第13話 ウルスラグナは夜間バッチの夢を見るか
ひとつ前の「月が重なる日」に近衛隊士官学校を優秀な成績で修了したばかりのウルスラグナはこの国を治める王族の娘、しなやかな褐色の肌と美しい純白の髪というこの国の種族にしては稀な容姿の彼女は、神に祝福された者として王権の正統な後継者である兄たち以上に民から慕われる存在だった。
そして今、彼女は王族でありながらも将来を嘱望された選ばれし若者のひとりとして交換留学に臨むためにこの場に立っていた。
「ついにこの日が来ましたね、ウルスラグナ様。さあ、お召し物をこちらに」
後ろに束ねた黒髪が美しい娘が肩にそっと手を添えてウルスラグナが着る白く優美なリネンのワンピースを脱ぐように促す。
娘の名はネシーナ・オングリザ、この国での身分は奴隷である。しかし幼い頃からずっとともに過ごしてきた自分と同い年のこの娘は、ウルスラグナにとって大切な親友のような存在だった。そしてそんな二人を見続けてきたウルスラグナの父であるこの国の王はネシーナを奴隷でありながらも侍女と同じ役目と権限を与えて自分たちの娘に仕えるよう命じたのだった。
「ネシーナ、私と二人のときにはその堅苦しい言葉遣いはやめてくれ。いつものようにウルシャでいいじゃないか」
「なりませぬ。ここは神様が
ネシーナはそう言いながら、まるでヤンチャな子供の世話を焼くようにテキパキとした仕草でウルスラグナが身に着けている装身具をはずしては用意していた
「ネシーナこれはいい。全てをはずしてしまっては万一のときに困る」
「承知しました、ならば
ネシーナはウルスラグナの衣服をするりと脱がせると丁寧に畳んでそれもカゴの中に入れる。そして最後にそのカゴに衣服と同じ真っ白なリネンの布をかぶせた。
下着と薄いベールだけの姿になったウルスラグナは侍女ネシーナとともに今いるこの場をぐるりと見渡してみた。
自分の身の丈の数倍はありそうな高い天井に広大な床、その全てに真っ白な大理石が貼り巡らされている。彼女が立つその向こうには一辺が十メートルほどの黒御影石のボーダーで描かれた
「ウルスラグナ様はこれからどちらに召されるのでしょうか。どこかご希望はございますか?」
「どこに飛ばされるのか、それは神の思し召しだ。だからそんなことは考えないようしている。考えないようにしているのだが、でも
「それはなぜですか?」
「この肌と瞳の色だ。私は神が与えてくれたこの姿に誇りを持っている。父と母も私を愛してくれているし、この国の民もそうだ。しかし
「何を言ってるの。ウルシャはこの国のみんなから愛されてるし尊敬もされてるわ。加護も祝福も、それに体術だって誰にも負けないし、みんなウルシャが王位を継承してくれればいいのにって思ってるわ」
「ネシーナ、それは言い過ぎだぞ。兄上たちは私なんかよりもずっと立派だ」
「そうね、ごめんねウルシャ……あっ」
そう言いかけてネシーナは自分の言葉遣いにハッと気づいて顔を真っ赤にして言い直した。
「も、申し訳ございません、ウルスラグナ様」
「ハハハ、もう遅いよネシーナ。いいじゃないか、神官たちが出てくるまではいつもの通りで」
ネシーナはあきらめたように「はぁ――」と長い溜め息をつくと肩の力を抜いて会話を続けた。
「でもウルシャならどこに行っても大丈夫。
「未知の世界か……そう言えば最近、緩衝地帯の
「いえ、私はなにも」
「そうか……実はその棄民の奴等なんだが、私が聞いた話ではどうやら未知の世界への侵入を企んでいるらしいんだ。城外に出ることもあるお前ならば何か聞いてるのではないかと思ったのだが」
その問いにネシーナは先ほどまでの明るさとはうって変わった悲し気な顔になってウルスラグナから目を逸らせてしまった。
――*――
やがて神殿の奥から五人の神官が姿を現した。彼らはみな白装束に身を包み、その顔も白い布で覆い隠していた。そしてそれぞれが右手に金属製のランタンにも似た何かを持っている。五人は床に
真正面の頂点に立つ一人がウルスラグナに前に出るよう声を上げる。彼女は姿勢を正して胸を張って進む。そして五芒星を形作る黒御影のボーダーの前で片膝をつくと正面に立つ神官に向けてこの日のために暗記していた神を讃える詩を暗唱した。
それが済むと目の前の神官が小さく頷いて五芒星の中心、正五角形の中に立つように促す。ウルスラグナがその中心に立ったことを確認すると、各頂点に立つ五人の神官は右手を挙げながら声を揃えて詠唱を始めた。すると足下に置かれたランタンのような器具から青い光が放たれた。
今まさにウルスラグナの
荘厳さを超えて威圧感を感じさせるような静寂。
するとそのとき、その静けさを破るような喧騒が神殿の中に響き渡った。
破壊されぽっかりと口を開けたその向こう、神殿の外では大勢の民と兵士が小競り合いをしているのが見える。やがて侵入者の数は増えてゆき、慌てた神官たちは詠唱を止めてその場を去ろうとしていた。
「神官様、お願いです、ウルシャを、ウルスラグナ様を!」
ネシーナはそう叫びながら手にしたカゴをウルスラグナに向けて放り投げた。
「ウルシャ、今はそこが一番安全なの。だから、そこを動かないで! さあ、神官様、早く、早くウルスラグナ様を」
状況を察した反乱者が神官に襲いかかろうとするも兵士がそれに応戦する。神官たちが慌てながらも再び詠唱を始めるとウルスラグナを囲む五角形は青い柱となって彼女を囲んだ。
「ネシーナ、ネシーナ――!」
ウルスラグナは彼女を助けに向かおうとするも光の壁に阻まれて外に出ることはできなかった。
脱出を試みて壁を叩くウルスラグナの目にこちらを見据えて立つひとりの男の姿が映った。その男は身なりこそ薄汚れていたがこの国の民と同じ
「あれは
ウルスラグナは必死に声を上げて叫んだが光の壁の向こうにその声が届くことはなかった。
混乱の中でウルスラグナの様子に気付いたネシーナが不穏な構えを見せるその男を止めようと駆け寄るのが見えた。しかし間一髪で間に合わず、男の手から小さな球体が放たれてしまった。
ウルスラグナが立つ光の壁に迫る水の弾、それに向けて手を伸ばすネシーナだったがもはやそれを止める術はない。それでもネシーナは叫び続けた。
そして彼女の手の先が燃えるように輝いたその瞬間、ウルスラグナの目の前に迫る水の弾が蒸気となって炸裂した。
果たして直撃はまぬがれたものの、光の柱はその衝撃で激しく揺れる。まるで白い闇のごとく目の前を覆っていた蒸気が晴れたとき、ウルスラグナの目に飛び込んできた光景は火柱と煙、そして群衆に破壊される神殿と騒乱に巻き込まれるネシーナの姿だった。
「ウルシャ、お達者で!」
ネシーナのそんな叫び声が聞こえた気がした。そしてそれがウルスラグナが見た
――*――
暗転。
ウルスラグナの視界は闇に閉ざされた。音も光もなく空気の動きもない。平衡感覚は失われ、彼女はその場にへたり込んだ。突然の出来事に不安だけが彼女の心を満たしていく。
とにかく落ち着かなくては。そうだ、あれはどこだ。ネシーナが投げ込んだあのカゴは。
ウルスラグナは最後に投げ込まれた籐のカゴの在りかを手探りで確かめてみる。しかし自分の手が届く範囲にそれはなかった。闇の中を這うようにして周囲を確認してみると、今いる場所から数歩ほど先にそれはあった。闇の中、手探りでそれを
今、彼女の中に神殿でネシーナと交わした言葉が甦る。世話焼きで頼りになる良き理解者、奴隷なんかじゃない、ネシーナはネシーナだ。そして身を挺してこのカゴを寄こした彼女の姿、それを思うとウルスナグナは胸が張り裂けそうになるのだった。
やがて闇の中で床が小刻みに振動するのを感じた。その周期は徐々に大きくなり、ついにはぐわりぐわりと大きく波打ち始める。手元に寄せていたカゴはいつしかどこかに滑って行ってしまった。その揺れにウルスラグナは床に両手をついてその場にとどまるのがやっとだった。
闇に包まれていた視界が今度は一転して明るくなる。
大理石の床はチェリー材のフローリング床に変わり、目の前の全てが初めて目にするものばかりになる。そしてウルスラグナが見上げたそこには短かく整えられた髪のスラリとした男性が訝し気な目で自分を見下ろすように立っていた。
男はまくし立てるようにして聞いたこともない得体の知れない言葉を吐き続けている。
ここはいったいどこなのだ。目の前の男が話す言葉は
まさか……そうか、
そんな考えが浮かんだ瞬間、ウルスラグナの中に膨大な情報が押し寄せてきた。未知の記憶がデジャヴとなって甦る。
甘い香りの黒い飲みもの、煌びやかな市場、若く脆い戦士、
続いて大量の言葉と見たこともない奇妙な象形文字が沸き起こると、それらが波のように押し寄せてきては頭の中がいっぱいに満たされていく。抽象的だった概念は具体的な映像となって流れだし、同時に耳の奥に響く言葉とイメージが次々とつながっていく。
それは延々と繰り返されて、やがて溢れる情報で飽和状態となった彼女の心は安息を求めて自らの意識を閉ざし始める。しかしなおも映像はウルスラグナの頭の中にこれでもかとねじ込まれていくのだった。
そして再びの暗転。それは彼女の防衛本能なのか、情報の波から逃れるかのようにウルスラグナの視界も意識も漆黒の闇の中に堕ちていくのだった。
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