303 ジン、現る

 「……」


 窓の外を眺めていた男が、ゆっくりと、アブドのほうに振り向いた。


 黒い髪の毛は、毛先に少しクセがあり、それ以上に黒い瞳が、マナ石の灯火に照らされ、輝いている。


 その表情は、かすかに笑みを含んでいて、穏やか。


 あまり、ヤスリブではみかけない、薄めの容姿。見た目から察するに、20歳ほどか。


 黒いシルクの下着の上に、藍色と白色2色の肩掛けと腰巻きを身に付けている。右の腰には、ダガー。


 ムスタファの娘の証言していたものと、完全に一致している。


 公宮の外には、護衛。中には、召し使いと執事。中に誰かが侵入していれば、大騒ぎになっていないわけがない。


 誰も騒ぎ立てている者は、いない。


 ジン以外の、なにものでもなかった。


 ……ぶ、武器がない……。


 思ったが、アブドの書斎には、ダガーもボウガンも、なにも置いていなかった。


 「……」


 アブドのこめかみに、汗が滲む。


 対して男は、襲ってくるわけでもなく、アブドを見てただ、微笑んでいる。


 「……」

 「こんばんは、公爵。お初にお目にかかります」


 男が口を開いた。高くもなく、低くもなく、敵意を感じさせなることのない、穏やかな声。


 かえって、気味が悪い。


 「勝手に書斎にお邪魔したことは、お詫びいたします。申し訳ございませんでした」

 「わっ、私を、殺しに来たのか……!」

 「まさか?そんなことをする訳ないでしょう」

 「と、とぼけても、無駄だ。お、お前がジンであることは、分かっている……!」


 声を絞り出すようにして、ムハドは言った。


 男は微笑んだまま、まばたきをすると、ムハドから目を反らして、窓に右手を置いた。


 「安心してください、公爵」


 窓の外を眺めながら、男は言った。


 「知っていますか?ジンは意外と、人を殺すことに関しては、そこまで積極的では、なかったりするんですよ。まあ、我々の種の中には、ジン=グールというものもいるので、そう思われるのも、無理ないですがね」

 「で、では、お前は、いったい、なにをしに来たのだ……!」


 アブドは、少しずつ、平静さを取り戻していた。


 ……もう、覚悟を、決めるしかない。


 「……少しは、落ち着きましたでしょうか?」


 男が窓の外を眺めたまま、アブドに問いかける。


 「大丈夫。本当に、私は、あなたを殺そうとか、どうこうしようとか、思っていないのですよ?」

 「ジン、なぜ、私の前に、現れた?それも、ジンと、分かるかたちで」

 「……」


 逆に、男に、アブドは問いかける。


 「一度、私と同期である、ムスタファの娘にも、接見したそうではないか」


 アブドの発言に、一瞬ピクッと、男の肩が動いた。


 「その時も、なにもせずに去ったというではないか。お前らは、いったい、なんのために、なにを目的に生きているのだ?」

 「……」


 窓の外を眺めていた男が、振り向いた。


 こちらを見る、その黒く輝く瞳が、閉じられる。少し上を向くと、男は、両手を広げた。


 「……聞こえますか……?」

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