10 実像と名像
——また首が痛くなってふと目線をずらした。
そして視界の端に映ったのは部屋の片隅の古い旅行鞄だ。あいつがどこかに行く時、こいつも必ずくっついてくるからいつの間にか見慣れてしまった。むしろこれ以外の鞄を持って出かけることなど皆無に等しかっただろう。それほど気に入っていたのだと勝手に思っていたのだが、この乱雑な置き方を見ると案外そうではなかったらしい。バックルも止まっていなければ半開きの状態だ。よくこの形でバランスを保ているなと感心してしまう。
手に持っていた原稿を文机にほうって鞄に手を向けた。引き寄せて中身を見れば、一枚の写真が入っていた。それ以外は何も入っていない。
「…俺と、萩原と、佐々木と、江里崎か」
俺と佐々木が立っていて、それぞれの前に萩原と江里崎が洋椅子に座している。まるで家族写真のようだな、と息を吐いた。
この写真のことは覚えている。確か大學三年の春のことだ。研究室に残るのかそれとも社会に出るのか、はたまた全く別の道を進むのか。どれを取ったにしてもこの絆は忘れまいと皆で写真館に行ったのだった。四人立って映るのは背丈を鑑みたり姿勢を考えたりしてみてもあまり推奨されなかった。故に二人座ることになったのだが、これでまた言い合いが始まった。もちろん江里崎と佐々木の二人でだ。二人は仲が良い時はいっそ地獄まで共にするのではという風なのに、そうでない時は犬と猿も可愛く見えるほどなのだ。この時はちょうど後者の期間で、時期をずらそうかと提案したのだが意地の張り合いは両者とも天下一品だ。互いが互いの都合で予定を取りやめるなど言語道断だったらしい。
いざ写真館について、二人が気に入らなかったのは、佐々木が問答無用で江里崎を座らせにかかったからだ。そして言い方がまずかった。
『貴様は見た目が弱々しいから立っていると不似合いだ』
対して江里崎が
『貴方は日本人にしては高身長が過ぎますからね。たまには縮んでごらんなさいな』
写真屋を前にしての喧嘩は荻原によって止められた。結局椅子を一つ取った彼が強制的に江里崎も座らせてこの一枚が出来上がったのだ。
驚くかもしれないが、俺たち四人が一緒に写ったものはこれ一枚しかない。他はそれぞれか、二人ないしは三人。集まる機会は多く、佐々木が小型のカメラを持っていたから四人で撮る機会は散々あったのに、何故か。一枚だけだった。不思議といえばそうだ。そしてこの唯一を久しぶりに見ることも。いつも手帳に挟んでいたはずなのだがいつの間にかなくなってしまっていた。落としたのだろう。だがそれがいつかもわからないのが口惜しかった。大切なはずの写真の行方さえわからないほどに自分が日々を無為に過ごしていたのかと思うと、悪寒が背中を走る。
その無為は、一人夜の電車に揺られているような、なんとなく淋しくてそこはかとない亀裂が、電車の軋む音によって助長されるように…
過ぎていく電灯や家々の灯りがたまらなく恋しくなってしまうのが、あるいは無感動に過ぎていく。豪勢な形容詞では到底表せないのだろうな、と独言る。
手漉き硝子から入り込む日が橙になってきた頃。
その頃にはもう写真を文机の片隅に置いて残りの詩篇を片付けていた。ちょうど『錫ばかり』と名付けられたそれを読み終わったところで、何故だろう、いや何故もなにもない、詩の内容が名前だったからだ。閃光が貫く。
名前だ。
“それ”を“それ”たらしめるための、誰が言ったか、この世で最も短い呪い。
俺が俺であることを証明するための手段、あいつがあいつであるために必要な記号。
…紙が音を立てて皺を作る。
その詩には丁寧な字で繰り返し繰り返し同じ名前が綴られていて、繰り返し繰り返し同じ名前が否定されながら織られていた。他のものとは全く違って、悟す詩篇は明確に宛名がある。
奴の書く詩たちは不特定多数の人間に向けて、自分の内側を曝け出すものがほとんどだ。今見た景色をそのまま文字に落とし込み糧とする。吐き出した奴は本になり世に羽ばたく。そして人々はなんと素晴らしい感性、なんて哀しき人、自らはまだ正常であるか、もっと堕ちているか、確認し本棚に納めるのだ。自らを切り崩して食い扶持を稼いでいる様は確かに憐れむべき姿だろう。だがそれすら天才に見えるのだから世間は存外阿呆らしい…
そんな詩で。特定の誰かを書くことは、ほとんどありえない。
私も、僕も、俺も、貴方も、貴女も、そのほか一人称二人称。
結局、自分なのだから。
奴の文字は第三者を表さない。もはや絶対的なルールで、ある、はず、なの、に。
どう見たってそれは宛名だった。それがまだ俺たち四人のどれかならわかる。言いたくても言えないことを秘かに書くことなんて誰にでもあることだ。言いたい事は割と口にする荻原にしては珍しいなと思って終わるだけで。
荻原伊沙楽
繰り返されている名の一つ。紛う事なき奴の名前だ。
「…なんなのだ、この」
見覚えのある字面だった。どこかで絶対に見た事のある三文字だ。だが頭は警鐘を鳴らしている。これ以上その名を見てはいけないと、うるさい。
思い出してしまっては
意味がないのだから、と。
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