第2話邪魔者は森を歩く
柔らかい下草を踏みしめながら、私は森の奥へと進んだ。
進んではいるものの、果たしてこの先に魔女の家があるのか?ということについては、確証がまるでない。
それでも進み続けたのは、歩みを止めた瞬間、嫌な感情が襲ってくるとわかっていたからだ。
止まると、泣いてしまうだろう、と思った。泣くのは嫌だった。
確かに前日に起こった出来事は、ひどいものだった。それでも、その「嫌なこと」に打ちのめされて、ぐずぐずと泣くのは性に合わない、とその時の私は考えていた。
今思えばそれこそが、弱さと意固地になっていた証だと思うのだけれど、それでも精一杯の意地で、私は涙がこぼれないようにと、ぐっと両手のひらを握りしめていた。
その拳を、体の両側でブンブン振りながら、一歩一歩足元を踏みしめるように、私は歩いた。
森の中は薄暗かった。中に入ってしまうと、背の高い木々が朝日を遮り、それでも夜とは違った薄ぼんやりとした明るさがあった。
振り返ってみれば、あの「嫌な出来事」があって、相当に打ちのめされていた私は、この薄暗さに守られたのだと思う。
あれほどの出来事があった後で、もし明るい空の下を歩き、照りかがやく太陽のもとに晒されたとしたら、冗談ではなく、かなりの高確率で、私は死にたくなっていたと思う。
だってそうだろうよ、と私は思う。
世の中で一番惨めな人間は私だよ…という気分の時に、世界中が美しく輝き、自分以外の全てが祝福されているような空気に自分がさられたとしたら。
間違いなく、惨めな気持ちは10割増しになるだろう。
そして確かに、この経験は私の人生の中で、その先の方向性を決める重要な分岐点となった。
その後、私は、当時の私にように理不尽に打ちのめされ、怒り、惨めに傷ついた人たちを相手にすることも多い職業につくことになるのだが、この時の経験が、すごく役に立つようになる。
もちろん、人生の方向性が変わるような、悲惨な出来事や経験など、しないに越したことはない。
「どんな経験も無駄にはならない。人生の糧になる」
などと、綺麗事を言うのは簡単だ。
そう言う人には、戦争によって家族を奪われたり、侵略者に妻や恋人を目の前で強姦されても、同じことが言えるのか?と私は言ってやりたい。
それは安全圏にいる、勝ち組のたわごとだ。
世界は理不尽に満ちている。
神様が見ていて、最後に悪人に正義の鉄槌が下る確率は、現実世界ではうんと低い。
継子をいじめた継母が最後に倒されるのは、物語の中での出来事であり、世の中にハッピーエンドが満ち溢れている、と言うことは現実にはないのだ。
16歳にして、私はそうした世の中の現実を知った。
一方で、踏みつけられた側の人間も、決して踏みつけられたままではなく、それなりに自分の場所を見つけてはそこでかけがえのないものを手にしたりする。
それはまるで、悪意に満ちた剣でなぎ倒された垣根の花が、散らされてもしぶとく種だけを飛ばし、行き着いた森の中でひっそりとまた花を咲かせるようにだ。
*
森の道を歩くことに集中している間は、余計なことを考えずに済んだ。
少しでも立ち止まれば、その瞬間、私の思考は全て、前の日に起こった「嫌な出来事」に持って行ってしまわれる。
前日に起こった「嫌な出来事」。
「あなたなんか、本当はこの家の子じゃないくせに!」
泣きながら、妹はそう言った。
普段は愛らしい妹の前髪が、涙で頰に張り付いていた。美しい瞳が悲しみで暗い色に染まっていた。
何より、そうさせた原因が私である、と言う事実が衝撃だった。
「…ごめん」
私はそう呟いた。
そして、私が16年間、家族だと信じて疑わなかった父、義理の母、そして妹との間に、私は何の血の繋がりもないとことが明らかになった。
*
私の家は、小さな診療所を営んでいた。
父は医師で、義理の母はその助手を務めていた。祖父の代から続いた診療所で、町の人たちはもちろん、遠くの村からも父の治療を求めて人がやってきた。
父は次男で、本当は家を継ぐ予定ではなかった。父の兄に当たる人が若い頃になくなり、父が後を継ぐことになったらしい。
父の兄には男の子が一人いた。私の年上のいとこにあたるその子と私が、大きくなって結婚するが決まっていた。父としては兄が継ぐべきだった診療所を、兄の家族に返したかったらしい。
事態がややこしくなったのは、そのいとこを妹が好きになったことだ。
妹は、父の再婚相手である義理の母と父の間に生まれた子で、私より3つ年下だ。
私の母は、私を産んですぐに亡くなったと聞いている。
その後、後妻として義理の母がやってきた。
小さい頃、私は義理の母を実の母と信じて疑わなかったが、大きくなるにつれ、だんだんとその辺りの事情を薄々と察するようになった。
義理の母は、決して私をいじめたり、ないがしろにするわけではなかった。それでも、どうにも私より、妹の方が好かれているような気がする…という感じはあった。
小さい頃、それをうまく言葉にできなかった。
してはいけない、と思っていた。
危ういバランスをかろうじて取っている家族の均衡が、私の感じていることを言葉にすることで、あっけなく崩れ去ってしまうことを私は理解していた。
それでも家の相続のことや、後継ぎのこと、そして結婚のことが話題になるにつれ、何となく、という形で、私は義理の母が自分の本当の母親でないことを知った。
でもまさか、と私は思う。
「まさか、父とも血の繋がりがなかったなんてね」
妹は泣き続けていた。
義理の母が慌ててキッチンから走り出てきた。顔が青ざめていた。義理の母は妹を叱り、そのせいで妹はさらに火がついたように泣き出した。
義理の母は私を見て、ごめんなさいね、と呟いた。
でも、その何ともいえない表情を見て、私は悟った。
それは、何かしらの感情を押し殺し、蓋をしている人の顔だった。
義理の母が妹を抱きしめ、その背中を撫でる手は優しかった。それを見て私はひどく傷ついた。
妹が言ったのは、おそらく、義理の母が今まで言いたくても、言えなかったことなのだ。
そのことは、思いの外、私を抉った。
私は部屋に引きこもり、往診から帰った父が、部屋の前で私の名前を何度も呼んだ。
その後ろで、義理の母は父に何度も「ごめんなさい、私が不注意なせいで」と謝る声が聞こえた。
普段は厳しく、口数が少ない父の、私へ呼びかける声が妙に優しいのも、辛かった。
*
頭上に影が曇り、私は顔を上げた。ハイタカが飛んでいた。
森が開けて、目の前に草原が広がった。
草原の先にはいくつか分かれ道があり、そのどれもが、再び暗い森へと続いていた。
「これじゃあ、どの道を行ったらいいか、わからないなあ」
私は途方にくれた。
その時だった。
先ほどのハイタカがぐるぐると旋回しているのが見えた。
ハイタカは鋭く、一声鳴くと、まっすぐに草原の一番奥にある細く小さな道へ向かって飛びたした。
私は、そのハイタカについていくことにした。
今更、道に迷ったところで困るわけでもない。
私にはもう、帰る家もない。家族だと思っていた人たちも実際には家族ではなかった。私一人が消えたところで悲しむ人もいないだろう。
今思えば、かなりやさぐれた考えではあったけれども、16歳である日突然「お前は本当はこの家の子ではない」と言われるところを想像してほしい。
父は、父ではなかった。
結婚予定だったあのいとこも、父の実の娘である妹と一緒になるのだろう。義理の母だって、父とすら血の繋がりのない私が、何食わぬ顔で家を継ぐよりも、そっちの方が嬉しいはずだ。
そう考えると、多分、私は最初から義理の母にとっては目障りな存在だったに違いなかった。そんなことも知らずに「お母さん」なんて、能天気に甘えていた自分が、今は死ぬほど馬鹿らしかった。
知らないうちに、私は邪魔者だった。
父も、義理の母も、妹も、私は大好きだった。
それなのに、私の存在自体が邪魔だったなんて、酷い話ではないか。
そんな風に、黒い感情を頭にぐるぐるさせたまま、足元ばかりを見ながらひたすら早足で歩いていた。
いつの間にか私は小さな家の前まで来ていた。
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