372 ムハドの視線

 「くっ……」


 ステージ下、オルハンの握っていたウォーターアックスが、手から離れ、床に落ちる。


 ――バシャァァ……!


 ウォーターアックスは、ただの水となって、床に広がって大きな水溜まりをつくった。


 ――ポタッ、ポタッ……。


 そして、オルハンの、服越しに染み出てしまった血が滴り落ちて、水溜まりと混ざり合う。


 胸の開いてしまった傷跡の出血のせいか、オルハンは攻撃を繰り出せない。


 「く……そが……!」


 歪んだ顔で、悔しそうにオルハンが言う。


 そしてその光景を、対峙していた例の男が、ステージの上から見下ろしていた。


 「あの人、あんな深手を負った状態で、あんなに戦っていたのか……!?」


 例の男は、戸惑いの表情を見せていた。また、手負いの相手に追い討ちをかけるような素振りは、見えない。


 「オルハン!!」


 同じサロンの仲間であろうメンバーが数人、オルハンに駆け寄った。


 アブドは執事を呼んだ。


 「もうそろそろ頃合いだろう。司会に今の状況を引き取らせよ。あと、散らかったので、清掃を。マナの照明灯も建て直すように」

 「はっ!かしこまりました!」


 執事が司会のもとへと向かう。


 「お~い!マナト~!」


 ステージの上にいる例の男に、声をかける者がいる。


 アブドが声のするほうを向くと、服越しでも分かるよき肉体に、無精髭を生やし、背中に大剣を背負った、仲間と思われる男が立ち上がっていた。


 「マナト!すげえじゃねえか!」

 「いや、ケントさん、僕、なにもしてないですよ!」

 「いつ気づいたんだよ?相手が手負いだったってこと」

 「いや気づいてないですよ!てか、助けてほしかったんですけど~!!」


 仲良さそうに、会話している。浅くない間柄であることは、間違いない。


 執事が、アブドのもとへ戻る。


 「君」


 アブドは執事に、指差しながら言った。


 「はっ!」

 「あの騒いでいるサロンは、どこのサロンだ?論功行賞では、見かけない顔ばかりの気がするが」

 「あのサロンでありますか……」


 執事も、彼らを見た。


 「……申し訳ございません。私も、存じ上げません」

 「そうか……」

 「対抗戦に出ているなら、どこのサロンかは受付の紙で分かります。調べましょうか」

 「たのむ」

 「はっ!」


 再び、執事は退席した。


 「……」


 ……あの男は。


 立ち上がって会話している、無精髭の男の、2つ隣に座って、周りに話しかけている男に、アブドは目線を向けた。


 《なぁ!みんなも、そう思うよなぁ!?》


 先に、テント内の皆に号令をかけるかのように言った男だ。


 ……人心を捉えた一言だった。あの一言で、場外乱闘を皆が見る空気がつくられてしまっていた。あの男が、いまの環境をつくったのだ。


 そう、アブドが思った瞬間だった。


 「……なっ!?」


 その男が、ゆっくりと振り向いて、アブドを見つめ返してきた。

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