第四十一章…「その終わりの見えない終わりの1つは」


 鼻へ海水の臭いが香る。

 空は晴天…とは言えない曇り空だ。

 山の上から見下ろす海は、そんな天気だからか、どこか暗く感じる。


 今日、私達は天人界へと帰る。

 今いる場所は、人間界に来た時に初めて足を付けた場所だ。

 色々ごたごたしたこの調査も、一ヶ月を優に超え…、そんなに長くいるつもりはなかったのに…と愚痴る始末。

 結局、天人界での悪魔騒動に関連した事柄で得られたモノはほとんどない。

 でもエルン達は、その良くない成果に落ち込んだりする事はなく、まるでそうなる事は最初から分かっていた事…とでも言いたげに、今日も元気よく朝食を口いっぱいに頬張っていた。


---[01]---


 まぁ、その辺の事に関しては、私も人の事は言えない。

 その光景を…いや…正確にはその料理を思い返すだけで、お腹がまだまだ寄越せと催促をしそうになる。

 胃の当たりがうずくのだ。

 別にありきたりな料理…と言ってしまうのは失礼だけど、豪華すぎず…かといって貧相すぎない…、そんな朝食、定食屋のモーニングセットのような普通の食事だ。

 普段食べられないモノなのだから、もっと豪勢なモノを食べればいいのに…と、夜人の久遠寺家当主の人間にも言われた…、でもエルンはソレを断った。

 天人界は食事というモノを重視しない…、所詮は腹を満たすだけのモノとしてしか見ていないからだ…、結果アレは食事とは言えないモノとなっている。

 何と言えばいいか…、いや…単純だ…、アレは作業に過ぎない…、今日も一日頑張りましょうという挨拶のようなモノだ。


---[02]---


 だから…とは思わないけど、早く寄越せと言っていた胃の催促は、これからの食生活を想像した瞬間に鳴りを潜めた。

 現金な奴だが気持ちはわかる。

 そういう事もあって、エルンは普通でイイ…と言った。

 豪勢に舌を肥やしては、あの食事という作業が苦になる。

 なぜか食事に関して、しばらくは私に頑張ってもらわないと困る…と言う事を、エルンは言っていた。

 どういう意味なのかは知らない。

 聞いても、すぐにわかる…としか返されなかった。


 そんな感じで、朝が終わり、今は昼過ぎと言った所だ。


---[03]---


 色々あったが、体の不調は特に出ていない。

 何気なく、私は自分の手を見る。

 右手だけ、手首から指先まで、竜戻りをしたまま元の状態に戻っていない。

 と言っても、指はそもそも竜のソレな訳だし、竜戻りの状態が一番進行していた時は角まで生えていたという…、足もなかなかに竜をしていたらしく、私の足の装備は修理が必要になってしまった…、ソレらを考えれば、竜戻りが治りきっていないのが、右手のその部分だけなら、問題がある…とは言えないだろう。

 こんなもの唾を付けとけば治る…程度のモノだ。

 ・・・と思いたい。

 まぁ他も戻ったのだ…、エルンも、その内治る…と言っている…、このままでも生活する上で問題は無いけど、とにもかくにも、この辺の事は気にしなくてもいいようだ。


 とまぁ、余計な事を考えずに、目に見えた事を考えるようにしているのだけれど…、やっぱり無理だ。


---[04]---


 どうしても頭の中にチラつく。


『フェリス・リータという人間は、もう死んでいるんだ』


 私が俺である時に、エルンから聞いた言葉だ。

 私というフェリスではなく、本来の…本物のフェリスは、もう死んでいるという話…。

 俺が俺として聞き、俺が私として目を覚ました。

 それは、その話を聞いてから数日後の事だ。

 それからはいつも通り…とはいっていない。

 今まで、毎日のように、私と俺は入れ替わっていたけど、今はその感覚が1日開く。


---[05]---


 例外として、たまにそういう事はあったし、ごたついてもいたから、身体的な問題があるのかもしれないけど、ソレが連続し続けるのは、素直に不安を覚える。

 この生活が正常…なんて口が裂けても言えないけど、私にとっての当たり前になっていたのは事実だ…、すぐそこにある当たり前の日常…てヤツだ。

 今は、そんな状態を様子見しようと言われている。

 それ以外だと…、特にこれといった問題は…無い…と思いたい。

 自覚が無いだけだ…なんて事はあってほしくない。


 答えの出ない不安が、同じ不安が、出ては積み重なっていく。

「はぁ…」

 こんな状態では、ため息も出るってもんだ。


---[06]---


 なんでもいい…、気持ちを落ち着かせなくては…。

 ネガティブな思考を少しでも晴らそうと、また周りに視線を泳がせる。

 海を見た時のように…、その潮風の臭いに鼻をしかめたり…、何か意識を持って行ってくれるモノがイイ。

 そんな私の目にまず飛び込んできたのは、自販機だった。

「なんか飲みますか…」

 向こうに帰るにあたって、何やら準備をしているようだし、まだまだ時間もあるだろう。

 ・・・というか、自販機を見ているだけで、ヨダレが出て来た。

 条件反射スゴイ…というか、素直な体な事で…。

 金ならある。


---[07]---


 俺から貰った諭吉は何だかんだ私の下を去っていったけど、自室の貯金箱から拝借した10枚にも満たない500円玉が…。

 どうせ、天人界に持ち帰った所で無用の長物だ…、まぁ場所は取らないけど…やっぱいらないモノだ。

 ならば、ココで使っておこう。

 いっその事、個人や家族のために何個か買って行ってもいい…、ソレをやるならちゃんとしたモノを持ち帰れとも思うが…。

 そもそも、下手にこっちの世界の食べ物や飲み物の味を覚えさせるのは良くないか…、じゃあ、結局の所、却下だな。

 私は取り出した硬貨を自販機に入れる。

 この際、食べ物の自販機があれば嬉しかったが、そんなモノは無い。


---[08]---


 あ~…、食べ物の事を考えたら、またヨダレが…。

 いっその事、向こうでこっちの食い物…せめて野菜だけでも持ち帰れないかなぁ。

 まぁドレッシング無しでサラダを食べるの、あまり得意ではないし、好きでもないけど…。

 火を通してあっても、調味料が無いんじゃ…、結局食材があっても今までと同じだ。

 無い物ねだりをしていても仕方がない。

 私は自販機の方へ意識を戻す。

 何を飲むか…。

 スタンダードにお茶類だろうか…、それとも中毒性のあるジュース類だろうか…。

 帰った後に恋しくならないようにするならお茶類なんだろうが…、ジュース類の事を考えた時の体の反応は凄まじい。


---[09]---


 飲ませろ飲ませろ…と、体が鐘を力強く叩くのだ。

 仕方ない…。

 私はこの体の欲望に負け、甘々なミルクティーを選択する。

 この体に残るかもしれない、飲みたいという衝動は、俺の時にたらふく飲む事で解消する事にしよう。

 ガタン…と取り出し口に落ちて来た缶を取り出す。

 飲み口を開け、パカッ…という音の心地良さを、私は耳で感応する。

 まさか、この音に喜ぶ日が来るなんて、俺は全く思っていなかったよ。

 その甘さが振り切っているようにすら感じるミルクティーに舌鼓をし、唇に付着したソレを。ペロッと舐めとる。

「甘い」


---[10]---


 俺の時は、たまに飲みたいと思って買う事はあるけど、欲求とは裏腹に、飲む度に甘すぎる…と思う事ばかりだ…、でもフェリスの舌は、とにかく幸福感を味わっている。

 どうやら、フェリスは甘党らしい。

 そして、コーヒーとか、苦いものは苦手…。

 あの香りと苦さの良さがわからないとは、フェリスもまだまだ子供舌だな。

 まぁ、良い匂いがするけど実際に飲んでみたら…て気持ちはわからんでもないが。

 フフッ…と、私と俺、人格は同じ人間なのに、好みの差が出ている事が楽しくて、自然と口元に笑みが籠った時、クイクイ…と上着の裾を引っ張られる。

 そっちの方へと視線を向けると、そこには、お面を付けた子供がいた。

 丸みを帯びたたてがみに、眉毛は丸っこく、大きい口には牙…、覚えている…、それは私が卒業制作展で買ってあげたお面だ。


---[11]---


「どうした、十夜?」

 無口な男の子…、あまり感情を表に出さない子だけど、そんな子が私の買ってあげたお面を付けている。

 感激するじゃない。

 そんな男の子は、その視線を、私の持つミルクティーへと向けていた。

 感情をほとんど出してこないと言っても、やっぱり子供は子供か。

 俺も小さい頃は、事ある事に、菓子ッ、ジュースッ…と母さん達にせがんだもんだ、弟妹もしかり…。

 そう言うもんよね、美味しいんだし。

「じゃあ、私が、十夜に1つ奢ってあげましょう。何にする?」

 私は、硬貨を自販機に入れ、十夜をボタンが届く位置まで持ち上げる。


---[12]---


 飲みたいものを聞いて私が押してもいいけど、子供って、こういうのを自分で押したがるもの、そのワクワクを私は奪ったりしない。

 十夜は、ほんの少し、品定めするように自販機の陳列に視線を泳がせ、ゆっくりと自分が欲しいモノのボタンを押した。

 ガタンという音を聞きながら、私は十夜を下ろす。

 何をチョイスしたのか、若干の興味を持ちながら、彼の取り出した…濃い渋茶…という商品名に、微笑みが固まる。

 十夜は、飲み口を開けようとしてうまくできず、こちらへ視線を向けた。

 お面越しに、上目遣いの目が目に映る。

「ちょっとまってな~。開けてやるから」

 私はしゃがみ、足元に飲みかけの缶を置いて、十夜から缶を貰う事はせずに、持たせたまま手を添えてその爪で感を開ける。


---[13]---


「はい、じゃんじゃん飲みな、じゃんじゃん」

 そう言って、付けていたお面を上にずらしてやると、十夜はこちらを見て、コクリッと小さく頷き、そしてそのお茶を飲み始めた。

 グビグビ…と。

 そして、嬉しそうに笑顔を浮かべた。

 普段、感情の起伏が穏やか…というか、ほとんどないように思う十夜が笑顔を浮かべているのだ…、本当にソレが飲みたかったらしい。

 違うモノを選んでしまったのか…と心配したが、杞憂だったようでよかった。


 お茶を飲む十夜の姿を見て、ホッ…と胸をなでおろす感覚を覚える。

 この子を助けるための戦いは、後半の事をほとんど覚えていないけど、美味しそうにお茶を飲む姿を見ていると、無事で良かった…と思えた。


---[14]---


 1度だけじゃなく、2度3度、十夜のそんな姿を見る度に思うのだ。

 その姿を見る度に、今度は守れた…と思いたいけど、話を聞く限り、私1人の力では守り切れなかった。

 助けられなかった。

 あの敵が何を考えていたのかはわからない。

 でもその気まぐれか…、この子はここにいられる…、笑顔を浮かべられる…。

 人間界の医術…、天人界の…エルンの魔力を用いる治療術…、2つの世界の2つの医術で、その体に何か異常はないかチェックしたらしいが、結果としては何も無かったらしい。

 強いて言うなら、まだ小さいながら、その体の魔力が活性化しているとかなんとか。


---[15]---


 でも、それは人間界ではない悪魔界に行ってしまったから…、向こうに行ってしまった人たちも、この子と同じように、その体の魔力が活性化しているとか…、要は当然の事だ。

 だから異常の内に含まれない。

 魔力が活性化すると言っても私が聞いた話では、いつも以上に、体に力が入るようになったり、元気になったり…、エナジードリンクを飲んだ時のように、しばらくの間、体がハッスル状態になると言われた。

 まぁそれでも、人によっては体調を崩す原因にもなるらしいけど。

 それも、夜人の中では日常茶飯事だろう。

 大勢ではないにしても、夜人になるためには通らなければいけない道だ。

 十夜は、ただそのいつか通る道を、ちょっとだけ早く通っただけ。


---[16]---


 そう…ただそれだけだ。

 いつかこの子も、他の夜人のように、あの白黒の世界で、戦いに身を投じる事になると思うと、私…俺…としては思う所はあるけど、そういう世界なのか…と思う所もある。

 他の誰かにやらせれば…とも思うけど、しがらみとか色々と問題も多そうだし、その他の誰か…が夜人なのだ。

 できる事なら、やめてほしい…、やめないというのなら私が手伝ってあげたい…、そう思う。

 でも、それは特別視し過ぎだ。

 この子はまだその辺の事を理解していないだろうけど、今…既に夜人として、これからの戦いに不安を抱えながらその戦いの地に立っている子もいる。


---[17]---


 この子に手を差し伸べるなら、他の子も…だ。

 私としては所詮別世界の話…、俺としても同じ人間界の出来事だとしても、結局別世界の話…。

 口出し無用…て話だな。

 だから、思う所はあるけど、私が口出しできる事じゃない…、その権利が無い。

 俺はひたすら、そんな子達が自分達の生活を守っている…と感謝をし続けるのだ。


『おッ! フェリ君、イイのを飲んでるじゃないか』

 私がしゃがんで、十夜の愛くるしさに、その頭を撫でている時、エルンが背中に覆いかぶさるように、後ろから首へと手を回してきた。

「重いぞ」

「体重を乗せているからねぇ~」


---[18]---


「何か用?」

「いや~。特に用は無いんだけど、頼んでいたモノとか、色々無理言ったから、その準備に時間がかかってねぇ。もう少し待つんだけど…、その間が手持ち無沙汰なのだよ~」

 人間界に来た面子の中で、一番大きな実りをしている2つの果実を、私の背中に押し付けて、エルンは自身の顎を私の頭に乗せながら、両者をぐりぐりと押し付けてくる。

 そんな事、今までにもあった事だが、何故だか今回は妙に恥ずかしい。

 体がそれを証明するように、体が火照り…、頬も熱くなってきた。

「ここに来ても、やる事はないけど?」

 自分の体の反応に戸惑いつつも、焦りはなく、私はいつものようにエルンに対して言葉を返した。


---[19]---


 その態度が不服だったのか、それとも自身が望んだ返答ではなかったのか、彼女はより一層自分へ体重を乗せる。

 正直重い。

 嘘か本当か…、邪魔だからと、その大きく実った2つの果実を切り落とそうか…と言う人だ。

 別に、重いだのなんだの、そういった事を言われたからって、傷ついたりする事はあるまいが…。

 そんな少し不貞腐れ気味のエルンは、私の手から缶を取り上げる…。

 それと同時に、背中にのしかかっていた暖かいモノが無くなって、私が彼女の方を見た時には、取り上げた缶をその口に当てて一気に呷っていた。

 飲みたかったならそう言えばいいのに…と思いつつ、その光景を見ていたけど、とうのエルンは、不満げに、恨めしそうに缶の中を覗き込む。


---[20]---


 まぁ、ほとんど飲んだ後だったから、彼女が満足する程の量が無かったんだろう。

 その恨めしそうな視線が、缶から、なにら変わる事無くこちら向いた。

「はぁ…」

 私は溜め息交じりに立ち上がり、自販機に硬貨を入れる。

「同じモノでいいか?」

「美味しいのなら何でもいいぞ~」

 自分が買ったモノと同じモノのボタンを押す。

 ガタンッと落ちて来たソレを、渡した時、待ってましたと言わんばかりに、エルンの顔は嬉しそうな笑みを浮かべ、舌なめずりをした。

 楽しそうにしている彼女なら、何度も見てきたけど、こんな嬉しそうに笑みを咲かせている彼女を見るのは、初めてかもしれない。



 呑気なもんだ。


---[21]---


 フェリスに渡された飲み物を飲みながら、ウチはアイツの事を遠目で見続ける。

 天人界に帰る準備が整うまでの時間。

 フェリスはよくわからん箱に何かを入れて、その度に出てくるモノを取り、周りの夜人に配っている所だ。

『イク、どうかしました?』

 何を考える…でもなく、物憂げにフェリスを見ていると、自分の隣で同じようにアイツから貰った飲み物を飲むフィアが声を掛けてくる。

 いつも通りのフィア…と言いたい所だが、ちょっと違う。

「何でもない。そっちはどうだ? 体に変な所はあるか?」

「別に問題ありません。痛みも倦怠感も、熱もありません」

「・・・そうか」

 こっちの質問に、フィアは淡々と答えた。


---[22]---


 その表情に感情は無く、文字通り淡々と…。

 「やっとここまでか…」、そう思うのはこっちの話。

 エルンは大丈夫だと言うけど、やはり心配だ。

 いつも通りそこにあるモノが、その形を変えているという不安、そのまま別の何かになってしまうのでは…という不安、別に初めての事じゃないのにその姿を見る度に不安が胸を締め付ける…、ひとりぼっちだった時の事が脳裏をよぎる。

「フィー…、あんま無茶はするなよ?」

「はい、大丈夫です」

 その言葉に、ウチは何の説得力も感じなかった。


 こんなにも、不安を駆り立てられるのは、あの戦いの時のフェリスを見たからだろうか?


---[23]---


 夜人の人達に配り終え、エルンと話をし始めているあの姿とは似ても似つかない…、あの姿を見たからか…、あの姿が、昔のアイツが、自分の過去に重なるからか?

 わからない。

 答えも出ないまま、ただモヤモヤと胸に何かが積み重なっていくだけだ。

 チラッと横のフィアへと視線を向ける。

 やっぱりいつも以上に無表情だ。

 そんな彼女を見ながら、一度「帰る」事を視野に入れておこう。



 準備が整った。


---[24]---


 山のように積まれた段ボールを前に、これは何だ?…と私は首をかしげる。

 野菜類が少々と、半分以上を占める調味料の数々、中型の…一戸建ての家の引っ越しで使うトラック分ぐらいの量はあるだろうか。

 詳しい事は帰ってから話をする…エルンはそう言っていたが、その言い方からして、コレを持ち帰る気満々らしい。

 夜人の…お偉いさん久遠寺家当主と話をしているエルンを横目に、自分の方へと寄って来た子供へと、私は視線を向けた。

 十夜の兄である義弘だ。

「お疲れ様ですッ!」

 十夜と同様、この子も問題なく、悪魔界から戻ってくる事ができた。

 ほんと、心の底から安堵の息をもらすばかりだ。


---[25]---


 義弘は、走って来たからか息を少しだけ荒げながらも、こちらに笑顔を向ける。

「訓練で…その、遅くなりました。挨拶に間に合ってよかった…」

 今日は夜人としての訓練があるから…と言っていたが、それなのに、律義に別れの挨拶をしに来てくれた事は、素直に嬉しく思う。

 この山と積まれた段ボール群の準備は完了、最後にエルンがお偉いさんとの話を終わらせて、後はもう帰るだけだ。

 話をしている時間はほとんどない。

「え…と、その…、先日は…その…十夜を助けてくれて、ありがとうございましたッ!」

 そう言って義弘は勢いよく頭を下げる。

 悪魔界での事は、もう何度かお礼を言われたんだが…、それでも言い足りなかったのだろうか。


---[26]---


 このありがとうは、何回目か…3回目か…4回目か…、もう忘れた。

 私の力じゃ、結局役不足だった事は、言ってあるんだけど、子供ながらに思う所もあるらしい。

 何回も言ってくる辺り、その気持ちは本物だろう…と言う事で、私だけでは無理だった…とはもう言うまいて…。

 今はもうその言葉を受け入れている。

 大好きな弟を命懸けで助けようとした私への恩とか、その辺だ。

 私は、その気持ちに今以上に応えられるように、恥じの無いように、力をもっとつける。

 自身の右手…、竜戻りが治りきっていない右手に握り拳を作りながら、私は胸の内にそう誓った。


 エルンの話も終わり、本当に、もう帰るだけだ。


 そこまで親交を深められた訳じゃない…、義弘たちの真田一家とはそこそこ仲良くなれたとは思うが…、それだけだ。


---[27]---


 だから別れの挨拶に、コレと言って引かれるモノはない。

 天人界と人間界では、文字通り世界が違うし、また会おう…なんて言葉も使うまい。

 何より、下手にあれやこれや…サヨナラだから…と言葉を交わすと、かえって辛くなるだけだ。

 だから別れってのは、適当でイイ…という事を言う気はないが、それでも、言葉を重ねればいいとも思わない。


「お世話になりました」


 エルン達が各々に夜人達へ言葉を送る中で、私は簡潔に一言だけに済ませる。


---[28]---


 十夜は兄の背中に隠れ、お面をしているせいもあって、その顔をうかがい知る事は出来ないけど、兄はその自身の目から流れ出る涙を、手で拭っていた。

 そんなモノを見せられては、余計にこちらが感情的になれない。

 私は、その兄弟に微笑みを向けて手を振った、


 体に浮遊感が襲われる。


 私達は、天人界へと帰っていった。


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