第30話 上司が天狐でした
――しっかりしなきゃ!
自分の両頬を強めに叩き、弱くなりかけた心を奮い立たせる。
気合いを入れると、私は賽奈先生と陽の方を見た。
目を離したのはほんの数分だったはずなのに、思いのほか淡々と状況は進んでいたようで、痛みのせいか三浦さんは気を失っているようだ。
彼女の体からはワイヤーのような糸が消えている。
扇で扇ぎながら立っている賽奈先生の足元には、青白く光る魔方陣が浮かんでいた。線文字B? と聞きたくなる読めない文字が所々に確認できる。
「捕縛陣か。ぬるいな。こんなもので私を捕えようと?」
賽奈先生が鼻で笑うと、陽が肩を竦める。
「まさか。捕縛陣で済むなんて思っていませんよ。出来れば捕縛で済みたいというのは願望です」
陽はそう告げると、「壱鬼、弐鬼」と名を呼ぶ。
すると、青白い光の塊が二つ、陽に寄りそうように現れる。
光はゆっくりと人の形になり、狩衣姿の青年と十二単を纏った少女の姿に変わった。
二人とも、頭には象牙のような角を二本生やしている。
「眷属か。しかも、鬼とはおもしろい」
「すみません、賽奈先生。天狐相手に手加減する余裕がないので、全力でいかせて貰います」
つい数時間前まではいつもの関係の二人が、今は対峙し戦闘態勢になってしまっている。
賽奈先生と陽は面識があり、三人で食事に行く仲だ。
それなのに、どうしてこんな事に……
賽奈先生は陽を認識があるのだろうか。
陽の方は先生と戦いたくないはずだ。時折、表情に曇りが窺えるから。
二人を止めようにも私には特別な能力がない。
あるのは――
私は陽の横を通り過ぎ、先生に向かって猪のように突進した。
腕を伸ばしてタックルするように抱き付きながら唇を開く。
「先生、陽と戦っちゃ駄目です! 絶対に。司法書士なら法は守るべきですよ。戦って怪我でもしたらどうするんですか。嫌ですよ、私。大好きな二人が戦うのを見るなんて。それに、明日は大安です。吉日ですよ。司法書士が一番忙しい日です。不動産取引四件入っているのにどうするんですか! 誰が取引に行くんですか? 億の物件の取引もあるんですよ。登記しないと。先生が担当でしょう? 杏先生は杏先生の取引があるから代理は無理ですよ」
私はまくしたてるように先生に告げる。
頭がぐちゃぐちゃで、論理的に先生を説得できないので内容がごちゃ混ぜだ。
どうか仕事大好きな先生の心に届きますように。
私は祈るように強く願う。
「お、おい紬……今は仕事のことは……というか、危ないから離れろ」
陽の動揺した声が聞こえたが、私は構わずに続ける。
「取引ドタキャンしたら、事務所の信用に関わります。そうなったら仕事の依頼減っちゃいますよ。鶴海さん達従業員どうなるんですか。早くいつもの先生に戻って下さい!」
「……仕事が減るのは困るわ。みんなにお給料支払えなくなっちゃう」
降り注いできたのは、いつもの先生の声音だった。
さっきと違って感情が込められている。
私は顔を上げて先生を見れば、「ごめんね、紬ちゃん」と微笑まれてしまう。
瞳の色は通常通り、綺麗な青みがかった黒い瞳に戻っている。
「紬ちゃんに包丁向けられて頭に血が上って……つい、我を忘れちゃった。私、もまだまだね。怒りの沸点低いみたい。賽葉に知られたら確実に怒られるわ」
「良かったです。戻ってくれて」
私は先生にぎゅっとしがみ付けば、「本当にごめんね。高いランチ奢るわ」と頭をポンと軽く撫でられた。
「神見君、ごめんね。紬ちゃんに抱きしめられちゃって」
ふふっと先生が笑えば、陽がほっと息を吐く。
「謝るのはそっちですか? でも、まぁ冗談言えるくらいに落ち着いて何よりですよ。事前準備なしで理性失った天狐とやり合うなんて、俺の方が分が悪いですからね」
「そんな事ないわよー」
「ありますって。先生の正体まったく気づいていなかったですしね。賽葉先生もですか?」
「そうね。あの子もよ」
「身近に天狐が二人って。泰山王様に修行不足って言われた意味がわかりましたよ」
陽は大きく肩を落とすと、「濃い一日だ」と言いながらこちらに手を伸ばす。
「元に戻ったらそろそろ紬を離して下さい」
「あら? やっぱり羨ましかったのね」
「……」
「さて。では、司法書士らしく法の下に人助けしましょうか。でも、その前に――」
賽葉先生はワンピースを纏った霊へと視線を向けた。
予想もしていない状況ばかり続いていたから、抜けていてしまったけれども、あのワンピースを着た幽霊の件がまだ残っていた。
彼女は私の頼みを聞き、彼の傍で寄り添っている。
「神見君。当初の予定通り彼女の事は任せるわ。私、ごらんのとおり倒すことは出来るけど浄化は出来ないの。賽葉なら出来るけど」
「任せて下さい」
陽は頷くと緑川さん達の元へと向かう。
緑川さんは不安げに幽霊の方を見れば、彼女はただ静かに頷く。
「わかっていますよね? 自分の置かれている状況が。このままこの世界に居るのは、あなたのためにはならない。人を殺めそうになるまで悪霊化したのに今自我が戻っているのは奇跡に近い」
「……彼は大丈夫なのですか?」
自分の事よりも緑川さんの事を心配する彼女を見て、私は本当に悪霊化していた霊なのだろうかと思った。
三浦さんの首を絞めていた映像が頭に過ぎる。
「大丈夫です。賽奈先生と賽葉先生がいますので。その点に関しては安心を」
陽が言えば、彼女は「お願いします」と深々と頭を下げる。
彼女の返事を聞いた陽が詠唱を口ずさめば、場の空気が変わっていく。
神社の境内に入った時のように、空気が澄んでいて気持ちが良い。
灰色がかっていた彼女のだったけれども、鱗が剥がれるかのように、灰色部分が剥がれて行きやがて色彩が戻ってくる。
現れたのは、二十代前半くらいの女性だった。
綺麗な腰まである長い髪が印象的で、和風美人という感じがする。
着ているワンピースはレトロ風で腰元が太ベルトになっていた。
「……めっちゃ可愛い」
とつい呟いてしまうくらいに元に戻った彼女は可愛らしかった。
歌うように奏でられている陽の詠唱により彼女の足元から段々と消えていく中。
ただ静かに見ていた緑川さんが「待って!」と叫ぶように口を開いたため、陽以外の人々が緑川さんの方へと顔を向けてしまう。
ワンピースを着ている女性の霊が驚いた表情をしながら緑川さんの方を振り向けば、緑川さんが真っ直ぐ彼女を見詰めていた。
「君はどうして僕を助けてくれたんだ?」
緑川さんの言葉を聞き、女性は悲しそうな表情を浮かべ、やや間を空きながらゆっくりと言葉を紡いでいく。
「私も貴方と同じだったの……お付き合っている人に殴られたり蹴られたりして……最後には暴力が原因で死んじゃったの……だから、許せなかった。暴力を振るうあの女が。どうして私が死ななきゃならなかったの? 死ぬべきはあいつらのような連中」
女性の瞳が急に瞳が鋭くなり、倒れている三浦さんの方へと見る。
憎しみの禍根がわかった。
それと同時に初めて会った時に彼女が言った台詞の意味も理解出来た。
殺すというのは、三浦さんに対して。
助けてというのは、緑川さんの事を。
彼女は自我を失いそうになりながらもSOSを発してくれていた。
同じ境遇の彼のために。
やがて陽の詠唱が終われば、女性の幽霊が空気にとけるように消えて言った。
「ありがとう」
最後に消える前に緑川さんが言ったその言葉を彼女は聞くことが出来たのだろうか。
彼女の居た場所に残されていたのは、あの綺麗な瑠璃色をしたボールペンだけだった。
「これのようね。あの子が憑りついていたのは。万年筆かしら?」
賽奈先生は屈み込むとペンを拾い上げる。
「ボールペンです。何気なくリサイクルショップで見つけて……仕事で一本ちゃんとしたものを持とうと思っていたので購入したんです」
「彼女と交際中に?」
「……はい」
「引き寄せられたのね。彼女か貴方かどちらかにというのは不明だけれども。彼女は生前の自分と同じ境遇に置かれている貴方を守りたかった。良かったわ。浄化出来て」
「彼女は大丈夫なんですか?」
「えぇ、問題ないです」
「そうですか……よかった……」
緑川さんはほっと息を吐くと彼女が立っていた場所を静かに見つめ安堵の微笑みを浮かべた。
ほんの少しの寂しさを含みながら。
「さて、後は私と賽葉の出番ね。法の下に問題解決をしましょう」
「――そうね。これからは私と賽奈の出番だわ」
突然届いてきた賽葉先生の声が室内に届く。
弾かれたように入口の方へと顔を向ければ、警察を引き連れた賽葉先生の姿が。
「留守電聞いて慌ててここにやって来たら、偶然エントランスで警察の方と出会ったのよ。色々あったみたいね。本当に色々」
賽葉先生は後半部分を強調しつつ、腕を組みながら賽奈先生を一睨みすれば、賽奈先生はビクリと大きく肩を動かしさっと端に寄った。
どうやらこの場を見て察したらしい。
「緑川武史さん。以前、当事務所を訪れて下さったそうですわね。紬ちゃんに伺いましたわ。私にお手伝いできることはございませんか?」
賽葉先生が緑川さんに向けて言えば、緑川さんは一度瞼を伏せると賽葉先生の方へと足を進めた。
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