ボクの5ヶ月間の話
江久地
ボクの5ヶ月間の話
彼女と出会ったのは春のことだった。
四月。クラス替え。二年目の風景。見知った顔と見知らぬ人たち。
彼女はボクの隣の席だった。この時はまだ初めて同じクラスになる彼女の名前は知らなかったけれど、そんなほぼ初対面のようなものでも、ただ、その横顔が見惚れてしまうほど綺麗だったことはよく覚えている。
彼女はいつも友人と共にいた。
いわゆる陰キャで休み時間は常に文庫本を読んでいるようなボクとは真反対な人種だった。授業が終わるとクラスの中心的な女子たちがいそいそと窓際を占領し、彼女は、一拍遅れてそこに合流する。その様子だけ見ていれば、彼女は取り巻きのようなものだと判断できるかもしれない。
そうじゃないと知ったのは、七月のことだったけれど。
それについて話すには、やっぱり、順を追う必要がある。
彼女と初めて言葉を交わしたのは授業中だった。何のことはない、ただ彼女が落とした消しゴムをボクが拾って渡しただけのことで、
「ありがと」
「う、うん」
会話なんて言ってもこの程度のものだった。
けれど、不思議とボクは高揚していた。理由はわからない。直接的な因果関係があるのなら、この高鳴りはきっと、彼女に由来しているのだろう。
煌めく瞳が、揺れる髪が、しなやかな指先が、零れた吐息が。その、どれかが、あるいは全てが、ボクを魅了したのだとしたら。
分不相応ながら、ボクはきっと彼女に恋をしてしまったのだと思う。
一度でもそうだと思ってしまうと、もうそうじゃないと思うことはできなかった。
その日から彼女は。ボクにとって、一方的な特別になった。
彼女と二度目の言葉を交わしたのはそれからしばらくしてだった。
五月。体育祭もあるからか、活動的な女子たち、体育会系な男子たちが一層はしゃいでいるような気がする時節。そんな中にいても彼女はやっぱり一歩引いていて、なんだか、それを不思議に感じたボクは、体育の時間前、校庭に向かう彼女本人につい聞いてしまった。
いま思えば軽率すぎた。たかが隣の席で、一度だけ会話したことがある(それも忘れていて当然なほど些細なものだ)程度の関係で、そういう、ともすればパーソナリティに踏み込むようなことを聞いたのは、あまりにも礼を失していた。
けれど彼女は。一瞬だけ猫みたいに目を丸くしただけで、すぐに薄く笑ってボクにこう言った。
「ねえ。昨日の進路指導の話、覚えてる?」
そうとだけ言われても、ボクにはどこを指しているのかわからなかった。この時期になると進路指導担当の教師がありがたい話をする時間が増えてくる。その間陽キャは陽キャどうしキャッキャするので話を聞いていないが、陰キャはキャッキャする仲間がいないので話の内容を比較的真面目に聞いているのだ。まさか彼女がこちら側だとは思わなかったし、事実間違いなく陰キャではないだろうけれど、ほとんどを聞いていた長い話のどこを指すのか、そこが不明瞭だった。
「志望校は早く決めるに越したことはないって話」
ボクが何も聞くまでもなく、彼女はそう言う。
「目標が定まっているほうがそのためにやるべきことがはっきりしてくるってところ。つまりは、そういうことなんだよね」
いたずらっぽく笑って、彼女は前方の集団に合流していった。
志望校が決まっているから、そういった振る舞いをする、という意味ではないだろう。であれば何か──何か彼女の中での生き方だとか、クラスの渡り方だとか、そういうものの指針が定まっている、ということなのかもしれない。
だから彼女は一歩引く。
前に出ないことの意味なんて、きっと、本人にしかわからない。
そんなところも彼女の魅力なのだろうか、などと考えるボクは前に出ようにも出られない、真正で普通の、何の変哲も無い陰キャだ。
普通であるボクの特別である彼女は、本当に特別なのだろうか、なんて考えることは、きっと、おこがましい。
彼女との距離が縮まったのは、雨が降る日のことだった。
六月。梅雨入りが発表されてしばらく。先月まで活気づいていた面々も湿気には勝てないようで、今日も今日とて校内には陰鬱な空気が沈殿していた。
そんな日の放課後。
部活に所属していないボクはそのまま帰ろうとし、昇降口に来たところで、彼女を見かけた。いつも一緒にいる女子集団が今日はいない。そんな不自然も気にはなったが、もっと気になったのは彼女が傘を持っていないということだった。
迎えを待っているのだろうか。
それとも、雨が止むのを待っているのだろうか。
今朝は最近にしては珍しく雨が降っていなかった。厚く空を覆う雲を見れば今にも雨が降りそうだったので、ボクは傘を持ってきていたのだが、まさか、彼女は持ってきていないのだろうか。
それもなんだか考えづらい。なんせ梅雨だし、彼女も折り畳みの傘くらいは常備しているだろう、なんて考えたところで、彼女の横を一組のカップルが通り過ぎていった。そしてそのまま相合い傘で帰っていく。ずいぶんと見せつけてくれるものだ……
彼女もそれを視線で追っているのが背後からでもわかって、ついでに、憂鬱そうに溜め息をついているのもわかってしまった。
だから。この時のボクに沸き上がった衝動は──きっと、強迫観念だった。
「……あのさ。傘、忘れたの?」
声に彼女が振り返る。きょとんとしたその表情には明らかに「どうした?」と書かれていたが、何故かボクはそんなこと気にも留めず、自分でも不思議に思うほど積極的に──まるで何かに突き動かされているかのように、続ける。
「あ、その……さっきからずっと、ここに立ってるから」
「見てたの? ずっと」
「ああ、いや、ずっとってほどじゃないけど! ……三分くらい」
「ここで三分は長いでしょ」
そう言って、彼女は苦笑いを零した。つられて渇いた笑いを返していると、せめて引かれなくて良かった、という安堵が湧き上がる。
「傘。忘れたの」
「そうなんだ。へぇ……」
へぇってなんだよ気持ち悪い反応だな、と思わず自責。顔まで気持ち悪くなっていないか触って確認しようとしたが、突然そんな反応をする方が気持ち悪いのではないかと、思い留まる。
そして──意を決して、こう言った。
「……もし良かったらさ。その……傘、一緒に、入って行かない?」
きょとん、と音が出るならこんな表情をするだろう。彼女はそんな顔でボクを見つめている。当然だ。ボクでもボクみたいな人間から声をかけられようなんて期待はしない。もっとかっこいいイケメンとかを期待する。
でも、彼女は。
彼女はきょとんとしたその表情を一瞬で消すと、代わりにいたずらっぽく微笑んだ。
「いいよ」
その笑顔は、いつも女子たちといる時にはしない笑顔だと。
いつも彼女を見ているボクは知っていたから。
「相合い傘、しよっか」
一方的だったはずの特別な感情が、彼女からも向けられているのではないか。
そんな思い上がった感情が芽生えてしまったのは、間違いなくこの瞬間だった。
帰り道。緊張して話せないボクを見かねてか、彼女が何かと話しかけてきてくれた。緊張のあまり内容は覚えていない。ああ、とか、うん、とか、そうなんだ、とか、そんな気の抜けた曖昧な相槌ばかりを打っていたことは覚えている。
たまに沈黙が訪れては雨音がやたら大きく聞こえたことも覚えているのだけれど、というのもさておき。
この二度と無いであろう貴重な体験の中でボクが覚えているのは、
「ねえ。キミが良かったらここ、よって行かない?」
ゲームセンターに寄り道したひと時のことだった。
形容しがたい爆音が店内から絶え間なく鳴り響いている。同じく絶え間なく聞こえていた雨音とは大違いで、こちらはさながら電子的な大洪水という感じだった。陰キャのボクには経験の無い環境で、ついどうしたらいいかわからなくなってしまう。
先行して進む彼女が狼狽えるボクを引っ張っていろいろ説明してくれたのが救いだった。やはりこういう場所は女子たちと来る機会も多いのだろう。クレーンゲーム、アーケードゲーム、プリクラ。どれも実際にやったことはないけれど、どういうものかは知っていたし、申し訳ないが、そんなことよりも嬉々として説明する彼女にばかり目が行ってしまった。
「キミはこういうところ来ないの?」
「あんまり……一緒に来る人もいないし、一人で来てもしょうがないから」
「そっか。じゃあこれ、一緒にやろ」
彼女がボクを促したのは一台のクレーンゲームだった。見ると、小さいぬいぐるみがギュウギュウに詰められている。経験が無い自分にとっては的が小さい分難易度も高そうに思えてしまうのだが、彼女にとってはお構いなしのようだ。
彼女はニコニコと笑って「さあて」などと呟きながら、百円硬貨を取り出している。どうやらボクに先んじて自分がまずやろうということらしい。
彼女の操作で動いたマシンは狙いを定めて、白い犬のようなキャラクターのぬいぐるみへと降下していく。ボクの直感はいけそうだと言っていたけれど、アームは綺麗にぬいぐるみの隙間を縫い、何も落とすことはなかった。
「え! 嘘だ今の絶対いけてたでしょー!」
こうムキになって目を見開く彼女も珍しい。じっと見つめていると、視線に気づいたのか、彼女は少し赤くなって操作レバーの前を空けた。……ボクにやれと?
「悔しい。カタキ取って」
「え、でもボクやったことないし」
「こういうのはビギナーズラックが適応される仕様なの! ほらほら!」
彼女に背中を押され、レバーの前に立つ。正直どうしたものかさっぱりだが、こうなってはなるようになれだ。百円硬貨を取り出し、ゲームを開始する。
「そこ! いいじゃんいいじゃんもう少し……まだ、はいそこ!」
こんな感じで彼女のアドバイスがあったおかげか、初めてのボクでも操作はできた(操作すらできないのはそれはそれで問題けれど)。マシンが降り、アームが開き、ぬいぐるみを捉える──
「あ! やったあ!」
結果はなんと大成功だった。彼女が狙っていた白い犬の他に黒い犬のキャラクターもゲット。初めてにしてはうまくいきすぎな気がしたが、彼女の助言もあっての結果だろう。それにしても……と放心していると、彼女が取り出し口からぬいぐるみを取り出し、ボクに渡してきた。
「やったね」
ニッ、と笑い、二匹の犬を差し出す彼女。
けれどボクは、逡巡の末──黒い犬だけを受け取った。
「そっちの白い方、あげるよ」
「え、なんで?」
「お礼。ボクだけじゃきっと……上手にできなかったから」
ぽかんとする彼女は、けれどすぐにまた、あのいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「じゃあこっち来て。お礼のお礼、したげる」
結果として──
お礼のお礼というのは、プリクラだった。
陽の者のみ立ち入ることを許される神聖領域のようなその設備に自分が足を踏み入れるのはもはや罪なのではないかとさえ思えてしまったけれど、ドキマギしながらも、なんとか撮り終えることができた。
盛りの概念もよくわからないままに写真を盛りまくり、できたものを取り出すと、彼女は笑ってこう言った。
「普通の友達みたいでしょ、こういうの」
友達。
その言葉が、虚しく反響する。
彼女はきっと何の気なしに言っただけだろう。けれど、彼女を特別視しているボクには──彼女に特別視してほしいボクには、その言葉は、とても、重かった。
その動揺が顔に出てしまわないように努め、ボクたちは店を出た。
再びの相合い傘。多少の緊張は残るものの、幾分慣れてきたような、そうでもないような微妙な距離感で歩いていると、
「あ」
奥の交差点を横切る人影が目に入った。ボクと直接の接点がある人物ではなかったけれど、それは、見知った顔だった。彼女がいつも一緒にいる女子だ。今日は一緒に帰らなかったのを不思議に思っていたけれど、その様子を見て納得する。
女子は彼氏と思しき男と一緒に歩いていた。
そういう日もあるのだろう。人付き合いとはえてしてそういうものだ……などと考えつつ、ボクは、隣の彼女の顔を窺ったのだが。
その時の、彼女の満ち足りたような表情が、何故だが焼き付いて離れなかった。
彼女。
四月に初めて同じクラスになり、恋焦がれ続けてきた彼女と決定的な関係になったのは、夏のことだった。
七月。うだるような暑さに連日体力を削られ、学期末の試験で精神力を削られる魔の季節。
涼しげな格好をするようになることもあり、開放感が増すこの季節は、つい、心持ちも開放的になってしまいやすい。つまり、ボクはあることに思い至って、ある決心をしてしまった。
当然、彼女にかかわる決心だ。
ボクは常々、彼女を特別な存在だと思ってきた。けれど、彼女がボクに対して同じことを思ってくれているどうかは定かではない。それでも、ボクは彼女に、ボクを特別に思ってほしい。ということは、やはり。
という思考を経て決意した。
ボクは彼女に告白する。
夏の魔力は陰キャをも変えるのだ──
決行は終業式の日だと決めていた。この日ならもしうまくいかなくても、夏休みがクッションとなり心の傷を癒してくれることだろう。傷心状態のまま、平静を装って隣の席に座る、なんて、ボクには到底できっこない。転校を視野に入れてしまいそうになる。
ただ場所だけはもっとこだわれば良かったかもしれない。彼女を呼び出すなら校内がベストではあるが、終業式の日には、全校生徒はほぼ同じ時間に下校する。そんな中人目につかないためには、やはり普通の教室ではダメだと思い、旧校舎の寂れた教室を指定したのだが……やはり、ムードに欠けるだろうか。
などと考えながら、足を止める。
今日は終業式の日。
そしてここは、旧校舎のある教室の目の前。
指定した時間よりも早めに来たから、彼女はまだいないだろう。深呼吸を一つ──しようとして埃っぽさにむせ、咳払いを一つ挟み、戸を開けた。
ふわり、と。生暖かい風に吹かれ、髪が舞い上がる。
そこには、彼女が。
窓際に佇む、彼女の姿があった。
頭が真っ白になる。なんで先にいるんだ? どうしよう、まだ、どう言ったらいいか何もまとまっていないというのに。
教室の入り口で動揺していると、窓際の彼女はまた、いつもみたいにいたずらっぽく笑った。待っていてくれるのだろうか、何も言わずに陽光を背にする姿は、神々しささえ湛えているように見えてしまう。
そして、ボクは。
ボクは、一歩踏み出した。教室に入り、彼女のもとへ歩く。
目の前で足を止め、ボクは口を開いた。
「あ、その……今日はありがとう。こんなところに呼び出して、その、ちゃんと来てくれて」
「うん」
「えっと……ああ、ごめん、その……」
「うん。待つよ」
彼女のその言葉に、急に身が引き締まる。そうだ。ボクは待ってもらっているのだ。決心して、呼び出して、待ってもらっている。ここまで行動したのは──自分自身なのだ。
なら、ここまで来て怖気づいている場合ではない。
だから、ボクは。
「好きです。付き合ってください」
自分なりの、最大限の誠意を込め、こう言った。
彼女は。
「うん」
彼女は。まだ、いつものように微笑んでいて。
「私はね」
そして──突然ボクに駆け寄ってきて、ボクを押し倒した。
衝撃に思わず吐息が漏れる。彼女は馬乗りになっていて、ボクは、身動きをとることができない。鼓動が、伝わってしまいそうなほど、心臓が、跳ねる。
彼女の顔は、逆光で、よく、見えない。
「私はね。誰かにとっての、普通でありたいんだ」
彼女の声が、やたらと……遠くから聞こえる気がする。
「私が求める人は、私を普通でいさせてくれる人なの。……私を求める人は、みんな、どこか普通じゃない人たちばっかりだから」
不思議と、納得してしまう自分がいた。
だからか。普通の女子高生は、友達といるから。友達のいない女子高生は、きっと、一般的には普通じゃないから。
だから彼女は、自分を普通の女子高生たらしめる存在を。
クラスの女子たちを求め、その集団に自らを溶け込ませていたというのだろうか。
彼女を求めるボクは普通じゃない。それは納得できる。クラスに一人の友達もいないボクがいまさら普通だなんて主張するつもりはない。
彼女を求めたこの衝動が。彼女を特別だと感じたこの情熱が、彼女に由来すると言われても。それすらも彼女の魔性の魅力だと思えば、納得できない話ではない。
ただ、ボクが恐れたのは。
ボクが一番言われたくなかったことは。
「だから……キミは。誰かの特別には、なれないの……?」
「そうだよ」
「でも……恋人になるのは、普通なことじゃ……っ!」
「確かにそう。それ自体は普通なこと……それ自体は、私が一番好きな、普通の形」
ふと、先月のあの日を思い出す。
雨の降るあの日。彼女とゲームセンターに言ったあの日。
帰り道にカップルを見つけた時の、彼女のあの表情。あれは思い返せば、自分の好きなものを見た時の純粋な感情だったのか。
「だからごめんね」
彼女はすうっ、と息を吸う。
「私は、女の子であるあなたとは、付き合えない」
ボクが特別だから。
女の子を好きになる女の子は、一般的ではないから──普通では、ないから。
彼女はボクと、同じ存在になることはできないから。だから、拒否する、と。
吐き出された言葉は。ボクが一番聞きたくない言葉だった。
ボクが彼女の前からいなくなったのは、セミの声が一番騒々しい時期のことだった。
八月。夏休みも終わろうかという時期に、親の仕事の事情で引っ越すことが決まってしまった。自分だけ残り続けることも考えたのだが、いろんな事情が重なり、それも難しくなってしまった。
もともとさして友人もいなかったし、未練も特に無い。強いて言えば彼女のことだけがトゲのように胸に刺さっているが、いまさらどうしようもない。
あの日。
あの後、どんな言葉を交わしたのかはあまり覚えていない。あの雨の日のこともそうだ。自分は都合の悪いことはすぐに忘れてしまう体質なのかもしれない。けれど、少しだけ、忘れてしまいたく無かったとも、思う。
この日は先生に引っ越すことの報告に行く日だった。
首筋に風の涼しさを感じながら学校へ行く。まだまだ暑いが、風が気持ちよさを増している、ような気がする。
先生は特別何も言わなかった。そうか、とか、大丈夫だ、とか、向こうでは元気で、とか、ありきたりな言葉をかけてくれたのは、多分先生なりの優しさだったんだと思う。
帰ろうとしたところで、彼女と出会った。
「あっ! あ、その、あ、えっと……!」
つい、そんな反応と共に逃げ出してしまいそうになる。けれど彼女が先に、
「髪、切ったんだね」
と言ってきたので、それもままならなくなってしまった。
先月までボクの髪は長かった。風が吹けばふわりと舞い上がってしまうほどの長さだったそれは、いまやショートボブになっている。別に失恋したから切ったというわけではない。暑いと邪魔だから切ったのだ。断じて、断じて失恋したから切ったとかではない。断じて。
そう(暑いと邪魔の部分だけ)答えると彼女は、あのいたずらっぽい笑みを浮かべ「似合ってるね」と言った。
「今日はどうしたの? 部活?」
「……引っ越すことになったの。それを、先生に報告しに」
「……そうなんだ」
彼女が寂しそうな表情になる。
そんな顔、今まで一度も見たこと無かったのに。
彼女をいつまでも見ていられず視線をそらすと、ふと、彼女のカバンに目が留まった。キーホルダーにしては大きい何かがついている。白い色のそれは、よく見ると、あの雨の日に取った犬のぬいぐるみだった。
全身の血が沸き立つような錯覚。
違う。勘違いするな。彼女はボクを特別視してつけているわけじゃない。友達と、そう、普通の友達と手に入れたものだから、つけているだけで、決して、ボクなんかとは、その意味合いの大きさは、決して、同じではないと、冷静になれと、自分に言い聞かせる。
すると彼女も視線をこちらに向けてきた。その先はおそらくボクのカバンだ。そんな偶然のシンクロにさえ胸を高鳴らせそうになる自分に呆れそうになり、かろうじて、平静を取り戻す。
「良かったらこれ、交換しない?」
「……え?」
だから彼女のその提案には、茫然とせざるを得なかった。
どう反応するべきか困っているうちに、彼女は手際良く自分のぬいぐるみを外す。そしてボクのカバンの黒い犬も外すと、あっという間にボクの方に白い犬を、自分のカバンに黒い犬を付け直した。
「ごめんね、今は何もあげられそうなもの持ってないから。せめてもの餞別にって」
「……あ、ありがとう」
どうにか彼女の顔を見て、そう絞り出す。正面から見ても、やはり彼女は見惚れるほどに綺麗だった。
「じゃあね。元気でね」
「……うん、ありがとう。そっちも元気で」
こういう別れのやり取りも、友達であれば普通だろう。
彼女が愛する普通を体現できているのなら。それなら、彼女とは普通の関係でもいい、なんて思える自分はずいぶん現金だと思うけれど。
立ち去る彼女の、見惚れてしまうほど綺麗な──ボクが初めて見たその横顔を見てしまうと。
やはり、彼女の特別になりたかったという気持ちを、捨て去ることはできそうにない。
ボクの5ヶ月間の話 江久地 @ekuchi
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