第46話 Every Single Night(5)

(1)



 ――遡ること、十数時間前――



 裸のままヘッドボードに凭れ、目の前の肢体を後ろから抱きしめる。

 白い首筋を唇でなぞり上げ耳朶に齧りつけば、肩を揺らして吐息を漏らす。

 露わとなった胸に触れようと手を伸ばし――、たが、包帯を巻いた右手の甲を抓られ、切れ上がった群青の瞳が咎めるように睨み上げてきた。


「傷口が開きますよ??右手で触らないでください」

「…………」


 腕の中に収まっていてさえ、瞬時に副官の顔に切り替わるフリーデリーケに閉口しつつ、リヒャルトはすごすごと伸ばした手を引っ込める。左手ならば問題はないのか、と、喉元まで出かかったが、下手なことを言えば怒らせるのが目に見えているので黙っておいた。


「まだ怒っているのか」

「当然です」

「ならば、もう今夜はやめておこうか??」

「それとこれとは別です。魔力を高め合うため、引いては怪我の回復に繋がるのですから」


 フリーデリーケは身体ごとリヒャルトに向き直ると、彼の肩に両手を掛けてゆっくりとベッドに押し倒した。軍人にしては細身だと言われるリヒャルトだが、鍛え上げられた身体は充分に均整が取れている。リヒャルトの上に覆い被さったフリーデリーケは、広い胸から引き締まった腹筋にかけて一撫でする。


「今夜は私が動きますから」 

「…………」


 一〇年前から主従の『契約』を結ぶリヒャルトのみが知る、意外にも大胆な彼女の一面。国の最高責任者と副官の愛人関係――、当人同士にその意識は全くないが――、世間からは間違いなくそう見られるだろう、秘密の関係。

 多忙な生活を送りながらも自宅に使用人の類を一切雇わないのは、偏に彼女との秘密の時間を誰にも知られないようにする為だ。

 ベッドに仰向けで横たわったまま、フリーデリーケを見上げる。上気し始めた肌が何とも艶めかしい。それでも理性を保とうとしてか、唇の端を引き上げてリヒャルトに話しかけてくる。


「本当に……、東部にて、新たに国境守備者の魔女を派遣する、おつもりなのですか……??」


 フリーデリーケは大きく背を逸らし、乱れた呼吸を一旦整える。リヒャルトは身を起こすと、正面からフリーデリーケを左腕で抱き寄せた。その耳元でフリーデリーケは幾分声を落として囁くように告げる。


「ロッテ殿の一件で東方軍の兵達の間で魔女への悪感情は今や爆発寸前です。東方軍の防衛力は一枚岩ではありませんし、下手に新たな魔女を派遣しては却って彼らの感情を逆撫でし、引いては軍の士気が下がってしまいます。どうか、今一度熟考を……」

「君はその話を直接私の口から聞いたのか」

「……いえ、それは……」

「君が噂話を信じるとは珍しい。だが」


 珍しく口籠るフリーデリーケの、腰から背中の窪みにかけてゆっくりと左手を滑らせる。


「君すらも信じさせたこの噂、利用する手はない。ディートリッヒの粛清の話と共に地方の各司令部及びハイリガー殿とナスターシャ殿に、明日にでも伝達するよう手配を。その際、私が来月実施される魔女の国家試験受験者の中から、東部国境守備役の者を選出するつもりでいる、と、付け加えておくといい」

「噂を助長させるのですか。一体何のために……」


 フリーデリーケはリヒャルトから身を離し、批難がましげに再び睨んでみせる。

 リヒャルトは痛い程突き刺してくる視線から一切目を逸らさずに答える。


「ロッテ殿と、ひょっとすると彼女と繋がっているかもしれない、暗黒の魔法使いをおびきよせる罠だよ。ロッテ殿はかつてのスラウゼンの住民を虐殺する程恨んでいたが、東部の地自体には愛着を抱いている。だから、いつになるかは分からないものの、ほとぼりが冷めるのを待って密かにスラウゼンに舞い戻ってくる可能性が高い。と、なると、新たな国境守備者の魔女は邪魔な存在でしかない」

「……つまり、国家試験当日に何らかの妨害を仕掛けにきたところを捕縛する、と」

「勿論、監督役を務めるアストリッド様の許可と協力が前提となってくるがね。それともう一つ、ハイリガー殿の弟子ヤスミン殿を国境守備役の最有力候補と挙げ、受験させようと思う」

「ヤスミン殿を??彼女が何か??」


  ここでリヒャルトは一旦口を閉ざすと、再びフリ-デリ-ケの背を何度も撫でた。沈黙を守るリヒャルトに、フリ-デリ-ケも何も言わずに黙っている。

  やがて、少し迷いを滲ませつつ、リヒャルトは先程の問いに答え始めた。


「ずっと以前、ヘドウィグ殿から『他言無用』を前提として聞かされていたが……。ヤスミン殿は、ロッテ殿とシュライバー元少尉との間の娘、らしい。確かにヤスミン殿は、シュライバー元少尉と面差しがよく似ていると思わないか」

「言われてみればそうですね……」

 リヒャルトに同調するように、フリーデリーケは深く首肯した。

「ヤスミン殿を囮に利用するようで正直気が引けてならないが……。娘が自分の後任者になるかもしれない、と知ったら、攻撃は仕掛けないにせよ何かしらの動きを見せてくる、かもしれない」

「ならば、ハイリガー殿とアストリッド殿にもその旨を伝えておくべきでしょう。囮ではなくあくまで協力を仰ぐ形で伝えれば、角は立たないと思います。ヤスミン殿については……、出自に関わってきますから、どう伝えるべきかハイリガー殿と相談するという形で。内容が内容ですから、近日中に私が南部へ赴き、直接お二人に話してみます」

「……すまないね。君にはいつも面倒を掛ける」

「いえ、もう慣れきっていますし、今後のためにも貴方に憎まれ役をさせる訳にはいきませんから」


 フリーデリーケは苦笑を漏らしながら彼の首に腕を回すと、そっと唇を重ね合わせて言葉を塞いだのだった。






(2)



 ――所変わって、リントヴルム西部国境沿いの街マンハイム、ナスターシャの宮殿にて。



「中央で謹慎を命じられていたアイス・ヘクセ殿の従僕ディートリッヒが、元帥に斬りかかったとかで元帥直々に粛清されたそうです」

「まぁ……、北部と東部で恐ろしい事件が発生したばかりだといいますのに、中央でも……」


 応接間の中央に置かれた豪奢な丸テーブルに座るナスターシャは、三日月に似た形の細い眉を不安そうに潜めてみせる。ナスターシャと向かい合う形で座っているのは、西方司令部を統括する将軍だ。


「それで、元帥は私にどのような命を??」

「ナスターシャ殿には引き続き、シュネーヴィトヘンとアイス・ヘクセの捜索にご協力願いたい、と」


 ここで、扉を叩く音と共に、トレーに茶器を乗せた使用人が入室してきた。

 使用人はきびきびと手際の良い動きで将軍とナスターシャ、それぞれの席にソーサーとカップ、お茶菓子を置き、淹れ立ての紅茶をカップに注いでいく。

 髪の毛だけでなく顔すらも隠す様な、大きな白い帽子と麻布の白いエプロンを除き、黒ずくめの地味な服を着る使用人がいつもの少女ではなく別の者だと気付いた将軍が、「初めて見る顔だな」と、声を掛けて顔を見た途端、息を飲んで表情を強張らせた。


「准将、驚かせて大変申し訳ございません。彼女は生家の火事に巻き込まれたせいで、顔中に大火傷を負ってしまったそうですの。ですが、大層働き者の娘ですから、こうして私の宮殿で使用人として雇うことにしたのです」

「成る程……、そういうことでしたか」

「えぇ、困っている者、特にまだ未来のある若い娘をこのまま放っておくのが忍びなくて……」

 ナスターシャはカップを口元に宛がいながら、目を伏せて力無く微笑んでみせる。

「さすがは『癒しの魔女』と呼ばれる御方。何と素晴らしいお心持ちでしょうか」

「いえ、そんなことはありませんわ。私は只、彼女を少しでも助けてあげたいと思ってしたまでですから。あぁ……、私個人のことはともかくも、シュネーヴィトヘン様とアイス・ヘクセ様の捜索は出来得る限りのご協力をさせて頂きます」


 自らへの賛辞をさりげなく中断させ、ナスターシャは話を本題に戻した。

 話し合いを続ける二人を尻目に部屋から出て行こうとする使用人に、ナスターシャはおっとりと微笑みかける。


「ご苦労様、リザ」


 使用人――、否、シュネーヴィトヘンの肩がピクリと跳ね上がった。

 反応を見逃さなかったナスターシャの笑みが一段と深くなる。

 シュネーヴィトヘンはナスターシャを振り返り、返事の代わりに軽く会釈をすると退室した。

 ナスターシャが何をどこまで知っているのか定かではないし、知りたくもないけれど。大方、白塗りの魔法使いが『リザ』と呼べと吹き込んだのだろう。

 自分を『リザ』と呼ぶのは、かつての恋人だったあの男だけで充分だ。そもそも、今となってはあの男にすら余り呼ばれたくはないが。


 高級素材の絨毯が敷かれた長い廊下を歩く足が自然と速まっていく。

 宮殿の外壁と同じく、室内の壁も淡い黄色と白の二色の塗装が施されており、天井には天使達が輪になって一斉に天に昇る宗教画が描かれている。

 魔女の住まいに天使の絵だなんて、と、鼻で笑いそうになるのを堪えて先を進み、階段を下って厨房がある一階へと降りていこう――、と、階段の柵が見える位置まで進んだ時、目に飛び込んできた光景にシュネーヴィトヘンはあ然となっ

 廊下と同じ絨毯が敷かれた階段には、無数の黒い羽根が飛び散っていたからだ。


「ちゃんと掃除しておきなさいよねー。お客様もお越しになっているし、ナスターシャ様は綺麗好きな方なんだからさぁ」

 いつの間に姿を現したのか、シュネーヴィトヘンの背後にはユッテが佇み、すかさず注意を促してきた。

「……申し訳ありません。すぐに掃除しておきます」


 内心では「わざと自分でやった癖にしらじらしい」と鼻白みつつも殊勝に謝ってみせれば、ユッテはあからさまに見下した目付きでシュネーヴィトヘンを一瞥する。しかし、シュネーヴィトヘンの従順な態度に気を良くしたのも事実で、どことなく満足げに笑っている。

 愛人時代に受けていた、精神的に追いつめてくる陰険な苛めに比べれば、ユッテの子供じみた嫌がらせは面倒と思いこそすれ、さして傷つきはしない。とはいえ、背後で腕を組み、偉そうに仁王立ちし続けるユッテが鬱陶しいのもまた事実。足早に階段を駆け下りて一階の厨房に向かい、トレーを返してから掃除道具を取りに行く。


 数分後、箒と塵取りを手に再び階段を上がると、すでにユッテの姿は消えていたが、僅かな間にまた羽根の数は増え、更には手すりのあちこちには鳥糞までもが付着していた。

 羽根はともかく、鳥糞は自分ではなく仲間の鴉をけしかけてやったのだろうが……、呆れて言葉が出てこないとは、まさにこのことか。嘆息混じりに箒で羽根を拾い集めていく。

 羽根を全部集めた後、急いで箒と塵取りを片付けに行き、今度は水を張ったバケツと雑巾を手に再び階段に戻ってくる。手すりにこびりついた鳥糞を雑巾で拭き落としていき、最後の汚れをやっとのことで拭き終えた時、であった。


「あらあら、今掃除が終わったところなの??」


 准将との話し合いを終えたナスターシャが、彼と一緒に階段を降りてきて、さりげない嫌味を零して去っていく。そのナスターシャの背を、シュネーヴィトヘンは彼女や准将には気付かれない程度に軽く睨んでいた。

 ユッテの嫌がらせもナスターシャの嫌味も今に始まったことではない。

 あの後――、ヨハンに襲われたところを寸でのところで逃れ、あの場に現れたイザークに導かれるようにして辿り着いた場所――、それが西部マンハイムのナスターシャの宮殿だった。


『ナスターシャ様、私からのお願いです。どうか、シュネーヴィトヘン殿をここに匿って頂けないでしょうか』


 イザークの頼みであれば、とナスターシャは快諾し、シュネーヴィトヘンは偽物の火傷跡で顔を隠し、ナスターシャの使用人の振りをして西部に潜んでいる。

 彼女の正体はイザークとナスターシャだけが知るのみで、ユッテには何も知らされていない。なので、突然現れた醜い女に仕事を奪われたユッテは、連日何かしらの嫌がらせをシュネーヴィトヘンに行っていた。

 手にしたバケツに映る顔は、かつて白雪姫と謳われた美貌ではなく、顔全体に火傷跡が拡がった醜い顔。作り物の火傷跡とは言え、バケツに張った水に映る自分の顏は我ながら目を背けたくなる程に醜い。


 いつまで弱みを握られながらこうして過ごさねばならぬのか、という不安と苛立ちばかり日に日に増していく一方で。シュネーヴィトヘンは、ナスターシャとイザークがどのような目的で行動を共にしているのか、気になり始めていた。





(3)


 三人が去った後、アストリッドとハイリガーは席に座ったまま互いに顔を見合わせる。


「ねぇ、アスちゃん……。今まで全く気にも留めていなかったけどぉ……」

「何となく、マドンナ様の言いたいことは分かります。ウォルフィとヤスミンさんは面差しがよく似ている、ってことですよね??」

 ハイリガーはこくりと大きく首肯する。

「瞳の色が同じ青紫色で三白眼……と目元が本当にそっくりだわ。おまけに、ふとした時に見せる、何気ない表情も瓜二つと言っていい程似通っているし……」

「髪の色も……。ウォルフィの元々の髪色は薄茶色だったそうです」

「……ヤスミンの髪も薄茶色よね」

「ヤスミンさんがここに連れて来られたのは何年前でしたっけ」

「二十五年前よ。忘れもしないわ。ヘドウィグちゃんがまだ新生児だったあの子をアタシに預けに来たのよ」

「ヘドウィグ様が?!」


 ヤスミンの実年齢を逆算するとウォルフィがシュネーヴィトヘン、否、リーゼロッテと魔女の塔で再会した時期と丁度重なり合う。更にはヤスミンを預けに来たのがシュネーヴィトヘンの魔法の師ヘドウィグだったことから、二人の間でヤスミン=ウォルフィとシュネーヴィトヘンとの間の子なのでは、と、確信めいた結論に達した。


「はっきりした証拠が出てこない以上、ウォル君にもヤスミンにも黙っているべきだと、アタシは思うわ。下手に話して混乱させても可哀想じゃなぁい??特に、ヤスミンはこれから魔女の国家試験を受けなきゃならないから……、余計なことで悩ませてはそっちに集中できなくなっちゃうから……」

「ですよねぇ……」

「真実を報せることが必ずしも本人の為になるとは限らないもの。ウォル君が父親ってだけならともかく、大罪人の上に新たに反逆罪を犯して失踪中の魔女が母親だなんて……。ヤスミンには辛い事実でしかないもの……」


 新生児の頃から我が子同然に育ててきたため、ハイリガーがヤスミンを案じる想いは充分に理解している。だが、アストリッドはどこかで二人が実の父娘だと互いに気付いて欲しい、という淡い期待を抱いていた。

 ヤスミンの存在が、ウォルフィ、否、ウォルフガング・シュライバーという一人の人間の生きる希望となってくれればいいのに、と。

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