第四章 Shadow Boxer

第27話 Shadow Boxer(1)

 薪を拾いにいかなきゃだめなの。

 かまどの火を炊きつづけないと、せっかくのスープが冷めちゃうの。

 家で、家族が、寒さにふるえながら待ってるの。


『竈の火が消えないだけの薪を拾ってこい!拾ってくるまで絶対帰ってくるな!!』


 父ちゃんは仕事から帰ってくるといつもお酒を飲んでる。

 酔っぱらうとおこりっぽくなって、母ちゃんやアタイ達を殴るの。

 父ちゃんはとってもとってもこわいから。言いつけをまもらないといけないから。


 あぁ、でも、もうお日さまはとっくにしずんじゃった。

 お空はまっくらな闇にぱっくり飲みこまれちゃった。

 おなか、すいたなぁ……。

 父ちゃんも母ちゃんも、兄ちゃんたちも姉ちゃんたちも、弟たちも妹たちも。みんな、ごはん食べおわったのかな。

 スープの一口だけでも、パンのひとかけらだけでもいいから、アタイも食べたかったな。


 ねぇ、薪に使えそうな小枝なんて、ひとつも落ちてないよ。

 全部、雪に埋まっちゃってるのかな。

 両手で雪をすくって、さがしてるのに。全然見つからない。

 とっても冷たくて痛かったはずなのに、慣れちゃったのかな。

 父ちゃんのかおみたいに真っ赤になってくだけで、アタイの手はもう痛くもなんともなくなっちゃった。


 姉ちゃんのおさがりのブーツ、穴があいてたみたい。

 だって、くつしたまでぐちゃぐちゃにぬれちゃって、すごく気持ち悪い。

 それもこれも、みーんな、雪のせいだよ!!

 雪さえこんなにたくさんつもってなかったら、アタイ、こんな遅くまで外に放りだされなくてすんだのに!

 あと少ししたら、ベッドに入らなきゃいけないじかんなのに。

 だんだんねむたくなってきちゃった……。

 でも、父ちゃんにおこられるのはいやだし、どうしよう……。

 なぐられるだけならいいけど、いえの中にいれてもらえないかも。

 つかれたよぉ、ねむたいよぉ……。


 ねぇ、ちょっとだけ、ちょっとだけなら、ここでねちゃってもいいかな。

 ほら、つもった雪って、なんだかじょうとうなベッドみたいにふかふかしてるんだもの。

 なんて、そんなおたかいベッドでねたことなんか、いちどもないけど。

 あ、でも、あるきまわってつかれちゃったから、ひんやりしてるのがぎゃくにきもちいいなぁ……。

 アタイ、いつかはこの雪みたいなベッドでねてみたいなぁ……。



 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ……、と、言い聞かせるように呟いている内に、猛烈な睡魔によって呂律が回らなくなっていく。

 程なくして、少女の榛色の大きな瞳は、ゆっくりと瞼を閉じていった。









「……エヴァ様??」


 自分のものではない、焦茶色の長い髪が頬に触れ、薄氷を思わせる薄青の瞳が上から覗き込んでいた。

 氷の壁に囲まれた自室の、上等な作りのベッドの上。裸で仰向けに横たわるエヴァの上に、同じく裸の男、従僕のディートリッヒがのしかかっている。


「エヴァ様、集中して下さい」

 心ここにあらずなエヴァに、ディートリッヒは彼女の痩せた頬を撫でながら窘める。

「ちゃんと『気』は送り続けているんだ……、抜かりなくな!魔力注入が出来ていれば問題ないだろう??」

 我に返るなりエヴァは、不機嫌も露わにディートリッヒをあしらおうとする。

「私が貴女を独占できる唯一の時間なんです」

「はん!よくもまぁ抜け抜けとそんな台詞を!!」


 せせら笑うエヴァに構わず、ディートリッヒは彼女を強く抱き寄せた。

 たかが従僕への魔力注入するための行為でしかないのに。必要以上に甘い言葉や態度を示すディートリッヒに鼻白む一方、内心悪い気もしないではない。

 シーツの波間に拡がるアッシュブロンドの髪が、身体と共に揺れ動く。ギシギシとベッドが軋む音を聞きながら、遠い、遠い過去の情景を打ち消すため、エヴァは最も信頼する従僕への魔力注入に集中する。


 約九十年前、リントヴルム北部の寒村に生まれたエヴァは、病弱ゆえに肌が青白く、小さく痩せ細った子供だった。貧しさゆえに北部中心街の娼館に売られかけた時も、仲介役の人買いから買い付けを拒否される程で、両親、特に父からはよく役立たず呼ばわりされていた。

 だから、白い悪魔と呼ばれる強い吹雪が渦巻く真冬の晩、口減らしで外へ放り出されたのも、今にして思えば致し方ないこと。しかし、寒さと空腹、睡魔に襲われ、豪雪に埋もれて死を迎えつつあった筈のエヴァは、今もまだこうして生きている。


 生かされたからには、二度とあのような目に遭わずして生きていきたい。

 そのためには力が必要だ。

 力を得る為にはこの際手段など選んでいられない。


「エヴァ様」

「分かっている!ディートリッヒ、私に指図をするな。お前は黙ってただ動いていればいい!」


 厳しい言葉と裏腹に、エヴァはディートリッヒの首に腕を回し、ニヤリと唇を捻じ曲げる。 その唇に自身の唇を落とすと、ディートリッヒは幾らか動きを速めたのだった。








(2)




 ――北部国境沿いの街リュヒェムの入り口――




 他地域の国境沿いの街同様、リュヒェムも防衛上城郭都市化しており、街の入り口には灰色の砂岩で作られた頑強な大門がそびえ立っていた。少なくとも四十五年前までは。

 四十五年前、当時北部国境に侵攻していた隣国エリッカヤの軍と、防衛でリュヒェムに駐屯していた北方軍及び街全体をエヴァが全て氷結化させたからだ。

 エヴァが魔法で具現化した氷を溶かすのは、地獄の業火でない限り不可能に近い。更に、免罪と引き換えにゴードンから北部の国境防衛を任命されると、エヴァは己の拠点となったリュヒェムに年中雪を降らせた。ゆえに、リュヒェムは季節に関わることなく常冬の状態にあった。



「はっくしょいっっ!!」


 暖気が保たれていた執務室から粉雪混じりの寒風吹きすさぶ北の地に到着するなり、アストリッドは盛大なくしゃみを寒空の下で響き渡らせた。目の前の氷結化した大門からは冷んやりと冷気がそこはかとなく漂ってくる。

 実際の季節は春の只中だというのに、染み入る寒さは流石常冬の街と言われているだけのことはある。口元に宛がっていた手を、さりげなくウォルフィの、襟と袖口、裾がヒョウ柄マフの黒いロングコートに擦り付けようと――、したものの。


「自分のでやれ」


 ぴっしゃん!と小気味良い音で手の甲を叩かれてしまった。

 アストリッドはすごすごと大人しく手を引っ込め、灰緑色のモッズコートのポケットからハンカチを取り出して手を拭う。すると、二人の背後からクスクスと忍び笑いを漏らす声と共に、微かに地を踏み鳴らして近づいてくる気配を感じた。


「お久しぶりですね、アストリッド様」


 鈴を転がしたような、若い女の声に釣られて振り返る。

 白いドレスの上に、白い毛皮のコートを羽織った黒目黒髪の美貌の魔女、シュネーヴィトヘンことロッテだ。


「ロッテ様―、お久しぶりですー!!」

 掲げた両手をしきりに振り回し、アストリッドははしゃいだ声でシュネーヴィトヘンに駆け寄っていく。

「すみません、ロッテ様。もしかしたら、自分達がここへ来るまで、随分とお待たせしてしまいましたか??」

「いいえ、そんなことはないわ。私もまだ、今さっき大門前に到着したばかりなのです。お気になさらないで」


 子犬のように纏わりつくアストリッドに対し、シュネーヴィトヘンは穏やかに微笑んでは彼女に相槌を打っている。

 (パッと見)美少女と嫋やかな美女が並んで親しげにする様は、他の者の目には大変麗しい光景に映るだろう。しかし、この場にいる唯一の第三者、ウォルフィには、互いに笑顔を向けつつ腹を探り合っているようにしか捉えられない。

 とりあえずウォルフィは、関心なさげな素振りで二人から目を逸らす、振りをして、視界の端で二人の動向を注意深く観察していた。


「ところでロッテ様。貴女ならお気付きになっていると思いますが……」

 アストリッドは目の前の氷の大門に向け、右の人差し指を差してみせる。

「えぇ、大門の周囲に張られた結界のことね」

「自分から私達を呼び寄せておきながら、結界を解除させていないのは一体どういう了見なのかしら。エヴァ様の性格上、解除し忘れているとは考え難いですし……」

「あぁ……。もしかしたら、自分達の力をからかい半分で試すために、あえて結界を破らせようとする可能性も……」

「……有り得そうだわ」


 シュネーヴィトヘンは軽く肩で息をつく。吐き出された息は白い靄と化し、宙へと流れていく。


「でも、結界を破るためとはいえ、下手に手を出したら……。それを逆手にとり、不利な状況に追い込まれるのが目に見えるようだわ」

「ですよねぇ」

「そうかと言って、全く何もせずにいつまでも待ちぼうけさせられても時間の無駄ですね」


 アストリッドとシュネーヴィトヘンは顔を見合わせ、思案に耽る。二人に続き、少し離れた場所に立つウォルフィも思案し始める。

 いつになく真面目な顔でうんうん唸っているアストリッドの鼻先が、ピクピクッと微かに反応を示した。まさか――、偶然にもアストリッドの鼻先が動くのを目撃したウォルフィの胸中で非常に嫌な予感が走る。


「あー!!!!」

 突然、大声で叫んだアストリッドに、シュネーヴィトヘンはビクッと肩を震わせた後、思わず彼女を見返した。

「ヴルストの匂いがするー!!!!」

 えっ、ヴルスト?!と、呟くシュネーヴィトヘンに構わず、アストリッドは氷の大門へと一目散に駆け込んでいく。

「アストリッド様!結界が張られているのに危険だわ!!」

「……あの、大馬鹿……」


 露骨なまでに眉間に深い皺を寄せて口角を引き下げ、ウォルフィは主の愚行を阻止するべく後を追う。だが、あくなき食欲に突き動かされるアストリッドを引き留めるのは、ウォルフィといえど至難の業。

 そのまま氷の門柱を破壊しかねない勢いでアストリッドは突進し、門のすぐ手前まで近づき――


 バチィィッ!!!!


「うぎゃん!!!!」


 高圧の電流に感電したような音。

 アストリッドは冷たい地面へと弾き飛ばされて派手に転倒。

 ううぅぅ、と地に這い蹲りつつ、顔を上げると――、汚物を見るような目つきでウォルフィが見下ろしていた。

 最早何も言うまい、と、ウォルフィはモッズコートのフードを雑に掴み、地に伏したままのアストリッドをズルズルと引き摺っていく。


「ちょ、ウォルフィ……、その手を放してください……」

「…………」

「た、確かに、リュヒェムの街中から、焼き立てのヴルストの匂いが漂ってきたんですって……」

「………」

「幻臭じゃないですってば……。だから、放してくださ……」

「黙れ、この救いようのない大馬鹿」


 この期に及んでもジタバタもがいて抵抗するアストリッドを完全無視し、ウォルフィは氷の大門から引き離していく。

 ヴルスト~、ヴルスト~、とまるで呪詛でも唱えているような、おどろおどろしい低い声で呟く主と、下手な殺人鬼よりも凶悪な目つきで主を地に引き摺り回す従僕という、ある種異様な光景。

 一部始終を見ていたシュネーヴィトヘンは頬や口元を引き攣らせ、さりげなく一歩ずつ二人の傍から後退していく。この二人と行動を共にすると決めたことに、若干後悔の念を抱き始めてすらいた。


「おー、本当に三人共来ちゃったんだねぇー」


 大門の方から間延びした呑気な声がアストリッド達に向けられる。声に釣られ、ウォルフィに引き摺られるアストリッドも引き摺るウォルフィも、二人から距離を置いていたシュネーヴィトヘンが揃って振り返る。

 二つの氷柱の間には、串に刺さった極太のヴルストを齧っている長い黒髪の小柄な少年、もとい、エヴァの従僕の一人、ズィルバーンがニヤニヤしながら立っていた。


「いやぁ、遅くなって悪いっすー。エヴァ様に言われて、あんた達をうちの宮殿へ案内するために迎えにきたんだけどさぁ」


  ズィルバーンの登場によりウォルフィの意識がそちらへ向かい、フードを掴んでいた手の力がほんの僅かに緩む。その隙を逃さず、アストリッドはフードを引っ張って素早く起き上がった。すかさずウォルフィがもう一度フードを掴もうとするも、時遅し。虚しく空を掴んだのみで、主の姿はすでに消えていた。


「ヴルストー!!!!」

 はぁっ!?と面喰うズィルバーンに向かって、アストリッドは猛突進していく。

「うぎゃん!!!!!」


 案の定、またもや結界に弾き返されるアストリッド。もう勝手にしろ、と、そっぽを向いて助けにすらいかないウォルフィ。

 最後の一欠けらを串から齧り取り、地面に転がるアストリッドを見下ろすズィルバーン。更に一歩後退するシュネーヴィトヘン。

 粉雪混じりの北風と共に、何とも言えない微妙な空気が辺り一帯を流れていく。


「あー、もしかして、これが食いたかった訳??わりぃ、もう食っちゃった!とりあえずさぁ、結界解除するのに邪魔だから。半陰陽のねーちゃん、そこどいてよ」


 まだ、ヴルスト、ヴルスト……とぐだるアストリッドに、ズィルバーンはシッシッと手で追い払う仕草を見せつける。


「……自分はねーちゃんじゃないんですが……」

「じゃ、にーちゃん」

「……いえ、にーちゃんでも……」

「面倒くせーなぁ、どっちでもいいじゃん。それより、マジで邪魔だからどいてくれよぉ」


 ズィルバーンにあしらわれ、アストリッドは匍匐前進するように凍てついた地面の上を這いながら、すごすごと門の前から離れていく。

 ズィルバーンは腰を下ろし、ヴルストを挿していた串で氷結化した地面をコンコンと叩き、短く詠唱した。


「うん、もう入ってもいいよー」


 立ち上がったズィルバーンが串を地面に放り投げ、門外の三人に手招きする。警戒心を残しながらも三人は氷の大門を潜り抜け、街の中へと進んでいく。


 氷漬けにされた街並みは、四十五年前のまま永遠に時を止めている。

 大通りと思しき道には、道の両端に物を売るための荷車が並び、凍結化した多くの人々が不正列に並んだ彫像のようにひしめいている。中には倒れて身体の一部が欠けている者、跡形もなく粉々に砕けてしまった者もおり、とうに死を迎えているとはいえ、見掛ければやはり背筋に怖気が走る光景だ。

 白い雪が舞い散り、どこまでも透明で静謐な美しささえ覚える景観でありながら、数多の死を永久に保存する街。死の静寂に包まれた街。

 何度訪れても、この街特有の気味の悪さはアストリッドもウォルフィも未だに慣れないでいる。


「本当はさぁ、エヴァ様も俺と一緒に来る筈だったけど、ちょっと来れなくなってね」

 沈黙が苦手な質なのか、先程から先頭を歩くズィルバーン一人(一匹)が、後に続く三人――、ズィルバーンのすぐ後ろにシュネーヴィトヘン、少し距離を空けてアストリッドとウォルフィ、に、ぺらぺらとしきりに話しかけてくる。

「自分から私達を呼びつけておいて??随分と良いご身分ね、エヴァ様は」

 顔に張り付かせた笑顔と裏腹に、シュネーヴィトヘンがさらりと嫌味を言ってのける。

「ディートリッヒが止めたんだよ。『エヴァ様直々に出向いてやる必要などありません』ってさぁ』

 ズィルバーンはディートリッヒの口調を真似て、彼の発言部分のみわざと恭しい口調に切り替える。

「どうせ、俺をパシらせている隙に二人でイチャコラしてるんだろ」


 けっ、と、いじけた笑い方をする辺り、同じ従僕でもディートリッヒの方が扱いが上なのだろう。内心気に入らないものの、ズィルバーンはこの状況を甘んじて受け入れている、といったところか。


「勇猛果敢な北の魔女様も所詮は女ってことね」

 シュネーヴィトヘンの黒い瞳に嘲りの色が浮かぶ。

「へ??東の魔女のねーちゃんは違うのかよ」

「魔力注入のためとはいえ男に肌を許すなんて……、汚らわしいわね」


 シュネーヴィトヘンの尖った声はあくまでズィルバーンに向けたものだろう。しかし、捕えようによってはアストリッドとウォルフィに向けたものにも聞こえなくはない。

 時間が進むにつれて緊張感ばかりが高まっていく中、ようやくエヴァが居住する宮殿へと到着した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る