第11話アイザック

男の人の意識が戻った日の昼過ぎ、ルーカスが森の奥から帰ってきた。最近、ルーカスは森の奥へ行く頻度が高い。そして、私には「決して行ってはいけない」と言う。理由は何度か聞いたが、教えてくれなかった。



ルーカスに男の人の意識が戻ったことを伝えると、「どれどれ〜」と様子を見に行ってしばらく戻ってこなかった。



私はこう言う時、淡々と別の仕事をしながら過ごすことにしている。ルーカスにも私に秘密にしておきたいことはあるだろうし、私自身もルーカスには言えないもろもろの事情を抱えている。


あえてお互いに、そこを突っ込まないことで保たれている均衡がある。



私はできれば、長くここで働きたい。だから私は「触れない方が良い」と感じたことには、なるべく近寄らないようにしていた。




私が倉庫で、薬草の整理を終え、図書室で薬草の歴史についての本を1冊見つけた時、ルーカスが戻ってきた。



「エマは引き続き、あの兵士の世話をしてね」



ルーカスは言った。



「あの、そのことなんですが、怪我をしているとは言え、相手は男の人ですよ。世話をして二人きりになるときに、私がレイプされたりする危険とかは考えませんか?」



「はっきりものを言うのはエマのいい所でもあるし、時と場合によっては短所になるわね。でもその心配は、この場合妥当ね。結論から言うと、大丈夫よ」




そして、少し話しましょう、と私を居間へと誘った。薬草の歴史の本は、持って行っていいわよ、と貸し出し許可をもらった。




「せっかくだから、お茶にしましょうか」




ルーカスが言ったので、私はお湯を沸かし紅茶を入れた。お茶請けにドライストロベリーとアーモンドを添える。




「彼があなたを襲う心配ないから、その点は安心して。そんなことをしても彼にはデメリットしかない」




そう言うと、ルーカスはアーモンドをぽりぽりと齧った。




その辺りの事情は教えてもらえないんですよね、と言う言葉が喉まで出かかったが、飲みこむ。




「しばらくは安静が必要ね。怪我による熱もまだあるし。でも食事はできるみたいだから、少しずつ、消化の良い、食べられるものを出してあげて。それでもし、嘔吐や下痢があれば、すぐに私に知らせて」




私は言われたことを、そのままメモに取った。









「嫌いなものがあれば言ってくださいね。料理に使わないようにしますから」




私は離れで、男の人の背中の包帯を取り替えていた。ベッドの脇ではヴォルフがどこからか持ち込んだ牛の蹄を両手ではさみ、かじりながら遊んでいる。




名乗ってくれないので、名前がわからないなあ、と男の人をどう呼ぶべきか考えあぐねた。結局心の中で「ヴォルフ2号」と呼ぶことにした。犬のヴォルフも、私がボロボロの状態から世話をして、しっかり食べさせて、立派に大きくなった。同じように、この男の人も元気になってくれるといい。そんな、私なりの願いを込めた呼び名だ。




男の人は何も言わない。




「…黙ってると、嫌いなものはないとみなして何でも入れますよ」




「レバーはあまり好きではない。それ以外であれば…なんでも食べられる」




「レバーは私も苦手ですから、料理には使いません。安心してください」




そう言いながら私は、今度は腕の包帯を変える準備に取り掛かる。




そんな風に、私のお世話係としての日々が始まった。








「…これは何だ?」



一口食べてみて、男の人は言った。



「牡蠣のポタージュです。お口にあいませんでしたか?」



「…いや、美味い」



「それなら良かったです。よろしければパンも少し召し上がってみてください」




私は薄くスライスしたブールも進めてみた。ブールは中身が柔らかいパンなので、体が弱っている人にもってこいだ。男の人は、少しずつ食事が取れるようになってきている。もう少し回復したら、あっさりとした白身の魚や、脂身の少ない部位を使った肉料理もいいだろう。



牡蠣のポタージュは、作るのに手間がかかる。



でも、病人や体の弱った人にとって、牡蠣ほど滋養に富んで、ぴったりな貝はない。まだギリギリ牡蠣が手に入る季節だったので、ルーカスに頼んで街に出た際に買ってきてもらった。



この男の人の食事や手当については、特に予算を惜しむようなことを言われないのも珍しいと私は思っていた。




ルーカスの元に治療を求めてやってくる人たちは、「医者」にかかるお金は持ち合わせていないので、それよりもまだ安価にみてくれる「治療師」のところへやってくる。



そうか、「医者」にかかるのも、場合によっては難しいような暮らしをしている人もたくさんいるんだ、と言うことを私はこの『コウモリの森』にきてから知った。




ルーカスは、そう言う人たちからもちゃんと「対価」を取ることにしていた。これだけは絶対外さなかった。



「対価」はその時、その時でその人の状況に合わせて取るようにしていた。



時々、ここまで貧しい人からも何かしら対価を取るってどうなんだろう?と言う青臭い疑問が私の中に浮かんだ。



言葉にすることはなかったが、ルーカスはそんな私の考えを、見透かしたようにある時こんな風に言ったのだ。



「大事なのは、施しではない、と言うことなの」




ルーカスは言った。




「誰だって、本来憐れみは受けたくないはずなの。どんな人にだって自尊心がある。だから、少しでも何かしら対価を払える人は、それを払って治療を受ける、と言うのが大切」



ルーカスは、どんなに貧しそうに見える人からでも、ちゃんと対価を受ける。そういえば、死にかけの子犬だったヴォルフの治療を依頼してきた子供からでさえ、ルーカスはちゃんと対価を受け取っていた。




「対価の受け渡しは、覚悟なの。治療を受ける側の覚悟ね。治療を施すのは私だけれど、最終的に治っていくのは患者さん本人なの。無料で施された治療だと、自分自身の体をそのあと大事にしない人も多いしね」




私は恥ずかしかった。



結局ルーカスの考えていることは、他人のためで、その人たちがちゃんと良くなるように、と治療したその場だけでなく、そのうんと先を考えての行動だったのだ。



ルーカスは、見た目は派手で化粧も独特だし、男の人だけれどなぜか常に女装しているし、確かに少し変わった人だ。



でも実際には、うんと賢くて気高いところがあった。そんな人のことを「あれだけ貧しい人からもお金を取るなんて、ちょっとなあ」なんて思う浅はかな考えは、結局最終的に自分に返ってくるのだ。




「場合によっては施しも大切よ。でもそれは、ここでやるべきではない。本当にここで、誰かが必要な時に、迷うことなく手当を受けるためには、この場所が”在り続ける”と言うことが大事なの。それにはちゃんと、対価をいただくこと。



だって治療に使う薬草は、エマがちゃんと選り分けて、薬として使えるよう加工したり、あなたの大事な時間を割いて手をかけているでしょう?そうやって初めて使えるようになるの。



その大事な時間に対する、これは報酬なの」






私自身、父について往診の手伝いをしながら、ずいぶんたくさんの人に会ってきたつもりだったし、同年代の子たちに比べて、少しは世間を知ったつもりでもいた。



でもあれって、限られた枠の中でのことだったんだなあ、と振り返ってみて思うことがたびたびあった。世の中には、まだまだ私が知らないことがたくさんある。今思えば、本当に最下層の、日々の暮らしにも困るような人たちの住む場所や彼らの日常、辛い現実など、父はそう言う世の中の残酷な側面に、できるだけ私が触れないよう、守っていたのだと、いまさらながら知った。





守られていたんだな、と、ふとした瞬間に、実感として、ぐっと吐くように苦しくなることもあった。




何も言わずに、喧嘩別れみたいに家を出てしまったことに後悔もあった。




でも、いまさらもう戻れない。




何と言っても、私はもともとあの家に子ではないのだから。




夜中のベッドの中で、過去に楽しかった家族との思い出や、妹に投げつけられた辛い言葉、私を邪魔だと思いつつ、表に出すことはできなくて苦しかっただろう義理の母の、ほんのわずかな隙間に見えた本音など、いろいろなものが混ざり合い、夜は苦しい時間となることが多かった。どんな時だって、辛いことを考える時間は夜にやってくる。暗闇の中で、虎にように。





遅れてきた反抗期と、自立心、それでも世間を少しずつでも知り、自分の手で自分の世界の端っこをグイっと押してちょっとずつ広げているような手応えが、当時の私にはあった。




振り返ってみると、あの時は、本当に必死に背伸びをしていたのだな、と感じる。言い換えればそれは、大人になろうとしていた、と言うことなのだろう。




『コウモリの森』での日常に少し慣れた頃、夜中に目を覚まし、あれこれ考えすぎていた私には、男の人の世話が加わったことは良い方向に働いた。



けが人の世話と、体の回復を考えてあれこれ食事のメニューを考えるのは、大変だった。だから1日の終わりにはいい感じにエネルギーを使い切って、夜はぐっすりと眠った。



何より、今日はどんな食事を出そうかな、と気がつくとそのことばかり考えていた。そう、楽しかったのだ。





いろいろなスープを試したが、彼が一番喜んだのは、多分「ミネストローネ」だと思う。




玉ねぎとセロリをザクザク切って、にんじん、じゃがいも、ベーコンを入れる。コツは野菜の大きさを揃えること。スプーンですくった時にはみ出ないよう、しっかりと角切りにすることだ。



「ミネストローネ」に短めのシェルパスタを入れて、一緒に煮たものを出した時、彼はしみじみと




「…美味い」




と言った。





その声は、「ミネストローネ」のトマトの香りと一緒に部屋の空気に立ち上り、私の中にふわりしみこんで消えた。




ああ、これは彼の、故郷の味なのかも、と私は思った。




その頃から、私と彼は少しずつ、体の調子や食べ物のこと以外についても話すようになっていた。




「アイザック」



「え?」



「俺の名前だ」



「アイザックさんと呼んでも?」



「アイザックで構わない」



私は改めてアイザックを見た。目つきは相変わらず鋭いし、目の下にはまだクマが消えていない。血液を一気に大量の失ったせいで顔色もうんと悪い。



それでも、以前に感じられた険のようなものが取れた。




その翌日、私は剃刀カミソリを肌に当てる許可をアイザック本人に取り、温めたタオルで十分肌を蒸してから、伸びていた彼のひげを丁寧にそった。



さっぱりとしたその顔は、私が時々森で見かける、体の一番大きな、銀と青色をした綺麗で力強い狼のリーダーに似ていた。

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