第33話 いつもとおりの日常
緑川さんの件から一ヶ月とちょっと過ぎた頃。
賽奈先生、賽葉先生が人間ではなく天狐と呼ばれる狐町を守っていた妖狐だった事を知っても、私は変わらずにいつも通り賽奈先生の司法書士事務所で補助者をしていた。
「……まだ作成慣れていないから苦手なんだよね。法定相続証明一覧図」
私はパソコンのディスプレイに表示されているものを見ながら、ため息を吐き出す。
表示されているのは、被相続人や申出人などという文字の他に、氏名や出生、住所などの複数人の情報が書かれているものだった。
一番下には作成者、事務所名などが書かれており、そこにはこの事務所の住所などが記載されている。
私が作成しているのは、法定相続証明一覧図と呼ばれるものだ。
2017年から始まったもので、法定相続情報証明制度と呼ばれている。
横書きの相関図と似ているが、またちょっと違う。
法定相続情報証明制度と言われて聞いた事がある人はあまり少ないだろう。
二年ほど前に始まった制度のためまだ世間では浸透されていない。
そのため、お客様からも「聞いたことがない」と言われる事が多々あるので、事務所の方でも説明をする。
一応法務局のホームページに説明があるけど。
簡単に法定相続情報証明制度を説明すれば、文字通り法定相続人を証明することだ。
中身としては、書類を作成して法務局へ提出し相続人を登録して貰う。
なんで登録するの? 今までの通り相続して終わりじゃ駄目? という質問をされるが特に強制ではない。しない人もいるし。
私が法定相続情報証明制度のメリットはこれだ! と言える一つは、紙一枚で相続が証明できるようになることが大きいと思う。
例えば相続が発生し、銀行で被相続人の資産を相続人である者が下ろそうとした場合。
大抵、下ろせなくなっている。
銀行は亡くなったとわかると口座を凍結するから。
「私は家族だ」と言っても下ろす事は不可能。
なぜならば、口座名義人じゃないので。
そのため、銀行に知られる前に葬儀費用などに充てるために被相続人の通帳から、預金を下ろす人もいる。
事務所に駆け込んでくるお客様は、「銀行なんでわかるの? もう下ろせない。早く預金引き下ろしたいので手続き速攻で」と言って駆けこんでくる方もいらっしゃるので、金融機関によって差はあるかもしれないけど口座凍結は早いのかもしれない。
口座を凍結されてしまった場合は、相続人である証明をすれば銀行からお金を下ろす事が出来る。
相続人である事を証明するためには、ぶ厚い戸籍類が必要となる。
金融機関ごとに用意するのは面倒。
でも法定相続情報制度を利用すれば、法定相続情報一覧図の紙で相続が証明できるようになった。
一々、金融機関に集めた戸籍の束を持って行かなくても良いので楽になっている。
ただ、金融機関の担当者によってはまだ仕組みがわかっておらず、結局戸籍類を提出しなければならなくなったということもあるけど……
この法定相続情報一覧の作成は司法書士などの資格者に委任することも可能。
事務所でもちらほら依頼される。
私は法定相続情報をあまり作成しないせいか、あまり慣れていないのでなかなか進まず。
カタカタとキーボードを打つ手が止まってしまい、パターンが書かれている見本を見ながら作成している。
――午前中に簡裁へ郵券取りに行くのは無理かなぁ。
私は午前中に裁判所に行く予定をしていたが無理そうだ。
訴状を提出する時に印紙と共に予納郵券を添えなければならないのだが、訴訟が終わると裁判所から使わなかった郵券を返却される。
ついさっき、簡易裁判所から「郵券返却するので取りに来て下さい」という連絡があったので取りに行かなければならなかった。
郵券ってなかなか聞き慣れないけど、切手のこと。
入社当時は郵券ってなに? と先輩の鶴海さんに聞いた事が懐かしい。
切手は知っているけど、郵券という言葉は聞いたことがなかったから。
菜乃ちゃんも入社当時「郵券取りに来て下さいって言われたんですが、郵券ってなんですか?」と私と同じ質問をしていた。
午後からパソコンのメンテナンスの業者が来るから、できれば午前中に行きたい。
パソコンの調子が悪いので、見て貰う予定になっていたのだ。
最近、シャットダウンが出来なくなってきていて、パソコンが不安定。
サーバーにバックアップ取ってあるけど、パソコン壊れたら大変だし。
なので、今日は裁判所に取りに行けそうにない。
別に急ぎではないが、誰か近くに用がある人がいたらついでに取って来て貰えるように頼むことにした。
「すみません」
私は立ち上がると、オフィスデスクで仕事をしている鶴海さん達に声をかける。
愛花ちゃんは席を外しているようだ。
「どうした?」
鶴海さんと菜乃ちゃんが首を傾げて私を見ている。
「誰か簡裁行く人いますか? ちょっと今日手が離せなくて……郵券取りに行かなきゃならないんです」
「特に用事ないけど、代わりに行って来ようか?」
「鶴海先輩、大丈夫ですよ。うち、家裁に後見人報告書届けに行く用事があるので」
菜乃ちゃんは隣に座っている鶴海さんへ声をかけると、私の方へと顔を向ける。
「先輩。うちがついでに取ってきますよ」
「ほんと? 助かるよ、菜乃ちゃん。法定相続情報一覧慣れなくて時間取られているから、午前中行けそうにないんだ。午後からだとパソコンのメンテナンスの人が来るから行けないし。今取り掛かっているのが終わってからだから、来訪時間わからないんだって」
「紬先輩のパソコン、最近めっちゃ調子悪かったですもんね。なかなかシャットダウンしない時がありますし」
「それマズいって。ちょっと、つーちゃん大丈夫? パソコン使えなくなったら仕事出来ないよ」
「そうなんですよね。二か月前もメンテナンスの人に見て貰ったんですけど、異常がないみたいで……でも、調子悪いのは相変わらずなんですよ」
「「怪現象?」」
鶴海さんと菜乃ちゃんの声が綺麗に重なったので、私は苦笑いを浮かべてしまう。
絶対にないと言い切れない自分がいたからだ。
ここ最近、補助者の仕事意外で時々心霊現象などの妙な依頼があったし。
ほんと、みんな私の仕事を勘違いしていると思う。
ただの補助者なんですが。
「……普通に故障ですよ」
「今日、故障だって断定されれば原因判明で良いけど、また異常なしだったら交換した方が良いよ」
「確かに。交換の方がいいですね。壊れる心配して仕事をするよりは、新しいのを購入して貰った方が精神衛生面的にも良いですって」
「賽奈先生に相談してみて。きっと賽奈先生なら買ってくれると思うわ」
「そうですね。先生に相談してみます」
私は頷きかければ、右奥から「紬先輩」という華やかな声が届いた。
三人がほぼ同時に声のした方向へ顔を向ければ、賽奈先生の仕事部屋の前に愛花ちゃんの姿が。
胸には青いファイルを抱えている。
突然三人から一斉に視線を向けられたため、愛花ちゃんはビクッと肩を大きく動かして一歩後ずさりをしてしまった。
「わ、私なんかしちゃいましたか……?」
「違う、違う」
「ごめん! ちょうど皆でつーちゃんのパソコンの入れ替えの話をしていたんだ」
そう菜乃ちゃんが話せば、愛花ちゃんの体の強張りが解けていく。
「あー……先輩のパソコン調子が悪かったですもんね。午後からメンテナンスに業者が来てくれるって言っていませんでしたか?」
「そう、午後から来てくれるの。ただ、この前みたいに異常なしって言われちゃうと見守るしか出来ないんだよね。だったら、いっその事パソコン入れ替えした方がいいんじゃないかってみんなが」
「そっちの方が良いかもしれませんね。動作不安定ですし」
「賽奈先生に相談することにしたよ」
「でしたら、ちょうど良いタイミングかもしれません」
「なんで?」
愛花ちゃんの言葉に私は首を傾げる。
「私、さっき賽奈先生から資料受け取る時に紬先輩を呼んでくるように言われたんです。部屋に来て欲しいそうですよ」
「そうなの? ありがとう。行ってみる」
私は一度座ってパソコンで作成中のデータを保存すると、席を立った。
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