第19話できることは何もない
ルーカスは丁寧に一人一人を診察した。私はその隣で、症状を詳しくメモし、投薬の指示を受ける。
アイザックにメモを渡し、必要な分の薬をより分けてもらう。診察が終わった順に薬を渡す、その繰り返しだ。
時々視線を感じて振り返ると、そこには必ずリィナがいた。相変わらず壁を背にしたまま、感情のこもらない目で私を見つめていた。
診察には午前中いっぱいかかった。実にたくさんの人をルーカスは診た。
患者に共通するのは皮膚の赤み、白い斑点、かゆみ…それが進むと皮膚がうろこ状に硬くなり、だんだんと指先から麻痺してくるようだった。
多くの人たちが、ローブをまとい、フードを深く被り自分の体を隠していた。診察に必要な時だけ、ローブを外し顔を見せてもらったが、その様子は痛々しかった。きっとこの姿をあまり見られたくはないだろうから、普段もローブを深くかぶって生活しているのだろう、と私は思った。特に、まだ若い女性と思しき患者を見ると、私は胸が痛んだ。
病気さえなければ、美しい盛りの年頃なのだろう。着飾ったり、鏡を見ながらあれこれ服を取り替えひっかえして、誰かを好きになる…そういう普通のことを、多分諦めざるを得なかったその人の人生を思うと、私は悲しい気持ちになった。
どうしてこの世界には、病気があるのだろう、と。
そして私たち人間は、そうした病気の前ではひたすら無力であり、世界の病を駆逐するほどの知恵も、技術もまだ手にしてはいない。
私は自分をそれほどすごいとか、偉いとか考えることはないが、それでも私が摘んだ薬草を煎じて作った薬で、お腹の調子が良くなったよ、と言われると嬉しい。
患者さんの話を丁寧に聞き、気鬱気味な人にはレモンの香りを加えたお茶を勧めて、少し眠れるようになった、と言ってもらえると、あ、役に立ったんだ、と誇らしい気持ちになる。
そういう時、私はほんの少しだけ、病気で困った人の体の助けになれたことで温かい気持ちになる。
そうした小さな、ささやかな変化と受けとった感謝の積み重ねが、こうした大きな病…誰かの人生を変えてしまうようなものを目にした時、意味がないように思えてしまうのだ。
何様のつもりでもない。
それでも、立ち向かえない現実を前にすると、私は自分の無力さや、自分がこの程度のちっぽけなものである、という現実を突きつけられる。
あまりに色々と大きなものを目の前にして、打ちひしがれた。だからそれを振り払うように黙々と記録を取り、投薬用のメモを渡す。
そうしたら不意に頭の上から声をかけられてびっくりした。
「エマ、これで診察は終わりよ。外に出て、手を洗って来なさい。お昼にするわよ」
ルーカスはにっこりと笑った。
まるで私の心の中を知っているように、お母さんみたいに優しく。
*
ケシの花が見渡せる小高い丘に登って、私たちは昼食をとることにした。
アイザックが敷物を敷いてくれた。私は持って来たサンドイッチを並べる。
庭で採れた、トマトときゅうり、それにハムのサンド。携帯用にポットには少しだけ砂糖を入れた紅茶、皮付きのポテトフライにキャベツをザクザク切って作ったコールスロー。デザートには赤くて小ぶりの、酸味と甘みのバランスが良いりんご。
私はバスケットの中身を広げ、ルーカスとアイザックに進めた。リィナは一旦自宅に戻り、昼食を済ませてから戻ってくると告げて帰っていった。
リィナの家にはリィナの祖母が住んでいて、体の調子があまり良くないという。
先ほどの小屋での診察に来ていた人たちは、まだ自分で体を動かせる人たちだ。この集落には他にも、もう家の外に出られないくらい具合が悪い人たちが後何人かいるのだと言う。午後にはそれらの家を回る予定になっていた。
サンドイッチをかじりながら、ぼんやりケシの花畑と、空の雲がゆっくり動く様子を眺めていたら、ルーカスに話しかけられた。
「何を考えているの?」
「私って無力だなあ、と思って」
「あら、そっちの方。てっきり私は、今日の診察の患者さんたちを見てショックを受けているのかと思ったわ」
「ショックといえば、ショックですね。世の中にはああいう病気があって、そういう人たちに対して、私は何もできないんだなって。
いや、そもそも私自身、人に何かできる!と胸を張って言えるような何かがあるわけでもないし、医者でもないですから、何を偉そうに、という話でもあるんですが」
私は言った。
「それでも何だか悔しいです」
うんうん、とルーカスはうなずいた。
「エマのそういうところ、私はいいと思うわよ」
ルーカスは言った。
「それに、エマは実際、自分が思っている以上に人の役に立っていると思うわよ?なんだか自分には誇れるところがないような言い方だけれど、今日、あの患者さんたちを見て顔色一つ変えないのは、それ自体大したものなのよ。
多くの人が、あの人たちを見て怯えるわ。汚れている、とか、呪われている、と言って石を投げる人だって決して少なくないのよ?患者本人はもちろん、その家族、親戚だって、同じ病気を持っているのじゃないか?と疑われて、職を追われたり、婚約が破談になったり、商売もだめになって、路頭に迷った人たちが本当にたくさんいるの。
多くの人が、そういう反応をする中で、エマは淡々とカルテを書いて、薬の指示を受けた。表情を変えずに、貼り薬を作って患者さんの包帯を巻いたでしょう?
大事なのはね、同情することでもなく、かわいそう、と哀れむことでもないの。普通に接する。これが一番大切なこと。
それができるエマは、すごいと思うわよ」
「そういうのは当たり前のことじゃないですか?」
「あなたにとっても当たり前を、できない人の方が世の中多いの。本当にすごいことって、案外本人が一番気づかないものなのね!」
そう言うとルーカスは、サンドイッチを豪快に頬張った。コリコリときゅうりを噛む心地よい音が聞こえてくる。
ヴォルフがアイザックのサンドイッチを狙って、じっと鼻先を向けて見つめている。
「一口だけならあげてもいいですよ。今日のサンドイッチは犬が食べても大丈夫な材料で作っていますから」
そう声をかけると、アイザックはサンドイッチをちぎってヴォルフに食べさせた。
アイザックはヴォルフを可愛がっている。
裏庭で、リハビリを兼ねて最近、薪を割っている姿をよく見かけるが、隣で枝を欲しそうにしているヴォルフが座っていると手頃な枝を遠くに投げてやっている。
ヴォルフは嬉しそうに枝を追いかけ森の奥まで走っていき、枝を持ってまた戻ってくる。
アイザックの足元に枝をポトリ、と落とすと、座る。尻尾を左右に揺らしながらまっすぐにアイザックを見つめる。
「投げて欲しいのか?」
アイザックは枝を拾い、出来るだけ遠くへ投げる。ヴォルフが駆けていく。拾ってきた枝をヴォルフはまだ、アイザックの足元に落とす、以下繰り返し、だ。
あまりに飽きずに一人と一匹がそうやって遊んでいるのを、私は台所から眺めて、いい組み合わせだなあ、とちょっと笑ったりしていた。
ああ言う日常の、なんでもないような、それでいて楽しいこと。
そこからわずかに離れた場所で、病に苦しむ人たちが集まる集落があり、その人たちには病と闘う人生がある。同じ空の下で、同じ太陽に照らされるこの森の中で、そう言う風に別々の人生があることが不思議に思えた。
もちろん、彼らの不幸をすべて背負うことはできない。私にできることは基本的に、特に何もない。
私はりんごをそのままかじり、空のとんびの旋回を眺めた。
りんごをかじり終えた頃、またケシ畑の向こうから花をかき分けるようにしてリィナがやってくるのが見えた。
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