言った。「いい朝ね。」と呟いた後、私を起こそうと近づいてきた。本田さんは
「膝立てるね〜。」
と私の膝を持ち曲げた。
「寝返り打ってね。」
と私の膝と肩を彼女の方に引いた。彼女は、私の足をおろしたあと、骨盤を押しながら体を起こした。時々、肌に触れる中年女性特有の手に私は安堵を覚えた。ベッドに座っている私を見た本田さんは、
「今日は学校行けそう?」
とクローゼットの中にある制服を取り出しながら言った。私は、その言葉に少し手が強張っていることに気付き、「うぅん」と唸りなった後、
「行く。」
と呟いた。病気にかかってから、調子の良い日だけしか学校に行けなくなったが、行きたいと思えるようになった。
その言葉を聞いた本田さんは
「うん。じゃあ、制服着よっか。」
とベッドに服を置いた。私は「ありがと」と呟き、こわばる手で目を擦った。そんな私を見ながら、
「一人で着替えれる?」
と本田さんは言った。私は、パジャマのボタンを外そうとした。が、案の定無理だった。その様子を見た本田さんは空いていたドアを締め、
「よし、着替えようか。」
と言った。
何週間ぶりに袖を通した制服に、胸がドキドキした。
本田さんに付き添ってもらいながら、私は通学路を歩いた。冬の厳しい風が首を掠めた。
「薬、聞いたね。」
本田さんが、ゆっくりでありながらも自分の力で歩けている私を見て、そう言った。
「うん。」
私はそう呟いた。薬を飲めば、容態は少しだけ良くなる。でも、やはり動きづらいのだった。
中学生用のカバンを持った後輩たちが、私の横を走っていく。元気だな、と思いながら
「本田さんはさ、なんで介護福祉士になろうと思ったの?」
と私は言った。今まで気に留めていなかったことなのだが、ふと気になったのだ。本田さんは、少し考えてから
「そうね。10年ほど前かしら、私、高校教師だったの。」
と重く口を開いた。
「私の教え子の中に、男の子なんだけどね、身体に障害を持った子がいたんだ。生まれつきじゃなくって、幼い頃に起こった事故でね。当時、ご両親と一緒にいたみたいなんだけど、ご両親はその子を守るために亡くなってしまったんだって。その子もその子で、事故が起こった時、頭を強打して後遺障害が残ったの。––––後遺症は高次脳機能障って言って、「認知機能」が低下してしまう病気ね。あと、うつ病にもかかったみたい。––––それに加えて、顔の半分は手術した痕や火傷の痕が残っていたわ。そんな顔だから、小学生の時から、ずっとイジメを受けていたみたいだった。」
イジメ・・・。
「私が担任を持っていた時も、その子はイジメられていた。私は『教師』としてできる限り、その子の相談相手になったりして、距離を縮めようと頑張ったわ。でも、やっぱり、その子は心を開こうとしなかった。私は、しつこくしつこく話しかけたのね。その子の人生が楽しくなるようにと。」
そこで本田さんは、少し言葉を切った。
「私の『先生』としての発言と、そのしつこさが、きっと煩わしかったのね。自殺しちゃったの。私の目の前で––––。」
「自殺。」
その言葉が私の心で木霊する。
「そう。飛び降り自殺だったわ。亡くなる前、私に彼は言ったわ。『人は、生まれた時から死に向かって歩いているんです。崖から飛び降りるようにね。早く死ぬ人は、崖から地面までの高さが短いだけなんですよ。僕のような“人で無し”は、生まれながらにして、それが短いんです。だから、先生。今までありがとうございました。さようなら』って。」
鼻をすする音が聞こえ、隣を向くと本田さんが目に涙を浮かべていた。
「ごめんなさい。」
彼女はそう呟き、目を擦った。
「その時、私は思ったの。何がいけなかったのだろうって。自分の未熟なところは次々と出てきたわ。じゃあ教師として私はどうすれば良かったのか、と考えたの。でも、分からなかった。ただね、一つだけ分かったことがあるの。それはね、心から相手を想う大切さ、なの。」
そう言って彼女は、言葉を切った。
「もしあの時、私が『教師』としてじゃなくて、『人』として接していたら彼は亡くならなかったのかもしれない、私はそう思うの。私はその時、まだ1回目の担任で分からないことがたくさんあって、生徒とどう接すればいいのかも分かっていなかった。だから担任を持っている生徒たちにはなるべく親しくしないようにしていたの。『先生』としての威厳を保つために––––。彼にも、その距離感で接してしまった。そりゃ、この先生いやだなってなるよね。」
そう言って、本田さんはふっと微笑んだ。微笑んだと言うよりかは、過去の自分に嘲笑っているようだった。
「しばらく教師として働いたんだけど、何年もやってもうまくいかなかったの。仕事も、生徒との関係も、先生方との関係も、何から何まで、もうごちゃごちゃで。そしてね、思ったの。私は教師は向いてないのかもしれないって。そこからはすぐだった。自殺する子が減ればいいのにってずっと思ってたから、そういう人たちをサポートできる仕事に就こうって決めたの。あの男の子の印象が強すぎてね。身体に障害を持っている人々を助け仕事を調べたら、ケアマネージャーと介護福祉士って出てきてね、介護福祉士は国家資格だから、無理かなって思ったの。でもね、今は違うんだけどね、私の時は養成学校を出たら無試験で資格登録ができたから、試験勉強して養成学校に入学したの。そこからは、蔦莉ちゃんが思っている通りだと思うよ。」
そう言って、彼女はやっと喋るのをやめて、顔を上げた。
「そっか。」
私はそう言って、うつむけていた顔を本田さんの方にむけた。ちょうどその時、学校に着いた。
「さあ、着いた。」
本田さんはそう言い、校門をくぐった。私は、一度立ち止まり、深呼吸をした。自分の学校なのに、なぜかそうじゃないような感覚に襲われたからだ。
立ち止まっている私を心配して、本田さんは振り向いた。
「蔦莉ちゃん?」
私は我に帰り、
「あっ、は〜い。」
と返事をして校門をくぐった。
すれ違う先生方、一人一人に「おはようございます」と挨拶すると、
「おはよう。おぉ、倉井。大丈夫か?」
と、一言添えてくれる。私は嬉しくなって、テンションが上がった。そんな私を見て、
「蔦莉ちゃん、幸せそうで何よりです。」
と、半ば呆れたように本田さんが言った。
教室に行くと、
「倉井〜!!!」「蔦莉ちゃん!?」
とクラスメイトたちが駆け寄ってきてくれた。クラス替えしたあとも、そんなに学校に行っていなかったのに、こんなに駆け寄ってくれるクラスメイトの優しさに、ほっとした。
「おはよ!」
私が笑顔でそう言った時、後ろから誰かに抱きつかれた。びっくりして後ろを振り返ると、
「え〜り〜ちゃん!おはよ!」
と言う
「紫花!おはよ〜!」
私はそう言って、紫花に抱きついた。
この幸せが続いてほしい。私は、そう思った。
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