CASE3「神様、私は生き残ってしまいました」
『どうして私ばっかりこんな目に合うんだろう』
そう考える癖があった。
良いか悪いかで言えば、悪いのだと思う。悪癖だ。だって、溢れ出した言葉には、だいたい私が間違っていると否定される。そうやって悲観的に捉えるのもきっと、私の悪い癖だ。それを誤魔化して笑うのも、同調してくれた相手に茶化してしまうのも、同じ。
「辛いのはあなただけじゃない。みんな苦労してる」
たしかに、その通りだと思った。
でも、違うのだ。
私が辛いことと、みんなが辛いこと。
その程度に限ったって、違う。
「大丈夫、こっちなんか……だから」
たしかに、大変そうだと思った。
でも、違うのだ。
どっちが辛いかなんて競うつもりはない。
どっちも辛いと分かち合いたかっただけなのだ。
それさえも、違うのかもしれない。
いつだって、そうやって、迷っている。
私にとっては分かち合いたいだけでも、相手にとってはとにかくマウントを取って優越感に浸りたいだけなのかもしれない。私だって、もしかしたらそうやって他人や世界の仕組みを理解した気になって、達観したつもりで優越感に浸りたいだけなのかもしれない。
結局のところ、それを誰かと分かち合うことなんてできない。
だから今日も、どうして私ばっかりこんな目に合うのだろうって、息を吐く。
それで一人ぼっちの押し問答は終わり。
本当の気持ちなんて、誰にも言わない方がいい。
でも、でも、だって。
今回ばかりは、言わせて欲しい。
「どうして、私ばっかりこんな目に合うんだろう」
*
他人に期待することを諦めて、常識やら理想やらで塗り固めた仮面を被り続けた私にも一度だけ、本心から他人と辛さを分かち合うことができた。
誰にも期待せずに生きてきた私が唯一、他人に誇れるのは〈誰にも期待しないこと〉だった。そうすれば誰にも裏切られたような気持ちを持たずに済む。自分にさえ期待を持たなければ疲れることもない。期待も失望もしなければ、人は機械のように何事もなく生きていける。
私にとって、彼女の存在は異質だった。正直、憧れていた。
気のいいフリをする私と違って、彼女はあまり感情を表に出さない人だった(いや、女子高生たる私たちが計算高さの上で姦しくしていることを鑑みれば、私も同じようなものなのかもしれないが)。
彼女を構成するすべてが、彼女の周りに壁を作っているようだった。墨汁がしみ込んでいるみたいに重たげな黒髪は、少し俯けば目を隠してしまう。真一文字に結ばれた唇は呼吸さえしているかどうか怪しくて、机に突っ伏して眠っているときに背中が上下しているのをみて驚いたほどだ。誰かと話しているところなんてみたことがない。授業中でさえ、先生も余程じゃなければ諦観を込めた視線を送って終わる。今日、そんな彼女が初めて口を開くのをみた。
冬休み明け初日、学校に来ての感想は「しんどい、帰りたい」が半分。もう半分は「彼女を見れて嬉しい」だったと思う。今年度に残されたイベントはバレンタインデーとホワイトデーに卒業式、張り詰めた空気を誤魔化すみたいに浮き足立った話題ばかりで疲れてしまう。
そんな風俗をイヤホンで拒絶して、彼女は今日も足早に改札を抜け、電車組の中では誰より早く席に着いて机に突っ伏していた。
「おはよう、神崎さん」
彼女は応えない。自分の机に突っ伏したまま、背中を上下させている。それでいい、それがいい。
それでこそ、私の神様だ。
私は彼女を責める周囲を嗜めず、ただしすかさず話題を変えた。私のせいで彼女が責められるのは嫌だけど、彼女を庇うだけの勇気はない。
誰も嫌わないし嫌わない代わりに、誰にも好かれないし好きになれない。そんな私が私自身、嫌いだけど、その他大勢よりはマシ。それで良いと思ってた。
思っている、つもりだった。
「死にたい」
その文句自体は口にも耳にも馴染みがあった。冗談めかした「死ね」も、悪態代わりの「死ね」も、テストの点が悪かったり先生に呼び出されて「死にたい」も、私たちにとって定型文の一つに過ぎない。だから、忘れたと思っていた定期入れは鞄の底にしまっていたと気付いた瞬間、ぽろりと、零れても何らおかしくはない。
でも、違うのだ。
私が取り繕うべき他人は周りにいなくて、誰も冗談めかしてなんかいなくて、勘違いを恥じたわけでなければ誰かに良い訳をしたかったわけでもない。それなのに、決壊したそれは溢れて止まなかった。
一月の夕暮れは放課後とタイムラグなくやってきて、教室に一人忘れ物を取りにきたはずの私は、気づけば自分の上履きを蹴り飛ばしていた。一人で靴飛ばしをするのなんて初めてだ。
鮮やかな西日に照らされた小さな影が黒板の上を横切る。鮮やかにくるくると回転して見えるのは、時計の秒針よりもゆったりと私の時が流れているからだろうか。
いや、違う。
空飛ぶ靴が目指す影には、開いたままの出入り口がある。そこには彼女が呆然と立っていた。彼女と目が合い、私は目を見開いた。
彼女は私しかいない教室の扉に手をかけて、泣いていた。ぽろりと零した私の辛さに、彼女はほろりと涙を零したのだ。真一文字に結ばれた唇は歪んでいた。泣いているくせに悲しそうに怒っているようにも見えないのは、そのせいだ。
それが笑い泣きという類の複雑な感情の発露だと気付くと、空飛ぶ靴は彼女の顔を打った。私の時間が動き出し、……出したのに、上手く声を出すことが出来ない。涙を拭いて、なんでもないフリをしなくちゃいけないのに。何よりまず、彼女に謝らなければならないのに。先に口を開いたのは彼女の方だった。
「なら、私が一緒に死んでやる」
彼女の声はきっと、周りへの期待なんて端からしていない小さくて低くて、何より芯のあるものだと想像していた。でも、違った。彼女の声は今までに聞いたどんな音よりも大きく私の中に響く、綺麗な芯を持っているのに可愛らしい、フルートみたいな高音だった。
真っ白な額を赤く染めて、泣いているくせに、彼女はやっぱり強かで、神様みたいに強かで、ズルい。
私は、何も言わずに彼女の手を握った。彼女の手のひらは男子みたいに硬い皮で覆われていた。彼女も何も言わずに私の手を握り締めて、私を教室の外へと連れだした。
誰も私たちを止めることはできない。
私たちは下校する同級生たちの波に逆らって、下り列車に乗り込んだ。終点で降りて、少し歩けば活火山の頂上に繋がるロープウェイがある。時折、学校の屋上に忍び込んでいる神崎さんには、屋上から落ちても生き残ってしまうリスクが高いとしっていたのだろう。
きっと一人でも、真の理解者が隣にいてくれるなら、そこが地獄だろうと煉獄だろうと問題ない。「辛いのは私だけじゃない」「アイツの方が辛いだろうし」そうやって不自由ながらも自由に生きていける。そんな唯一の人間が、一緒に死んでくれるというのなら、私は喜んで死を選ぶ。
下り列車は空いていて、車両の中には私たちしかいないみたいだった。手はずっと繋いだままで、かける言葉は選べない。
そうして、私たちは飛び降りた。焼身自殺は難しいというけれど、飛び降りならば痛みも一瞬だ。飛び降りる先が火口であるならもっといい。だって、手足の曲がった死体が人の目に晒されることもないのだから。
最後、もう一度だけ彼女と目が合った。
私がまだ死に対して不安を抱いているのが恥ずかしくなるくらい、彼女は満面の笑顔で風を切っていた。
彼女よりも先の意識がこときれた。
*
そうして、私だけが生き残ってしまった。
天国でも地獄でもなく、病院のベッドの上で目を覚まして。天使でも悪魔でもなく、父親の平手打ちに迎えられて。警察の取り調べも彼女の死について以外は何も耳に入ってこなかった。
どうして私ばっかり、こんな目に合うんだろう。
*
それからしばらくして、私は死の案内人になった。
死にたい。そういって私の元を訪ねる人と一緒にあの火口を目指して、いつだって私は生き残ってしまう。これは一人生き残った私への罰だ。私は、地獄のような現実で生き続けなければならない。
沸騰する岩石の中から彼女が呼んでいる。でも、死んでしまったら二度と彼女に会えないから、せめて彼女が寂しくないように、友達をたくさん送るのだ。
いや、違う。
向こうにいって自由になって友達を作れるようになっても、彼女には私だけの神様でいて欲しい。いつか、私だけの役割を全うして一緒になったとき、普通に友達になれたらいいな。
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