第2話 迷惑なお客さん

 私は眉を顰めると、急いで肩から下げている鞄からカードキーが収納されたケースを取り出す。


 お客様が怒っているのだろうか。それとも第三者か――


 第三者なら厄介だ。

 こういう仕事だから時々、身の危険を感じてしまうような雰囲気の人も来てしまう時がある。

 そのため、うちの事務所は常に事務所を施錠しているし、中からも来客を確認して施錠を開けるようにしていた。


 事務所に今残っているのって、誰? と思いながらカードキーで鍵を外し扉を開ければ、私の視界にオフィス全体の光景が広がっていく。


 オフィスデスクや本棚などが設置してある事務所には、四十代後半から五十代前半の男性と二十代前半の女性の姿が。

 男はぼさぼさの髪に灰色のジャンパーと黒のズボンという恰好をしていた。

 ジャンパーのポケットに手を突っ込み、目を吊り上げて女性を睨んでいる。


 一方の女性の方は白のブラウスに黒のカーディガンを羽織っていて、下は爽やかなパステルイエローのシフォンスカートを履いている。

 彼女――この事務所の事務員である河原愛花(かわはらあいか)は身を縮ませて、体を戦慄かせていた。


 子ウサギを思わせる大きな瞳を潤ませて、両手を胸付近で組み神に祈るような態勢をしている。

 彼女の肩下まである緩くパーマの掛けられたミルクティー色の髪も彼女の恐怖に合せて揺れ動いていた。


 ――愛花ちゃん! また確認しないで開けたのね。こういう事あるから、入社当時から確認して開けてねって言われていたのに。


 ここで働いてもうすぐ五年。状況を見てすぐに察した。


 私が想像していた二択は、面倒な第三者か来客を怒らせたか。

 それは見事に面倒な第三者の方だった。


 しかも、最悪な事に私を含め、他の事務員達や先生達も留守。

 先月入社したばかりの新人事務員である愛花ちゃんが応対してしまっている。

 二人共、私が入って来たのに気付いていないようだ。


「マズいよね……」

 私は大きく息を吐くと愛花ちゃんと男性へ「どうかなさいましたか?」と声を掛けながら、二人の間に入っていった。

 すると、愛花ちゃんが弾かれたように顔を上げ、「せ、先輩っ!」と涙声を上げると私の方に駆け寄り、私の背に隠れしがみ付く。


 私は盾かっ! せめて状況説明くらいして!

 若干ぼやきたくなったが、今はこの人を追い出すことの方が先だ。


「お前が司法書士か?」

「いえ。当事務所の司法書士は二名おりますが、二人共外出中です。私は補助者です」

「なんでもいい。坂上のばーさんの相続登記ここでやっているだろ。財産どれくらいあったか教えろよ。投資家だったから、いっぱいあっただろ。不動産も沢山所有しているはずだ」

 相続登記というのは、相続を原因にした所有者の変更を行うことだ。

 確かに坂上さんの相続はうちでやっている。

 どうやらこの男は、うちで依頼を受けた相続のお客様の関係者らしい。


「失礼ですが、お名前をお伺いしても?」

「草壁浩二だ」

 坂上様の相続の分割協議書を作ったり、戸籍なども集めたりしたのも私だ。

 

 しかも、私は坂上様の相続人……つまり、息子さん達とも面識があった。

 依頼人が息子さん達だったし事務所にも何度か訪れて貰っているから。

 そのため、この男が相続人ではないのは確定している。


 ――財産狙いか。


 時々、いるんだよなぁ。相続の財産狙いの人。

 亡くなられた方の関係者で、相続人ではないけれども財産を教えろと怒鳴っているのだ。


 ほんと無理。そもそもなんで教えると思っているのか謎だ。

 顧客情報流せるかっつうの。


 こういうお客様には来て欲しくない。速攻出て行って欲しい。今すぐ塩撒きたい。

 いや、お客様ではなく、厄病神か。そんな事を言うと厄病神に悪いな。


 私が現状を受け入れている間にも「教えろ」と怒鳴り散らしている。

 耳障りな声だ。イラつく! という感情がどんどん泉のように湧いてきてしまっているので、私は負の感情をぐっと堪える。


 なるべく感情を顔に出さないように努めているが、人間なので無理。

 どうしてもこめかみがぴくぴくと痙攣してしまっている。


「この場所がどこかご存じですか?」

「司法書士事務所だろ。なんとか司法書士事務所」

「九尾賽奈司法書士事務所です」

「んなことどうでもいいんだよ。ごちゃごちゃうるせーな、事務員。俺はお前達と違って時間がないんだ。早くばーさんの遺産がどれくらいあるのか教えろ」

 男の口から放たれる更なる攻撃的な声は、事務所内に響き渡るくらいのボリュームだ。


 本当に面倒。ただでさえ、大量の仕事があるのに。

 こんな男の応対で貴重な時間を削られるなんて。さっさと仕事したいんだけど。


 ――あぁ、イライラする。今晩、いつもの店に飲みに行くか。


 とりあえずさっさと帰して仕事するべきだなと思い、私は「申し訳ありません」と口にした。

 すると、男の口元が緩んだ。


「わかればいいんだよ。さっさと言えよ。ばーさんの財産。いっぱい持っていたんだろ? あと、相続人も教えろよ。遺言はあったのか?」

 男はにやにやしながら、私に向かって口調を弱めて言う。


 アホか。なんで言うと思ったんだよ。言う訳ないだろうがっ!!


「申し訳ありませんが、お答えすることは出来ません。顧客情報を漏らすことなんて出来ませんので」

「俺を誰だと思っている! 訴えるぞ!」

「どうぞご自由に。訴えても何にもならないので。むしろ、私が顧客情報を貴方に漏らしたら罪になります。訴えるんでしたら、腕の良い弁護士をご紹介しましょうか? 上にある九尾賽葉(くおさいは)弁護士事務所は当事務所の九尾の姉が所長を務めております。とても優秀な弁護士の先生ですよ」

「……なっ。弁護士もぐるなのか」

 まさかここで弁護士の名前が出るなんて思ってもいなかったのか、男の表情と声音に動揺が窺える。


「申し訳ありませんが、お帰り下さい。お帰り下さらないのでしたら、警察を呼ぶことになります」

 警察のフレーズに男は怯むと、「ただの事務員のくせに偉そうに!」と私に向かって罵声を浴びせた。

 これ以上続くなら、警察かなぁと思っていると、男は舌打ちをすると身を翻し肩を大きく動かして玄関へと歩いて行く。

 到着すると乱暴に扉を開け、廊下へと出て行った。


「警察で帰って良かったわ。あの人はまだ良い方だったか」

 長々と居座る人もいるから、私としてはそっちの方が苦手なんのでまだ良かった。

 そう思っていると、私の後ろから「か、帰った……」というか細い声が届く。

 振り返れば、愛花ちゃんがフローリングの上にしゃがみ込んでいた。


「大丈夫?」

「な、なんとか」

 愛花ちゃんはまだ体が震えているし、瞳を潤ませている。

 確かに怖かっただろうなぁ。私はもう慣れて来ているから、恐怖よりもイラつきが増してしまっているけど。


 怖がっているところ申し訳ないけど、彼女に注意しなければならない。

 彼女がお客さんを確認しないで施錠を外してしまったことに。

 そうしないとまたこんな事が起きてしまうかもしれないから。


 今回はたまたま私が戻って来たから良かったけど……


「愛花ちゃん、また来客確認しないで施錠解除しちゃったでしょ?」

「す、すみません……」

 彼女は、眉を下げると頭を下げる。


 頻繁ではないが数年に一度ああいう人が来るからトラブル防止のため、必ず確認して来客の応対するように入社当時から先生にきつく言われている。

 ここは女性ばかりの職場なので尚更だ。


 けれども、入社して一ヶ月半の愛花ちゃんは時々つい忘れてしまうらしく、アポの確認や用件を聞かずに扉を開けてしまう。

 たぶん、自宅の感覚になってしまうのかも。

 私もうちではそんな感じだし。この間、モニターを確認しないで開けたら新聞勧誘だった。


「次回から気を付けてね。今回の人はすぐに帰ったけど、中にはなかなか帰らない人もいるから」

「……はい」

 彼女は弱々しく頷いた。


「一人の時に対処できないことがあったらすぐに先生に連絡して。危ないから。上の賽葉先生の事務所でもいいわ。必ず誰か来てくれるから」

「はい」

 愛花ちゃんの頬を涙が伝ったため、私は罪悪感に苛まれてしまう。

 胸が痛い。痛すぎる。


 な、なんか私が泣かせているような……でも、一応言っておかないと……

 人に注意するって難しい!


 ここって大きな企業と違って毎年新人が入って来るような所ではない。

 個人の経営の司法書士事務所だから。

 司法書士二名、私を含めた補助者三名と事務員一人の小さな事務所だ。


 なので、新人ってあまり入って来ない。私が働いている八年間で彼女が二人目。

 後輩に教えるのってなかなか難しい。


 注意したので、さすがにこれ以上は何も言うつもりはない。

 愛花ちゃんも怖い思いをしたから、次からは気をつけてくれるだろう。


 そう私の中では区切りがついたんだけど、愛花ちゃんの涙は止まらず。

 慰めた方がいいのか? それとも、そっとして落ち着いてから声をかけた方がいいのか?


 ど、どうしたら……と悩んでいれば、ガチャっと入口の扉の施錠が外れる音が聞こえてきた。


 弾かれたように顔を向ければ、そこにはグレーのジャケットに黒のインナー、グストライプのタイトスカートを履いているアジアンビューティーと言いたくなる美女が立っていた。


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