大して好きでもないくせに愛したいと願った罰だ
「この中でずっとじっとしてて。わたしが良いよ、って言うまで、絶対に物音一つ立てないで」
「うん?わかった」
「……理由すら聞かないの、年下の女に命令されて、嫌だとか思わないの」
「あーちゃんの言うことなら、俺はなんでも聞くよ」
「……あっそ」
ニコリと笑ったまま、先輩は暗闇の中で膝を抱えていた。
わたしがそうしろって言ったから、先輩は従っている。気持ち悪い。
でも、今からすることを知ったら、きっと先輩はわたしを嫌いになる。
だから、きっと大丈夫。
心の中で自分に言い聞かせて、わたしは先輩を自室のクローゼットに閉じ込める。
風祭さんからのLINEは偽物だった。
委員会が休みという情報は嘘で、恐らくその嘘を流したのは先輩だ。
どうやったのかはわからないけど、何らかの方法で先輩は風祭さんのLINEから嘘の情報をわたしに送りつけた。
証拠は何も無いけれど、不思議な確信がある。
根拠の無い、女の勘のようなものだ。
理屈なんてないけど、先輩がずっと何かを隠しるのは気づいていた。
そのうちの一つがこれなのだろう。
先輩の考えてることはわからない。
ずっとそうなのだ。
「……敷島?もしかして、痛い?気持ち、良くねぇかな」
覆いかぶさった樋口くんは鼻の頭にうっすらと玉の汗を浮かばせて、窺うようにわたしを見つめた。
張りついた髪を払うように右の頬を撫でられる。
小さい子供を宥めるような手つきだった。
樋口くんは先輩よりも太い指をしている。
先輩よりも日に焼けた腕でわたしを抱いて、先輩よりも穏やかなキスをしてくれる。
良い人だ、と思う。まるで、聖人のようだ。
あまりにも優しくて、現実感がない。
樋口くんはよく笑う。
犬歯を剥き出しにした明るくて楽しげな笑顔。
先輩とは違った笑い方。
わたしは樋口くんや先輩のようには笑えない。
どうして二人は、わたしなんかを好きなんだろう。
男らしい肩から覗く自室の天井を眺めながら、そんなことを考える。
先輩は、随分と前からわたしのことを知ってたようだった。接点はないはずなのに。
そもそも、わたしの対人関係は狭い。
親しい人間は風祭さんとりーちゃんくらいで、あとは委員会で一緒の子達とたまに義務的な会話をする程度だ。昔からそうだった。
中学生の時も、女子特有のグループ化する人間関係についていけなかったのだ。
わたしは学校の誰に対しても、あまり深入りしないように生きてきた。
その場しのぎで話していたクラスメイトとは、学年が上がり教室が離れると疎遠になる。
当たり前のことで、いつものことだった。
寂しい気持ちが無いわけじゃないけど、それでもあまり気にしていなかった。
少なくとも、自分のスタンスを変えるほどじゃない。
自己分析すると、わたしは視野が狭い人見知りで、自分のことしか考えられない人間なのだ。
それに、趣味が合わない同級生達と話すより、お互いの面倒臭い部分を把握しているお姉ちゃんと遊ぶ方が楽しかった。
家族以外に嘘を吐いているわけじゃない。
だけど、本音を話せたことはなかった。
お姉ちゃんやお母さん、家族相手なら好きなことが出来るから、自分の気持ちを濁らせなくて済む。気が楽だった。
わたしは感情の区分が上手くできないのだ。
クラスメイト達と話すと、段々と自分の心が澱んで硬くなっていくのを感じた。
濁った色の液体を少しずつ心臓にかけられるような感覚に陥るのだ。
その汚さと苦しさに耐えきれなくなって、わたしは相手から逃げてしまう癖がついた。
思えば、樋口くんはその辺の立ち回りが上手い気がする。
良い距離感を保ってくれるところは、りーちゃんと似ているかもしれない。
趣味は合わないけど、一緒にいると気を張らずに済んだ。彼はわたしを大切にしてくれる。
他人に対して好きとか嫌いとか、未だに良くわからないけど、樋口くんを好きになったらきっと楽なのだと思う。
わたしは、他人の愛し方がわからない。
人を好きになるって、どういうことなんだろう。
自分の口から漏れる吐息と喘ぎ声が、どこか遠く聞こえた。
背中に腕を回されて、抱きしめられると、より深く繋がって、自分のものとは思えない高い声が唇から零れ落ちる。
キスとか、セックスってなんでするんだろう。
愛情を確かめ合うため?子孫繁栄のため?欲求を満たすため?時間を潰すため?
コンドーム越しに吐き出されたものが皆の言う愛情の正体なら、わたしは一生をかけても理解できない気がする。
愛って、もっと、違ったものじゃないの?
自分の周りの酸素がどんどん薄くなる感じがした。
わたしだけが、ずっと人を愛せないのだ。
「ごめんな」
そう言い残して、樋口くんは床に散らばった制服を着ると、ただ黙って帰っていった。
樋口くんはキスマークや歯形をつけることがない。気を使ってくれているのだろう。
誰かさんとは大違いだ。
ブランケットを肩から被ったまま、わたしはベッドをおりて、クローゼットを開ける。
「これで、わたしのこと、嫌いになったでしょ」
膝の上に行儀良く置いていた白い手が、部屋から差し込む光に照らされて、ぴくりと微震した。
のろのろと顔を上げた先輩の瞳は虚ろで不安定に揺らめいている。
わたしを見上げながら、先輩は乾いた唇を動かした。
「あーちゃんが、すきだよ」
微笑を浮かべながら、吐き出された言葉。
ぞわりと、背筋に紙ヤスリで擦られたような痛みと悪寒が走る。
気がついたとき、わたしは先輩の肩を思いっきり蹴り上げていたのだ。
先輩はじぃっと視線を据えて、理不尽な暴力を受け入れる。
それが、どうしようもなく怖かった。
「なんで、ねえ、なんでよッ!?」
煮立った鍋のようにむしゃくしゃする胸の中。
わたしは激しい怒りに駆られて、ついに目の前の男の首に掴みかかったのだ。
先輩の首筋を締めながら、喉仏を押すように親指に力を込めると、先輩は苦しそうに双眸を細めて、血の気の失せた唇を震わせる。
その瞬間、わたしは先輩の顔が実に美しいと感じたのだ。
死ねば良い。こんな男は死ねば良いんだ。
そんな憎しみに比例するように、わたしは先輩が美しく見えてしまった。
この世界で唯一、最も美しい生き物なのだ。
先輩は、わたしが知る誰よりも美しい人だった。
だから、だからこそ、怖かった。
わたしが手を離すと、先輩は背中を丸めてゲホゲホと咳き込む。
必死に酸素を身体中へ巡らせる姿を見下ろしながら、わたしは今自分が何をしようとしていたのか考えて、顔から血の気が引いていくのがわかった。
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