愛してと言えたら何か変わった?

樋口くんはテニス部に所属していて、帰りはいつも遅いらしい。

夜練する自分に合わせて女の子の帰宅時間が遅くなるのは申し訳ないと言って、部活が終わるまで待とうとしたわたしを先に帰るように促したのだ。

本音を言うと一緒に帰りたかったけど、樋口くんはあまりベタベタし過ぎるのは好きじゃないのかもしれないと思って、言わなかった。

樋口くんは空気が読めないようで、過度な踏み込みや譲歩はしない主義らしい。

本人が教えてくれた。


「わたしね、同級生の樋口亮太くんと付き合うことになったんだ」

わたしが言うと、先輩は驚くわけでもなく、ただ「へえ」と返しただけだった。

相変わらずの笑顔だ。先輩の考えは読めない。

こちらの行動の真意が、どこまで伝わっているのかさえ分からなかった。

先輩は、わたしが食堂に行かなかった理由すら聞いてこない。

わたしが先輩を避けていることは察してそうだけど。

むしろ、全てを分かったうえで、あえてスルーしている気はする。

樋口くんが居たおかげか、今日は先輩がお弁当を渡しにくることは無かった。


先輩がいつ押しかけてくるのかと身体を縮めて脅えていたのに拍子抜けである。

万が一、お弁当を渡されそうになったとしても受け取るつもりはさらさら無いけど。

流石に恋人じゃない男の子の手料理を日常的に食すのはいかがなものかと思うのだ。

樋口くんは、ただ優しいだけじゃなくて、自分の考えや意見をきちんと話してくれる。

秘密主義な先輩とは大違いだ。

真剣な質問を煙に巻かれることほど、不快なコミュニケーションはない。

先輩と別れたのは正解だった。

信頼し合えない二人が恋人同士である必要は無いのだ。


わたしは困ったときに相談し合えて、どんなことでも遠慮なく話せる関係に憧れている。

叶うなら、先輩ともそんなカップルになりたかった。

カレカノ関係だけどだけど、同時に対等で友達みたいな仲になりたかったのだ。

相手を性欲発散の道具にしてセックスがしたいだけなら、それは恋じゃない。断言しよう。

そもそも、性欲発散は一人でやるべきである。

少なくともわたしはそう考えた。

これ以上、先輩の変態行為にわたしを巻き込まないで欲しい。解放して欲しかった。

先輩がわたしに執着する理由がわからない。

聞いても、適当は答えしか返ってこないのだ。


「あの、もう送り迎えとか、しなくて良いから」

舗装された道路を踏み締めて、わたしは語気を強めてそう言った。

見慣れた一軒家をいくつ通り越したところで、自転車を引き摺る先輩がわたしの隣から離れる様子はない。

「なんで?」

先輩は普段通りの口調でたずねる。

聞き分けの悪い子供のような言葉に、自分の内面がささくれ立つ。

公衆の面前じゃなければ、わたしは腹立ち紛れにポカリと一発食らわしていたかもしれない。思わず、わたしが見上げるように睨めつけると、先輩はじぃっと視線を据えて、先程の言葉を繰り返した。

「なんで?」

「……どうして分からないの」

「うん?」


先輩はニコニコとした顔で首を傾ける。

わたしは顔を顰めて、舌打ちをした。

「あのね。わたしは、先輩と別れたんだよ。もう、恋人でもなんでもないの」

「そうだな」

「……、今、わたしは樋口くんと付き合ってるの。だから、もうやめて」

「なんで?別に関係ないだろ」

その言葉で、我慢に我慢を重ねていたわたしはとうとう爆発したのだ。

手にしていたスクールバックをスイングさせて、先輩の身体に叩きつける。

教科書やその他諸々が入ったスクールバッグはそれなりの重さがあった。

しかし、先輩の態度はとても落ち着いたもので、さらにわたしの激情を駆り立てたのだ。


何度も何度も、スクールバッグを叩きつけた。

油紙へ火がついて燃え上がるように感情の歯止めが利かない。一種の恐慌状態だ。

やがて疲れ果てたわたしはスクールバッグを道路に下ろして、肩で息を繰り返しながら問いかける。

「先輩はわたしと樋口くんに嫉妬してるの?だから、許せなくてこんな嫌がらせするの?」

「違うよ。嫉妬なんかじゃない」

「ならッ、どうしてわたしの言うこと聞いてくれないのッ!わたしのことがそんなに嫌い!?」

感情のままに地面からスクールバッグを持ち上げて、再び先輩に向けてスイングした。


最後のパワーを振り絞ったのだ。

力の抜けた手からスクールバッグが滑り落ちて、コンクリートに叩きつけられる。

わたしは膝に手をついて、乱れた呼吸を整えようとした。

いくら声を荒らげたところで通行人たちは我関せずとばかりに通り過ぎて行く。

先輩の主張は支離滅裂で、唯一わかるのはわたしの意見を一切聞いてないということだ。

まるで自分が透明人間になったような気分だった。

わたしは顎を引いて、下唇を噛む。

灰色のコンクリートにざりざりとローファーを擦りつけると、少し気持ちが落ち着いた。


「嫌いじゃない。大好きなんだ。愛してる。あーちゃんが誰と付き合ってても、俺はあーちゃんがずっと好きだよ。俺以外を見てて良いよ。何をされても良い。何をされても、俺は永遠にあーちゃんの犬だから」

情事を彷彿とさせる甘ったるい声音が、心から憎らしい。

並べられた綺麗事に、反吐が出そうだった。

「……だったら、アンタに犬らしい役目あげる。次の日曜日ね、わたしは樋口くんとデートすることになったんだ。アンタはわたしと樋口くんのデート見守って。犬ならそれくらい喜んでやるんでしょ」


人として最低な言葉と侮蔑の眼差しを向けながら、わたしは薄く笑う。

冷淡さとほんの少しの諦めがわたしの胸に広がった。

期待という感情が、なんらかの言葉になる前に溶けて胃の中に落ちていく。

「犬なんだから、犬らしくしなさいよ」

やけっぱちだ。自分の言葉とは思えないほどに冷えきっている。失望してくれたら良かった。

けれど、先輩はわたしの言葉に嬉々と目を輝かせている。それを見て、わたしは思ったのだ。

酷くされて良い、何をされても良いと言うなら、それが本当か試してやろう、と。


どうせ、わたしの思いを懇切丁寧に一から十を説明したところで先輩はわたしの言葉なんて聞いちゃいないのだ。

「返事くらいしたらどうなのよッ、この駄犬!」

わたしが怒鳴りつけると、一人の通行人が足を止めて、わたし達の方を一瞬見るとすぐに歩き出した。

先輩は野外なことも気にせずに素早くしゃがんで、所謂カエル座りをする。

そして、主人の許しを乞う犬のように上目遣いをすると一言。

「わん」

と、鳴いたのだ。

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