初夏

第9話遠雷

さっきまで明るかったのに、にわかに空がかき曇り、叩きつけるような雨が振り始める。



今日は少し遠くまで、ルーカスからの外出許可が出たのでヴォルフと散歩に出てきたのだ。



私とヴォルフはミズナラの森を抜ける。大きなミズナラの樹の下まで来て雨宿りをした。



遠雷が聞こえる。



その時だ。ヴォルフの鼻先きがまるで糸で引かれるように一点を向くと、ひくひくと動いた。



その次の瞬間、私は叫んだ。




「え、ちょっと!何で!!」



ヴォルフは、木陰の雨宿り場所から急に飛び出す。



そのまま道の向こうにある川の方へ走って行ってしまった。あっという間に見えなくなる。



すっかり大きくなったヴォルフは、見た目はすっかり狼だ。



普段は従順な「イヌ」をやっているが、時々野生の勘が何かを告げるのか、森の中で不意にいなくなる事がある。



また遠雷が聞こえる。それと獣の遠吠えが重なる。




「これはまさか、狼…ではなくヴォルフ!?」




ヴォルフは堂々と遠吠えをしていた。よく通るまっすぐな声だった。



おそらく、ヴォルフは私を呼んでいるつもりなのだろうけれど、うっかり本物の狼が呼ばれて出てきたらどうしてくれるんだ。私は慌てた。



私が住む「コウモリの森」には、野生の狼もいる。どんぐりが豊富なので、それを食べる熊だって住んでいる。





濡れるのは嫌だったが、本物の狼に出くわすのはもっと嫌だった。私は思い切って、雨宿りの木陰を出た。あっという間に雨が私の全身を叩いた。



出る前は少し勇気がいったが、全身が濡れてしまうとそれにも慣れた。



私はヴォルフの声のする方角に、全力で走った。







森の中を流れる川が、ここのところの雨で増水している。




危険なので、しばらく近づかないようにとルーカスにきつく言われていた。



果たして実際の川に来てみると、木で出来た小さな橋がほぼ水没していた。



その橋のたもとにヴォルフの背中が見えた。川の流れに頭を突っ込んでいる。




「ヴォルフ、危ないよ!戻っておいで!」



私は言ったが、その声は激しい雨音でかき消される。



よくみると橋のたもとの柱に、ひっかかるように何かがあり、ヴォルフは懸命にその「何か」を鼻で押しているのだった。




「ヴォルフ…それはもしかして、人?」





よく見るとそれは確かに人だった。少し背の低い、でも体のぎゅっと引き締まって見える男の人だった。



遠目でもわかる、あれは何かしら「訓練」を受けて鍛えない限り、絶対にそうはならない筋肉のつき方だ。


うつ伏せの姿勢で、柱を抱くように、その人は倒れていた。




身につけているのはおそらく外国のもの、と思われる兵士の服だ。





コウモリの森がある街は、国境が近い。国境では3つの国が境界線を接している。その分、複雑な事情が色々あり、外国の兵士が大勢、街にやってきて長く滞在することもあった。



以前、この3つの国の間で紛争が起こり、多くの兵士が傷つき、この街に運ばれてきた事がある。



父は兵団に呼ばれ、負傷兵の治療に当たった。



その頃、私はまだ小さな子供だった。それでも、父がしばらく家に帰ってこなかったり、帰ってきても街の顔役の人たちと、居間で夜遅くまで話し合っていたのを覚えている。



それは主に、大人の男たちで、全員とても険しい顔をしていた。ガスランタンに照らされた彼らの横顔は、いつもより疲労の色が濃く、暗く見えた。




時々、兵士が何かの連絡で私の家である診療所にやってくる事があった。



その時、兵士が来ていた制服と同じ濃い紺色のコートだ。



倒れている兵士の背中から肩にかけて、まっすぐな切り傷が見えた。右腕の上腕にも包帯が巻かれていて、そこには血が滲んでいた。





ヴォルフはピスピスと鼻を鳴らしながら、男の人の頭の匂いを嗅いでいる。



まずはこの人を川から引き上げなければ。私はそう思った。下半身が水に浸かっている。体温がどんどん奪われてしまう。




私は男の人に駆け寄って、怪我をしていない方の腕をとると、力一杯ひっぱった。ズルズルと、どうにか男の人を岸に引き上げた。私は言った。




「私、ルーカスさんを呼んでくる。ヴォルフはこの人のそばにいてあげて」




私がそういって、元来た道を振り返った時、遠くに人影が見えた。




「ルーカスさん!」




「エマ!雨がひどいから迎えに来てみれば、その人は何?」




「川の中に倒れていました、息はあります。この人、ひどい怪我をしてる」




「運ぶわよ!」



私とルーカスは、男の人の両脇を抱えて家に向かった。







男の人は右腕と背中に大きな傷を負っていた。ナイフのような、鋭利な刃物で切られた傷だった。




背中の傷はかなり深く、出血量も相当なものだった。元々は浅黒い肌の人だったのだろうが、男の人の顔色は、真っ青だった。




私は化膿止めと痛み止めが入った膏薬を作る。



傷口に塗った時、薬がしみたのか、意識はないはずの男の人が呻き声を出した。




「痛いと思いますが、我慢してください。鎮痛薬も後で出しますからね」




男の人がうっすらと目をあけた。黒い虹彩には力なく、焦点が合わない視線がふらふらと私の頭の上あたりを漂う。ひょっとして目が見えていないのかも、と私は思った。




「今、あなたの怪我の治療をしています。ここには危害を加える人はいません。だから安心してください」




一言一言を、しっかり区切りながら私は言った。今は少しでも、この人に安心して欲しいと私は思った。




男の人は黙って、そのまま目を閉じた。



ルーカスと一緒に、男の人の濡れて汚れた服を脱がせる。これが結構大変だった。濡れた服を、意識のない人から引き剥がすのは、結構な力仕事だった。



みるとルーカスも、険しい顔をしていた。額に汗が浮かんでいた。



ようやく服を脱がし終えると、今度は全身を温かい濡れたタオルで拭う。



男の人の、よく鍛えられた腹筋が見えた。体の前の方にもたくさんの傷跡が見えた。いくつかは体の深いところまで到達したであろう痕があり、それを見て私は胸が痛んだ。



兵士は過酷な職業だ。前線に駆り出される、末端の兵士は特に。



私は、川の水や泥で汚れた男の人の体を丁寧に拭いた。服で隠しきれなかった手の甲や、顔にいくつもの擦り傷がでいていた。痛そうだった。



「川を流される人は、途中で岩に当たったりして、こうやって体に細かい擦り傷を作るものなの。でもこの人はまだ少ない方よ。きっと川に落ちてすぐ意識を失ったのね。暴れたりすると、もっとたくさん傷ができるから」




ルーカスがそう、私に説明してくれた。




男の人の顔も、擦り傷だらけだった。




若い男の人だった。20代前半くらいだろうか。この人のお母さんや、恋人が、この傷だらけの顔を見たら悲しむだろうな。




出来るだけ傷跡が残らないように、と願いつつ私は男の人の顔を拭き、傷薬の軟膏を塗った。



背中の傷はルーカスが縫った。



その手つきが正確で、しかも速いことに私は驚いた。




とにかく必死だった。今思えば、ルーカスと二人で、見知らぬ外国人と思われる男の人の体を隅々まで点検し、汚れている箇所は拭いたり、洗ったりもした。傷ついている箇所には軟膏を塗った。



それはそのまま、その人の体を隅々まで見たことを意味する。



私も当時は、思えばまだ16歳の少女だった。全身裸の男の人の体を拭くことに、抵抗がなかった、と言えば嘘になる。




でも今は、そういう場合ではない…と自分に言い聞かせながら、黙々と私は体を拭いた。




全身ずぶ濡れで、怪我をしていて、その上全身泥だらけなんて、もし自分だったら、やっぱり嫌だと思うから。




何より、父と一緒に往診に出かけていた時は、こんな風に患者さんの体を一緒に見ることはなかった。あくまで私は父の荷物持ちのようなものだったし、助手と呼べるほどの仕事はまださせてもらえていなかった。




だから、これが私の、本格的に誰かの「治療」に参加した初めての経験となった。今振り返ってみても、これは実に印象深い出来事として、私の心に刻まれている。




私は何度もお湯を変え、丁寧に男の人の体を清めた。そうこうしているうちに、煎じている鎮痛薬がいい具合に煮詰まってきた。



「おいしくはないと思いますが、頑張って全部飲んでください」



私はマグカップに薬を入れると男の人の上半身を支えた。少しずつ、むせないように、角度を変えながら薬を流し込む。なんとか薬を飲み干した男の人は、そのまま、ぐったりと横になった。



そのまま彼は、眠り続けた。








降っては止み、止んでは降り、を繰り返していた雨が上がった。




私はその日、台所でアサリを洗っていた。



前の日に、ルーカスが珍しく街へ出て、買ってきたものだった。



「アサリのスープが食べたい、トマト味の」



というリクエスト付きだった。




ルーカスはその日も、朝から森へ入っていた。朝起きると、昼食までには戻るから、という伝言が黒板に書かれていた。




私は昼食の準備に、とアサリをこれから白ワインで蒸し、まさに出汁を取ろうとしているその時だった。




鍋を取ろうと振り返ると、ヴォルフがそこに座っていた。そのまま踏み出すとヴォルフの尻尾を踏んでしまうため、慌てって出した足を引っ込めようとした私は派手に転んでしまった。




「う、うわああああっ!」




そしてアサリを床に派手にぶちまけてしまった。



「ちょっと!音も立てずそんなところにいるとびっくりするじゃない」



ヴォルフは私が転んだことなどまるで気にせず、ゆさゆさと尻尾を床につけたまま左右に振った。そして口を開けたまま、金色と青い目で私を見つめた。



「何かあるの?」



私はたずねた。




ヴォルフは立ち上がると、台所を抜け、倉庫も抜け、倉庫の出口のドアまで来ると振り返って私をみた。



その様子が「ついて来て欲しい」と言っている風に見えた。



倉庫の先には私の寝起きする離れがある。その離れは今、一時的に、先日川で拾ってきた、怪我をした男の人を寝かせているのだった。



嫌な予感がした。




気がつくと、私は駆け出していた。

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