第二章 大きな命は小さな命を守る

第15話 はじめてのG

※タイトルからお察しになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、今話に登場する「あるもの」に不快感を持たれる方々もおられるかも知れません。このお話は閑話的な日常回ですので読み飛ばしても問題はありません。




 遅い朝食を済ませた後、ウルスラグナを部屋に残して外出していた孝太が戻ってきたのはすっかり日が暮れた頃のことだった。玄関に立つ孝太の耳にリビングからクスクスとした笑いが聞こえる。部屋には彼女ひとりしかいないはずだ。すなわちその声は彼女の声でしかあり得ない。


「ウルスのやつ、あんな笑い方もするんだな。アイツもあれで女の子ってわけだ」


 少しばかりホッとした気持ちで孝太は玄関先からリビングのウルスラグナに声をかけた。


「お――い、帰ったゾ――」



 ウルスラグナはこちらに背を向けてフローリング床にあぐらをかいていた。そして帰宅した孝太の気配を感じておもむろに振り返った。


「おお、コータ、今帰ったのか。ご苦労だった」


 Vネックの白いシャツに同じく白いトランクスショーツ、限りなく下着に近い姿ではあるがとりあえず何かしら身に着けている彼女を見て孝太はぼそりとつぶやいた。


「あ、こりゃ明日は雨か?」

「帰って来るなり何だ、その言い草は」

「いや、おまえが服を着てるなんて、と思ってさ」

「フッ、こんなこともあろうかと、ついさっき身に着けたのだ。ここはコータにとっての城だ。ここにやっかいになっている私としてはコータの流儀に従わねばと、そう思ったのだ」


 孝太はキッチンカウンターに手にしていたショルダーバッグを置くと、相変わらず床の上で何やらひとり遊びでもしているような彼女に問いかけた。


「ところでウルス、おまえひとりで何をやってんだ?」

「ひとりではない、この世界に来て初めての友ができたのだ」

「友って、おまえ、外に出たのか?」

「そうではない、友が私のところにやって来たのだ」


 孝太が帰宅してから初めてウルスラグナはこちらに顔を向ける。それは嬉しそうな顔でその瞳は輝きに満ちていた。


「ちょうどよい、コータにも紹介しよう、わが友だ」


 ウルスラグナは孝太に向けて右手を差し出した。その手の上にはおよそ数センチほどの黒光りする物体があった。


「うっ、うお、お、おまえ、そ、それは……それはダメだ」

「どうした、何を慌ててる」

「待て待て待て、こっちに向けるな。ちょっとそのまま、そのままだぞ」


 孝太はその物体を刺激しないよう注意深く後ずさりすると、なるべく物音を立てないよう細心の注意を払いながらキッチンカウンターの奥に下がる。そして足下に置かれた殺虫剤のスプレー缶を手にして戻ってきた。


「ウルス、よく聞け。その手を床に置くんだ。いいか、ゆっくりだぞ、無駄な刺激は与えるなよ。それで、そいつが手から離れたらおまえもすぐに離れるんだ」


 孝太のあまりの慌てぶりにウルスラグナは訝し気な顔で尋ねる。


「何をするつもりだ」

「何を、って、駆除だよ、駆除に決まってるだろ」

「コータ、貴様はコイツを殺すのか。私の友であるコイツを」

「だから、それは友だちなんかじゃねぇの、害虫なの」

「ダメだ、私が許さん」

「ダメだ、ダメだ。それにそいつは一匹見たら三十匹いると思えってくらいしぶといんだ。おまえが考えてるようなもんじゃねぇんだ」

「コータ、どうしてもると言うのか」

「どうしてもだ」

「私の友であってもか」

「ああ」

「こんなに小さき者を貴様は……」


 ウルスラグナの目に険しい光が浮かぶ。


"Zohrunemゾールネム ziahmジャーム kitziemキチェム ziahmutosジャームトス kohrumaxolコールマホル."

(大きな命は小さな命を守る)


 突然の異世界語イースラーだったが彼女からの知識を得たことによって孝太にもその言葉が多少ではあるが理解できるようになっていた。


「小さな命を守るって、そりゃ言いたいことはわからなくもねぇが、コイツはそんなタマじゃねぇんだ。とにかくダメなものはダメなんだ」

「そうか、我ら水の民マーヤニム・ミーレッシュ矜持きょうじを曲げろと言うのだな……ならば仕方がない」


 ウルスラグナは右手の物体をそのままにもう一方の左手を握りしめるとそれを胸の前に構えた。すると銀の指輪が光り輝く。


"Mihminミーミム dosiuhtayumドシュータユム! Nahmutosナームトス kohrumamimコールマミム!"

(わが友よ! おまえを護るゾ!)


「おいおいおい、ちょっと待てウルス、落ち着け!」


 今、彼女の左手に水晶にも似た光を放つ短剣が現れた。


「わ、わかった、わかったよウルス。それじゃこうしよう。オレは何も見なかったことにするから、だから、おまえはそれを外に逃がせ」


 ウルスラグナはとりあえず納得したのか右手の物体に視線を向けて小さく頷くと、左手の剣を胸の前で構える。同時に輝く刃は光の粒となって霧散し、あとには銀色に鈍く輝く指輪があった。


「うむ、それが落としどころというわけだな、よかろう」


 彼女は右手をそっと床に這わせると、手の上の物体をその場に逃がそうとする。


「あ――待て待て、そこじゃねぇ。外、外に逃がすの」


 孝太はキッチンカウンターの脇に立って彼女との距離を保ちながらブラインドが下ろされた窓を指差した。

 ウルスラグナは軽い溜め息をつきながらも孝太の言葉に従って、右手の物体を落とさないよう気を遣いつつゆっくりと立ち上がる。そしてつかつかとブラインドの前に向かうと、ここでもまたなるべく音を立てないようゆっくりとそれを開けた。

 窓の外にはビルの谷間に新宿御苑の黒い森が広がり、その遥か向こうには渋谷あたりのビル群と思しき赤色灯が夜空の中で点滅していた。ウルスラグナは窓を開けてベランダに出ると、手すりの真下に見える街路灯に照らされた幹線道路の歩道に向けて腕を伸ばした。

 早春の夜風がウルスラグナの白い髪と黒き物体の触角を微かに揺らす。するとその物体は何かを察したのだろう、触角をゆらゆらさせながら彼女の指先に向かうとバサバサと耳障りな羽音を立てながらそこから飛び立って夜の街に下降していった。


"Deknimデクニム rahbiyaラービヤ, mihminミーミム dosiuhtayumドシュータユム..."

(さらば、我が友よ……)


 ウルスラグナは眼下に流れる夜の雑踏を見下ろしながら、ひとりそうつぶやいた。



 部屋に戻ると孝太がキッチンでコーヒーの準備をしていた。


「ウルス、うまく逃がしたか?」

「ああ……」


 彼女にはめずらしくその顔に寂しげな色が浮かんでいるのを感じた孝太は気分を変えようと努めて明るく振舞った。


「そうか……それならとにかく、まずは手を洗ってこい、今コーヒーをいれてやるから。それでひと息ついたら晩飯に出よう。恭平きょうへいママのところでいいだろ?」


 テキパキと立ち回る孝太を横目に見ながらウルスラグナは洗面所で手を洗う。そして鏡に映る自分の顔を見ながら彼女は思う。


「コータはあの者を嫌悪していた、ただそこにいると言うだけで。では私はどうなのだ。コータは私を受け入れてくれているが、この世界で私とは何なのだ。私も異物と見られるのだろうか、友はできるのだろうか」


 ウルスラグナの頭をホームシックにも似た寂しさがよぎる。しかし彼女はそんな気持ちを打ち消すように首を振ると、濡れたその手を洗面台の排水口の上に向けてその水を浮き上がらせた。すると彼女の両手は何ごともなかったかのようにすっかり乾いていた。

 ウルスラグナはもう一度鏡に映る自分の顔を見つめると、今度は覚悟を決めたように小さく頷く。そして孝太がいるキッチンへと足早に戻っていった。



「コータ、教えて欲しいことがある」

「なんだ」

「わが友、あの黒き者の名を知りたい」

「あれか、あれは……ジーだ。Gと呼ばれるものだ。少なくともオレたちの間ではそれでいい」

「コータ、私がこうして頼んでいるのだ。教えてくれ、友の真名まなを」

「Gだ。それでいいんだ。それ以上は言えねぇ」

「どうしてだ」

「そりゃ、おまえ、この世界にはな、婉曲えんきょくって言葉があるんだ。それ以上は言わせるんじゃねぇ」

「コータ、貴様はいったい何を言ってるんだ?」

「だからさ、ウルスも奥ゆかしさというか、その、いろいろとだな……」

「あ――もういい。ならばコータの頭の中に聞けばよいことだ」


 ウルスラグナは孝太の肩を掴んで無理やり自分に向かせると顔を近づけてきた。


「わかった、わかった、やめろって。ほら、今、熱湯とか使ってるんだから」


 そう言って孝太は手にしたポットを一旦ガス台に戻すと、カウンターの上に置いたバッグからスマートフォンを取り出した。そして検索した結果をウルスラグナの顔の前にグイっと押し出して見せた。


「ほら、これだ。これがアイツの真名だ。ただし、その名は絶対に口にするなよ、いいな」

「わ、わかった。コータがそこまで言うのなら私もこのことは私の心の中にしまっておくことにしよう。二度とその名を口にすることはあるまい」


 ウルスラグナは画面から顔を上げるとにこやかに微笑みながら孝太にスマートフォンを返す。


「よし、これでスッキリした。コータ、コーヒーを頼む。それにしてもジーとは、何かと思えばゴキブリの頭文字だったのか」


 孝太はドリッパーに湯を注ぐ手を止めてその場で茫然とした。


「ウルス、おまえなぁ……」

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