第8話春の終わりに
手始めに私は、玉ねぎとニンニクを薄切りにする。
玉ねぎの薄切りは好きだ。玉ねぎをひたすら薄く切ることに集中する時、私は無心になれる。
ニンニクも皮をむいて薄切りにする。
玉ねぎと一緒に炒めると、さっと良い香りが立ち上った。
匂いにつられて目が覚めたのか、いつの間にか子犬が起き出して台所にやってきていた。
「お前、実は結構もう大きいでしょう。ミルク以外の食べ物も少しは食べられそうかな」
子犬は鼻先をじっと玉ねぎとニンニクが入った鍋に向ける。時々、鼻をヒクヒクさせている。
「匂いだけでごちそうなんだね」
私は言った。
「犬はネギを食べられないよ。お前にはジャガイモとニンジンを煮てあげるから、そこで大人しく待っていなさいね」
玉ねぎを飴色になるまでしっかりと炒める。せっかちな私はいつも、飴色の一歩手前で「もういいや!これ以上やると焦げてしまいそうだ!」とブイヨンをここで加えてしまう。
でも、そこで焦りに負けてしまうと、スープには中途半端なコクしか生まれない。
これは、私が魔女の助手見習いとして、初めて魔女に出すスープなのだ。ベストを尽くさないわけには行かなかった。
玉ねぎを炒めるかたわら、ジャガイモとニンジンを小さく切り、片手鍋で煮ることにした。柔らかくして潰せば、子犬の離乳食として使えそうだった。
根気よく、焦げ付く一歩手前まで玉ねぎを炒める。きれいな飴色になったところに小麦粉を加える。
本当ならここでバターとチキンブイヨンを加えたいところだけれど、バターは高級品なので、一応許可を取った方がいいかなあと思い、ひとまず使うのはやめておいた。
ブイヨンもなかったので、代わりに細かく刻んだベーコンを加える。これでも十分、おいしいだしが取れるはずだ。
水を加えて沸騰させる。隠し味にチーズの皮を加える。
塩を加えて味を見る。限られた材料で作ったにしては上出来だ。食べる前に卵を落として、炙ったパンを添えれば立派な昼食になるだろう。
ほっと一息ついたところで、居間のドアが開く音がした。ルーカスが帰ってきた。
*
「あら!いい匂いね!」
ニコニコしながらルーカスが台所にやってきた。
私は言った。
「今日は仕事中に寝てしまって申し訳ありませんでした。それと、昼食の準備で台所と倉庫にあった食材を使わせてもらいました」
ん、とルーカスは頷くと足元を見た。子犬がルーカスを見上げて、尻尾を床につけて左右にフリフリと振っていた。
その姿が小さな置物のようで、私は、仕事中の失敗を詫びている最中にも関わらず、ちょっと笑ってしまった。ルーカスも、少し笑った。
「この子も元気になったようね。きっとお腹いっぱいになって、よく眠ったからね。あなたはこの子に添い寝していたのでしょう?」
そう言うと、ルーカスは、ばちん!と私にウィンクしてみせた。閉じたまぶたには真っ青なアイシャドウが塗られていて、その鮮やかさに私は目を奪われた。
そう言うことにしておいてあげる、と言うことなのかなあ、と私は曖昧な笑みを浮かべた。
「昼食の準備をしてくれていたのね。それでは早速、いただきましょう!私はもう、ものすごおおくお腹が空いているのよ!」
嬉しそうに両手を顔の前で合わせると、ルーカスは机の引き出しから小さなテーブルクロスとナプキンを取り出した。それを長椅子の前のサイドテーブルに丁寧にかけた。
「少し狭いけど、今日はここで良しとしましょう」
ああ、この人は食事の時に、ちゃんとテーブルを整える人なんだな、と私は思った。些細なことだったけれど、私は初めてルーカスを「好ましい」とちゃんと思えた。
テーブルクロスとナプキンをしまっている場所を今覚えたので、次からは私がテーブルセッティングをやろう、と決めた。
卵をスープに割り入れて、半熟になるまで温める。半熟卵のオニオンスープだ。
それをルーカスは「おいしい、おいしい」と言いながら、パンに浸してあっと言う間に3杯もお代わりした。
体が大きい人だから、これだけで足りるかなあ、と「ベーコンを添えたオムレツも、作ったら食べますか?」と試しに聞いてみると
「いただくわ!」
と即答だった。
私は台所で卵を2個使ったふわふわのオムレツを作った。ベーコンも少し、厚めにカットしてステーキのように焼いた。ルーカスはそれもぺろりと平らげた。
「…台所にある、バターとブランデーとお砂糖を使って良ければ、デザートにリンゴのフランベもお出しできますが?」
「まあ素敵!エマさんはデザートまで作ることができるのね!ぜひお願いするわ」
うふふ、とルーカスは笑った。
その笑い方が、なんだかとっても可愛らしくて私もつられて笑顔になった。
不思議な感じがした。
何だろう、この人は「コウモリの森の魔女」と呼ばれる人で、しかも男の人だ。派手な化粧とアクセサリー、話し方も独特だ。
声は完全に男の人なのに、なぜか甘い。
世界中の「乙女」という概念を凝縮して、発酵させて長い間寝かせたような、独特の愛らしさがこの人にはある、と私は思った。
もちろん、まだ会ったばかりのこの人のほんの少しの側面しかまだ見ていない私が、これでルーカスのこと全面的に信用するには、まだ判断材料が足りなかった。
それでも、と私は思う。嘘でもいい、偽りでその場限りのハリボテでもいい。何か裏があっても構わない。赤の他人の笑顔が持つ優しさが、私にはしみた。
ルーカスの甘さは果物の砂糖漬けと同じだ。頭の芯まで痺れるほど甘い。
その麻薬的な甘さに、しばらく私は酔っていたかった。
自分の奥にある、本当はまだ痛くて仕方がない心の底にある傷を負った箇所からは、まだ目を背けていたかった。
経験的に、そんなその場しのぎのやり方は、後で何倍にもなって自分に返ってくることを私は知っている。
それでも傷に目を覆い、現実にはとりあえず一旦目をつむり「考えないようにすること」をその時私は、心から欲していたのだ。
私は台所でリンゴを薄切りにすると、バターとブランデー、砂糖を使ってリンゴのフランベを作った。
砂糖を焦がしたキャラメルが美味しい!とルーカスは笑顔でデザートまできれいに平らげた。
見事な食べっぷりだった。
誰かが自分の作った料理を、美味しそうに食べてくれるのを見るのは気持ちがいい。
父の家にいた頃、料理は料理人を兼ねたメイドの役割だった。その人は40代半ばの女性で、若い頃、ご主人について色々な外国を旅して周り、その先々で料理を身につけた人だった。
御主人が若くして亡くなり、彼女は料理の技術を生かして、料理人兼メイドとして多くの家を渡り歩いたと言う。
「この仕事一本で、一人息子を無事、学校まで卒業させたのが自慢」
といつも言っていた。
私が彼女から料理を習うのを、義理の母は嫌がった。
料理はメイドのすることだし、そのために雇っているメイドなのだから、と言うのがその理由だった。
私は料理上手なメイドの彼女の、さっぱりとした性格が好きだった。
腕一本で、世の中を渡っていく一人の女性として尊敬もしていた。
何より、料理を習うことで、診療所の患者さんの健康管理に活かせるのではないか?と私は考えていた。
薬草は、貼り薬にしたり、軟膏にすることもあるが、やっぱり煎じて「飲む」と言うのが一番多い。
結局、口から入って体に色々な影響を与えるのであれば、食べ物だって同じだろう、と私は踏んでいたのだ。
「息子がお腹を壊した時には、ジャガイモをすりおろしておかゆにしましたね。ジャガイモは、胃腸の弱った人には、とてもいいんですよ」
とか
「野菜のコンソメ、野菜の持つ滋味をしみじみ味わうのにあんないいスープはありませんね。体の弱っている人、仕事が忙しくてゆっくり食事の時間が取れない人、赤ちゃんにだって自信を持って勧められますよ。お嬢さんが小さい頃、風邪をひいた時には少しとろみをつけて、ジュレにしてお出ししましたっけね」
とか、色々実用的な話を聞くのも楽しかった。
家では義母が嫌がるので、あまり私の作った料理を家族に振舞うことができなかった。
なので父について往診に行った際、患者さんの家で料理をさせてもらいながら、私は腕を磨いていた。
体が不自由だったり、具合が悪くて料理がままならない人の家の台所を借りては、私は病気の人でも飲みやすいスープを作ったり、保存の利くおかずを作って置いてきたりしていた。
父は苦笑しながら黙認してくれていた。
ルーカスに昼食を出し、自分も食べるかたわら、子犬には柔らかく煮たジャガイモとニンジンを、スプーンで潰してペースト状にしたものを与えた。
子犬はガツガツと食べると、皿を名残惜しそうに、なん度も舌で舐めまわした。
作ってよかった。満ち足りた気持ちで、私はルーカスに食後のお茶を入れてあげた。
*
結局、家族の誰かが私を探しにくることもなく3ヶ月が過ぎた。
基本的に私は、コウモリの森の中の、かなり限定された場所でのみ仕事をしていたので、街に出ることもなかった。
時々、人がやってきて傷ついた動物の治療を依頼してきたり、あとは週に1度、食料品や身の回りの品などをまとめて配達してくれるおじさんがいた。
その場合も、その人は倉庫の前に品物を置いて、代わりにルーカスからのいくつかの品物を入れた木箱を積んで運んでいくだけで、直接のやりとりはなかった。
私の必要なものはルーカスにいうと、配達人に注文してくれた。
ルーカスもよく、森の奥に出かけたまま、半日以上戻らないこともあった。家にいる時も、書斎にこもり、本を読んだり、居間で時々、書き物をしている時間が長くあった。
書き物をしているときのルーカスの横顔は、とても張り詰めていた。声をかけてはけない雰囲気があった。きっと大切な仕事をしているのだろう。
そういう時、私は別室で薬草の整理をしたり(この家にはものすごい量の薬草のストックがあった。薬問屋が開けるのでは?というくらい種類も豊富だった)、掃除をしたり、畑の世話をしたり、5羽いる鶏に餌をやったりしながら過ごした。
子犬は結局、依頼主の男の子の家では飼う事が出来ないので、ルーカスが引き取ることになった。
実際世話をしているのは私だ。痩せてガリガリだった子犬もすっかり肉がつき、でもそれ以上にぐいぐい全体が大きくなった。
今ではすらりとした、足の長い、見た目は小さな狼だ。
もう普通の犬の大人くらいの大きさなのだが、ルーカスが言うには
「この犬、まだまだ大きくなるわよ」
とのことだった。
命名権を私にくれたので「ヴォルフ」と名付けた。狼にそっくりな外見で、オスだったからだ。
「そのまんまねえ。もうちょっとひねりの入る余地はないの?」
とルーカスには笑われたが、
「わかりやすいのが一番だから、これでいいんです」
と、私は取り合わなかった。
5羽いる鶏全部に、いちいちアプロディーテだの、アルテミスだの、ペルセポネだの、たいそうな名前をつけるルーカスのセンスの方が狂っているよ…と私は密かに思っていた。だいたい鶏の顔なんて、悪いが私には、全部同じにしか見えない。
街の人に不用意に接触しなくていいし、街へ行く用事を言いつけられることもない。
まるで守られているような不自然さのある3ヶ月だった。
そう、本当に不自然だった。
そう言う不自然さにある「裏」を考えないほど、私はお人好しでもなかった。
そして実際には、少し後になり、私はこの不自然に守られているような環境についての「理由」を知ることになる。
世の中はちゃんと最終的に、帳尻合わせをするように出来ているのだ。
でもそれはまだ先の話。
私はかりそめの平和を十分享受していた。その間に「仮の見習い」から「本採用の見習い」となった。
そして森が初夏を迎える頃、私は将来を左右する、ある出会いをすることになる。
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