第14話 失われたカゴを求めて

 甘い香りがウルスラグナを夢の中から現実へといざなう。ぼんやりとした頭で彼女はその匂いのルーツを辿ってみる。

 そうだ、これはコーヒー、コーヒーの香りだ。あの未知の世界で味わった黒い飲み物だ。

 初めて口にしたときの味と感動がウルスラグナの舌の上に甦る。


 やはりあれは未知の世界だったのだろうか。できることならもう一度あのコーヒーなるものを味わいたい。

 よし、ならばさっそく神官のひとりでもとっ捕まえて聞いてみよう、未知の世界はどこにあるのかと……ん、神官?

 そうだ神官は無事なのか。あの騒乱で果たして無事だったのか。

 それにネシーナ、彼女はどうなったのだ。

 しまった、こんなところで寝てはいられない。すぐに、すぐに助けに行かねば。


 ウルスラグナの頭は一気に覚醒した。そして無理やりに瞼を開いたとき、彼女の視界に飛び込んできたものは神殿でも森でもなく、スタッコ仕上げのウレタン塗装が施された白い天井だった。


 そうだ、未知の世界は夢なんかじゃない、自分が今いるこの場所こそがそうなのだ。そしてここは……コータ、コータの部屋だ。


 寝ぼけた頭の中で全ての記憶がつながった。

 出立しゅったつの儀の最中に突然の攻撃を受けたことも、侍女ネシーナの安否が不明であることも。そして転移の寸前で爆発に巻き込まれた結果、理由もわからずに自分がこの未知の世界に転移されてしまったということも。


 彼女はソファーにしつらえられた急場しのぎの寝床から身を起こすと周囲をぐるりと見渡してみた。

 自分が寝ていた枕の向こうでは、わずかに開けられた草色のブラインドから柔らかな日差しが射し込み、その隙間からは雲ひとつないであろう青い空が垣間見える。ソファーの向かいには四十インチの薄型テレビ、そこにはまだ寝ぼけ顔の自分が黒いガラスにぼんやりと映っていた。

 そしてこの香りの正体、それは下がり壁の向こうにあるキッチンで孝太が準備しているコーヒーの香りだった。


「やっと起きたな、ウルス。よく眠れたか?」


 孝太からの問いかけにウルスラグナもすぐに応える。


「ああ、おかげでよく眠れた。それより私はどのくらい眠っていたのだ?」

「寝たのが朝方の四時、今は十時だから六時間ってところか」


 ウルスラグナはソファーに座ったままぼんやりした顔で「そうか」と小さくつぶやいた。


「どうしたウルス、元気がねぇな。さすがに疲れが出たか?」

「そうではない。まだ頭の中の整理が完全ではないのだ。私の国ミーマリムタリアとこちらとでは時間の感覚が微妙に違っていて……」

「寝足りねぇなら今日一日そこで寝ててもかまわねぇぜ。オレはメシを食ったら少し出かけなきゃだけどな」

「大丈夫だ、問題ない。私も起きることにしよう」


 ウルスラグナはかかっていた毛布をソファーの脇に寄せると小さなテーブルに向かって座りなおした。


「よし、さっそく朝飯だ。おまえの分も作ったんだぜ、もちろんコーヒーもな」


 テーブルには大き目のマグカップがあり、そこには熱いブラックコーヒーがたっぷりと注がれていた。ウルスラグナはそれを手に取って口に近づける。立ちのぼる湯気と甘い香り。彼女はヤケドしないよう注意しながらカップに口をつけた。

 再び鼻に抜ける深い香り、しかしその味は初めて味わった昨日のものよりもコクと苦みが強かった。酸味は抑えられ、目が覚めるような苦みの後にほんのりとした甘みが残る。

 神妙な顔をするウルスラグナにカップ片手に孝太が言う。


「朝は朝らしく、苦みが強めのブラジルにしてみた。どうだ、キリマンジャロとはまた違った味だろ」


 ウルスラグナは手にしたカップをまじまじと見つめながら残りのコーヒーを一気に飲み干してしまった。

 予想通りのそんな姿にほくそ笑みながら、すぐに孝太はキッチンから耐熱ガラス製のコーヒーサーバーを持ってくる。そして彼女のカップにおかわりをたっぷりと注ぎながら呆れた顔で言った。


「ウルス、とりあえずなんか着ろ、シャツ一枚でもいいから。朝っぱらから目のやり場に困るだろ、マジで」


 褐色の肌に真っ白なショート丈のキャミソールとTバックショーツ、眠りに就くときそのままのえらく露出が多いウルスラグナのその姿は、朝の日差しの中で無邪気なエロスを感じさせた。



 たっぷりのバターを塗った厚切のトーストと苦みが強めのオレンジマーマレード、そして大きなカップに入れたコーヒーというシンプルながらもボリュームのある朝食を済ませた二人はゆったりとした食後のひとときを過ごしていた。

 そこで会話の口火を切ったのはウルスラグナだった。


「コータ、実は聞きたいことがあるのだ。大事なことだ」

「どうしたんだよ、急にかしこまりやがって」


 孝太はサーバーに残ったコーヒーをそれぞれのカッブに均等に注ぎながら話を続けるよう促した。


「私がここに着いたとき、いっしょに荷物はなかっただろうか」

「荷物って、そりゃどんな荷物だ?」


 するとウルスラグナは両手を肩幅ほどに広げながら続けた。


「これくらいの草木くさきで編んだカゴなんだが」

「いや、無かったな。オレが気づいたときはウルス、おまえひとりがえらく怖い顔してそこに座ってたんだぜ。周りに荷物なんてなかったよ」

「そうか……」


 ウルスラグナは孝太の言葉に落胆を隠せなかった。


「でも……ちょっと待てよ」


 そう言いながら孝太は窓の前に立ってブラインドを開けた。南向きの窓からの明るい日差しが部屋全体を包み込む。そして孝太は窓を開けてベランダに身を乗り出してみた。するとエアコン室外機の影に白い布がかぶせられたとう編みのカゴがあるのが見えた。

 孝太はそのカゴを手にして部屋に戻るとそれをウルスラグナの前に置いた。


「ウルス、おまえの荷物ってのはコイツのことか?」


 それを見た瞬間、ウルスラグナの顔に安堵の表情が浮かぶ。それは彼女がここに来て初めて見せたやさしい笑顔だった。


「よっぽど大事なものなんだな、今のおまえの顔を見りゃわかるぜ」

「ああ、大切なものだ。ネシーナが私のために身を挺して寄越したものだ」

「それにしてもラッキーだったな。もう少しずれてたら車道に落ちて粉々になってただろう。しかしそんな話を聞いちまうとソイツの中身が気になるぜ」


 そう言って孝太はウルスラグナのカゴを覗き込む。


「これは服とか装身具とか、いろいろだ」


 ウルスラグナはカゴにかけられた白布をめくると中に収められた白いリネンのワンピースを手にした。てきぱきとした仕草で衣類をたたむネシーナの姿が脳裏に浮かぶ。そしてそれを孝太の前で広げて見せた。

 ふんわりと白いその服の首周りと袖口には同じ白い糸で精緻な刺繍が施されていた。それはまるで宗教的な儀礼のための衣装にも思えた。


「ウルス、その服は……」

「これが我ら水の民マーヤニム・ミーレッシュの服だ。これに装身具をいくつか身に着けるのだ」

「へえ――それが異世界の服か。なあウルス、ちょっと着てみろよ」

「ここでか?」

「ああ、ここでだ」


 孝太のリクエストにウルスラグナは小さなため息をつくと、おもむろに着ているTシャツを脱いでそれをソファーに放り投げた。そしてカゴから出した衣装をすっぽりと身に纏う。

 広口の袖が手首までを覆い、裾も足首まで届かんとするほどのその衣装は孝太が初めて出会った時の彼女の服装とは真逆の、肌の露出がほとんどないスタイルだった。

 褐色の肌に純白の服、そして同じく真っ白で柔らかな長い髪、明るい日差しを受けたウルスラグナの姿はとても魅力的に映った。

 見惚れる、そんな言葉がピッタリなほど見とれている孝太を尻目にウルスラグナはさっさと服を脱いで元の下着姿に戻ってしまった。


「お、おい……」


 残念そうな顔の孝太に構うことなくウルスラグナは服を無造作にカゴに戻すと、その場にしゃがみこんでカゴの中の装身具なるものを床に並べ始めた。

 一対の幅広な腕輪、左右で形の異なるイヤリング、ハート型に似たトップを持つペンダント、それらすべては彼女が着けている指輪と同じく銀色に輝く素材でできていた。


「今着けているこれは指輪ユーザック、それとこれが腕輪バイレザック耳飾りキューブレック、そして首飾りコーレユックだ。いずれも装身具でありながら護身具でもある。指輪が剣になるのはもう見ただろう。あとはこんな感じだ」


 ウルスラグナは腕輪を着けた手で握りこぶしを作ってそれを胸のあたりに構えるとそれに力を込めた。すると一瞬の閃光とともに肘から先、前腕の全体が水の幕で覆われた。


「コータ、ちょっと試してみてくれ。そうだなあ、そのバターナイフとやらがいいだろう、それで私の腕を叩くんだ」


 孝太は彼女の言葉通りにバターナイフを手に取るとそれで腕を前腕を包む水の幕を叩いてみた。すると硬質な音ともにテーブルの向こうまでそれは跳ね飛ばされた。あまりのことに孝太は驚きを隠せなかった。


「なるほど、ガントレットだな。そんなのがあるならこれからはそいつで十分だろ。あの物騒な二刀流にくらべたら全然平和的だぜ。てか、あんな大立ち回りは二度とごめんだけどな」


 続いてウルスラグナは左右で形が異なるイヤリングを手にした。それらはひとつは三日月に似た、そしてもうひとつは縦長の二等辺三角形に似た形をしていた。


耳飾りキューブレックはそれぞれ弓と矢になるのだが、これは戦いに使うだけでなく加護と祝福でも使うのだ。いずれ孝太にも見せるときが来るかも知れないな」


 そして最後に手にしたペンダントが小振りの盾に変化へんげするのを見せた。その盾も腕輪のガントレットと同じく水や氷に似た見た目ではあったが強度はずっと高かそうだった。


首飾りコーレユックの盾は滅多に使うことはない。腕輪バイレザックで防御しながら剣で攻撃する方が手っ取り早いからな。しかしこれにはもうひとつの使い道があるのだ」


 そう言ってウルスラグナは指先でペンダントトップの蓋を開けて軽く目を閉じる。どうやらそれはロケットでもあるようだ。そしてまたもや呪文らしき異世界語イースラーをつぶやいた。すると孝太の目の前で彼女が今さっき脱ぎ捨てた衣装が光を帯びる。そして粒子となった光だけがペンダントの中に吸い込まれていった。

 ウルスラグナはフ――ッと静かに息を吐くとパチンとロケットの蓋を閉じる。そしてその場に立ちあがって手にしたペンダントを握りしめると軽く目を閉じた。すると今度は彼女の全身が細かい霧状の水に包まれる。そしてそれが霧散して消え去ったとき、そこに立っていたのはあの異世界の服を着たウルスラグナだった。


「お、おい、それって……」

「私が身に着けたものを取り込んで具現化する、それがコイツのもうひとつの力だ」


 次々と見せられる異世界のアイテムに孝太は返す言葉もなくただただ呆然とするばかりだった。そして再びペンダントを握りしめると細かい霧、視界が晴れたときには元の下着姿の彼女が自慢げな顔で微笑んでいた。

 こうしてひと通りの説明を終えるとウルスラグナはそれらすべてを身に着けた。


「これがあれば心強い。孝太、よく見つけてくれた、礼を言うぞ」


 ウルスラグナは孝太に自己紹介をしたときのように片膝をついて右手を胸に当てながら異世界語イースラーで礼を述べた。


"Dekuramデクラム nahzasナーザス. Guruhliyatosグルーリヤトス Kohtazasコータザス."

(ありがとう。孝太に祝福を)


 すると孝太の口からも異世界語が自然と発せられた。


"Dekuramimimomデクラミミムオム, Urusウルス."

(どういたしまして、ウルス)


 二人は互いに笑みを浮かべて頷いた。しかしそれも束の間、孝太がウルスラグナに向かって尋ねる。


「ところでウルス、今朝おまえが起きてからずっと気になってることがあるんだが」

「どうした、なにが気になるのだ」

「おまえ、キャラが変わってねぇか?」

「キャラだと?」

「ああ、昨日まではオレそっくりなしゃべりだったじゃねぇか」

「なんだそんなことか。それは寝ている間にコータから得た知識を整理したからだ。さすがに言語体系丸々というのはかなり重たかったが。その中から私の国ミーマリムタリアでの私と近い雰囲気の言葉を選んだのだ」

「そりゃまるでシステムの夜間バッチ処理じゃねぇか。いったいどんな頭の構造してんだか……ま、いいか、そもそもおまえの存在自体が異世界みたいなもんだしな」


 そして孝太は呆れた顔で軽く一息つくとウルスラグナを指差しながら声を上げてたしなめた。


「どうでもいいけどウルス。何度も言うけど、とにかくおまえは服を着ろ!」

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