第101話 Burn the witch(10)

(1)


 水を張ったボウルをシンクに置き、哺乳瓶を浸す。蛇口を捻り、哺乳瓶を流水にさらして熱を冷ましていく。

 慎重に温度を調整し、人肌の温度まで下がったところで水道の水を止める。哺乳瓶をボウルの中から引き上げ、生温くなった水を空ける。

あらかじめ用意していたタオルで表面に付着する水滴を拭く間にも、二階にいるカシミラの泣き声はここ――、一階の厨房まで聞こえていた。

 片付けをさっとすまし、ヤスミンは哺乳瓶を抱えてパタパタと慌ただしい足音で廊下に出る。大階段を駆け上がっている間にも、泣き声は益々もって大きくなっていく。


「お待たせ!」

 ノックも忘れて居間の扉を開け放し、飛び込むようにヤスミンが入室したのと、カシミラを抱くウォルフィが振り返ったのは同時だった。

 椅子から立ち上がり、カシミラをあやしていたウォルフィは、心なしかホッとしたような顔を見せた。

「ごめんね、カシミラ。お腹空いたよね。今ミルクあげるから」

 ヤスミンが長椅子に腰掛けるとウォルフィもその隣に腰掛ける。

 ニプルを小さな唇に宛がえば、カシミラは泣くのをやめ、むしゃぶりつく勢いでくわえ込む。

「あーあ、涙と鼻水で顔がひどいことに……。折角ママ似の可愛い顔なのに台無し!ミルク飲んだら、あとでお姉ちゃんがきれいに拭いてあげるねー」


 んく、んく、と喉を鳴らし、必死にミルクを飲むカシミラにヤスミンは優しく笑いかける。父の腕に抱かれる幼い妹にミルクを与える姉の姿は、見るも微笑ましい光景である――、が。


 ぶふっ!と空気が破裂したかのような不快な音が発生し、穏やかだったウォルフィの目付きは険しいものへと一変する。

 音の発生源は、ローテーブルを挟んだ向かい側――、三人と対になる長椅子に座るアストリッドであった。


「う、ぶふふ……、ヤスミンさんはともかく、ウォルフィ、ウォルフィが……、パパリンしてるのが、面白すぎて……。うひゃひゃひゃひゃ!」

「その呼び方はやめろ」

「えー、いいじゃないですかー、パーパリーン」


 尚もあひゃひゃひゃ、と、美しい顔に似つかわしくない笑い声を出す主に、ウォルフィは殺気立った。カシミラを抱いていなければ、即座に立ち上がって拳骨叩き落とすか、蹴りを入れていただろう。

 ウォルフィが身動き取れないのをこれ幸いに、アストリッドの笑い声は止まらない。


「ちょっと!アストリッド様もパパもつまらない口喧嘩はやめてってば!!」

 ヤスミンはうんざりして語調を荒げる。不穏な空気の中にあっても、カシミラはひたすらミルクを飲むのに集中している。

「もう、二人共遊んでないで、今晩の件について話し合わなくていい訳??」

「あぁ、そうでした!ウォルフィのパパリンぶりに気を取られて忘れちゃってましたー!」


 今夜遅く、シュネーヴィトヘンことリーゼロッテ・シュライバーが医療刑務所から元いた刑務所に移送される。

 しかし数日前、何者かから『東の魔女の護送車を襲撃する』という犯行予告の電話が元帥府にかかったのだ。


「再判決で死刑取り下げが可決された直後も至る所で暴動が起きましたからね……。何が起きてもおかしくはない、と言えば、おかしくはないですが」

 膝の上についた両肘で頬杖をし、アストリッドは神妙に考え込む。

 先程までのへらへら笑いは見る影もない。

「移送日や時間帯を知るのは軍関係者と自分とウォルフィ、ヤスミンさん、レオノーラ様、マドンナ様のみなのに、外部の人間が何故知ってるんですかねー??」

「誰かがテロリストと通じ、機密を漏らしたのかもしれない」

「一応、リヒャルト様には事前に報告した上で極秘調査してもらっていますが、なかなか……。あぁ、こんな時、ポテンテ少佐……、いえ、イーディケ様が動かせればもっと確実な情報が得られるのですが」


 肩で大きく息をつくアストリッドに、ヤスミンは目を伏せて頭を何度か振ってみせる。『未だに記憶を取り戻しきれていないフリーデリーケさんに密偵の役目は荷が重いです』と言いたげに。

『えぇ、分かってます』と、ヤスミンを安心させるべくアストリッドは視線で応えた。


「……たられば話をしたところで何になる。要は、元帥の命に従い、あんたと俺とであいつをしっかり護ればいいだけの話。テロリストが只人ならともかく、万が一魔法の使い手だった場合は軍の護衛だけでは心もとないからな」

「はい、ウォルフィの言う通り……、ですね」

「犯人捜しはあくまで軍部の連中の仕事だ」

 空になった哺乳瓶を胸に抱え、ヤスミンが不安げにウォルフィを見上げている。

 腕の中のカシミラは空腹が満たされ、ぷくぷくと唇を鳴らしている。

「今度こそ、俺はあいつを、必ず護り抜く」


 二人の娘に、自分自身に――、誓いを立てるように、ウォルフィは己に強く、強く言い聞かせた。






(2)


 窓から差し込む西日が板張りの床を、壁一面に飾られた子供達の絵を紅く染め上げる。施設関係者が退去し、壁から外されることのない絵は日に焼け色褪せ始めている。拙く、色褪せた絵に囲まれる室内同様、子供用の背の低い長机に腰掛けるエヴァとヘドウィグの頬も紅く照らされている。

 否、彼女達の顔色が紅く見えるのは何も西日だけでのせいではない。今し方警備兵から受けた密告に対する怒りの感情によるもの――、も、少なからず影響している。

 感情任せの暴言を堪える余りに目尻と口角を吊り上げるエヴァに、眼前に立つ警備兵は恐れ戦いていた。彼の畏怖を悟ったヘドウィグは宥めるべく、辛うじて唇だけで笑ってみせた。それでも皮肉めいた笑みにしか見えなかったかもしれない。


「報告ご苦労。お前さん、今日はもう上がりだろう??さっさと帰りな」

「はっ!失礼します!!」

 警備兵は二人に敬礼すると、速やかに退室。

 直後、わざと大きな音を立ててエヴァが長机から立ち上がり、床を力一杯蹴りつけた。

「アイス・ヘクセよ、落ち着け。苛々したところでどうしようもないだろう??」

「うるさい!!」

 エヴァはヘドウィグを振り返り、怒りでギラギラさせた猫目で睨み、叫ぶ。

「何故私達が嘘つき呼ばわりされなければならない!!」

「仕方ないさ、彼らは地中から放たれている邪悪な気を感じ取れないのだから、疑われても……」

「これだから軍人は大嫌いなんだ!!おまけに、あれ程あの場所に火気を近づけるなと注意喚起したというのに、隠れて煙草を吸う奴らがいるとは!!我々を舐めるにも程があるぞ!!」

「だから、落ち着けと言っている」

 ヘドウィグも長机から立ち上がり、エヴァのすぐ正面まで近づくと痩せた肩を両手で軽く掴む。振り払う隙を与えることなく、真っ直ぐに向かい合う。

「アストリッドを介してリヒャルトに報告するのさ。警備兵の士気が明らかに下がっている、厳しい指導を、と」


 真剣そのものの眼差しで見つめられ、エヴァの怒りは急速に鎮まっていく。


「……ふん……」

 不機嫌そのものの顔付でそっぽを向き、ヘドウィグを突き放すようにして我が身から引き離す。まだ何か言いたそうだけれど、返す言葉が上手く見つからないでいるようだ。

「あぁ、分かった分かった!!とりあえず、今日は半陰陽の魔女も南の魔女もここには来ないから、明日伝えるしかないな!!」

「できれば、アストリッドの方に伝えよう。そうすればリヒャルトの耳にもいち早く届く筈……」

「その必要はない」


 突然、扉の外――、廊下から響いてきた声に二人の会話は遮られた。

 警戒して身構える間にも扉が開き、警備兵の中で最も年配の男がずかずかと、続いて彼よりもずっと若い警備兵が二人、入室してきた。


「何だ、貴様ら。ノックもせずに入ってくるとは不躾な……」


 ここでエヴァは言葉を切り、目を大きく瞠った。

 ただでさえ青白い顔から血の気が引いていく。


「動くな、元北の魔女。放浪の魔女を撃たれたくなければ」


 年配の警備兵はヘドウィグの後頭部に銃口を突き付けながら、エヴァを囲んで同じく銃を向ける若い警備兵達に言い放った。


「こいつらを拘束しろ」

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