口を開けば地獄が覗いた

あとのことは、あまり覚えていない。

先輩は何も言わなかった。正確には言えなかったのかもしれないけど。

先輩は、ただ黙ってわたしを見ていた。

ルビーの瞳は責めるように暗く濁っている。

わたしはスクールカバンを片手に先輩の横を通り過ぎ、玄関を出て、帰路を歩いた。

考えて、考えるほど、苦しくなって、息ができなくなって、身悶えしながら歩いたのだ。

夕焼けの色が目にチクチク刺さり、ドリルで削るような物音が背後から響いてきた。

わたしはその轟々しい物音の正体がわからず、ついに自分の頭が狂ってしまったのではないかと思い、身体が岩みたいに固まって立ち尽くしてしまったのだ。


俯くと、ぼたぼたと溢れ出た涙がコンクリートを濡らした。

やがて、立って居られなくなって、ぺたんとコンクリートに座り込み、しばらくの間、声を出して思い切って泣いたのだ。

落ち着いて考えたら分かったことだけど、あの物音の正体はバイクの走る音で、別段と恐ろしいものでは無かった。

わたしは目と鼻をハンカチで拭って、ズキズキと頭に走る痛みと止まらない涙を必死に押さえつけようとする。

目元がぽってり腫れて痛み出す。

帰巣本能に従って、オレンジ色に焦げた道を踏み締める。

長いこと顔もあげずに嫌悪の涙を零して、死んだようにぼんやりとした状態で、気がついたら、見慣れた道に出ていた。


わたしは電柱に手をついて、ズルズルと膝をついて蹲る。

裏切られた、という感情が胸の中を埋めつくしていたのだ。

引き出しの中身がフラッシュバックして、慌てて口元を押さえつけると手のひらに触れた生暖かい吐瀉物に産毛が逆立つのを感じた。酸の効いた臭いが鼻腔を貫く。

醜悪な音を立てながら、指の間から黄水が溢れ落ち、胃の中を一通り排出しきって、そうしたら、喉の痛みを紛らわせるように何度かむせ返った。

今朝から今の時間までに咀嚼した食物の全部が嘔吐物として混ざり合い、電柱の根元に生える白い花を汚して、悪臭を放っている。乾いたはずの頬を雫が伝う。


ショッキングな出来事は、受け入れようにも難しくて、わたしは自分のことで精一杯で、半ば気が触れたような有様だ。

清掃をするなんて頭は回らなかった。

公共の場を汚して申し訳ないなんて見知らぬ誰かへの気遣いができるほど、今のわたしに理性は無い。

制服の長袖は胃液で湿って変色している。

気絶したい衝動に駆られながら、立ち上がって、フラフラとした足どりで再び自宅までの道を歩き出す。

歩き慣れた住宅街を通ってマンションの前に来る頃には日が沈んでいて、長時間の徒歩を強いられた踵は重たい。

足元に重しをつけたみたいに疲労していて、情けない気持ちになった。


一人じゃ歩けなくなっているかもしれない。体力が落ちている。

前だったらこんなことでイライラすることは無かったのに、なんだか、とてもやるせなくて大声で泣き叫んで髪を掻きむしりたくなった。疲れている。

入口の自動ドアを通り抜けて、エントランスホールからエレベーターに向かう。

黒い扉が開いて、まるでわたしの心を表しているようだと思った。

朦朧とした意識のまま、三階のボタンを押して、扉の中に閉じ込められる。階を上がっていく。扉が開いて、痛む足を動かして、自宅の前で鍵穴に鍵をさす。

扉を開くと、スクールバッグを放り投げて、そのまま玄関に倒れ込むように横になり、鼻先と片頬をフローリングに擦りつけた。


帰り道が、やけに長く感じたのだ。

最近はずっと先輩に送り迎えしてもらっていたから、一人で歩くのは久しぶりな気がした。ひどい人だ。気持ち悪い。

先輩に、あんな男に、わたしは沢山のハジメテを奪われたのだ。大事にしたい、大切なものだった。

先輩が何か得体の知れない恐ろしい怪物に見えて、そんな先輩に何度も犯されたわたしの身体は、汚らわしいものだ。

フローリングに爪を立て、ガリガリと引っ掻く。気は晴れなかった。

それから、むくりと上半身だけ起き上がって、廊下に座り込んだ。

やがて、ゆっくりとした動作でローファーを脱ぎ、いつもより手間取りながら靴下を脱いで、素足になった。


ひんやりとした冷たさが素足に広がる。

今、この家には誰もいない。

いつものことだ。慣れたことだった。

食事をする気もお風呂に入る気も起きなくて、制服のまま自室の床で横になる。

そうしたら、いつの間にやら意識が途絶えていたのだ。

次に目を覚ました時はお昼で、高く昇った太陽の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

わたしは変に硬くなった身体を面倒臭く思いながら、机上の時計を確認して、もう学校は休んでしまおうと思う。

今更、教室に行ったところで変な目で見られるだけだ。

きっと、わたしが教室にいないことに気づくのはりーちゃんと先生くらいだろう。


今は、一人になりたい。

空腹が脳みそに伝達されて、それでもコンビニに行く気は起きなかった。

気分が良くない。掴みどころのない悲しみが胸を燻っている。部屋から出たくない。家から外に出たくない。誰にも会いたくない。誰かに会うのが怖い。話したくない。疲れている。涙は出なかった。

泣きたくはなったけど。喉が乾いて、頭がクラクラする。脱水症状だ。

前髪が張りついてベタついた額を親指でグリグリと押さえながら、立ち上がり、洗面所に行って、洗面台の蛇口を捻った。

石鹸を使って手を綺麗にする。

それから顔を洗うと、冷たい水は腫れ上がった目に染みて、むず痒い痛みが走った。

寝起き特有のふわりとした感覚が瞬時に消えて、意識がしっかりする。


思考は空っぽで、頭の中が空洞になったみたいだ。

自分用のタオルで顔の水気を拭い、鏡に映る自分の姿を眺める。

真っ赤に充血した目は痛々しくて、憐れだった。

両手で皿を作って水を掬い、うがいをする。喉に水分が触れて、ガラガラと音を立て喉奥まで洗浄してから吐き出す。

ウーロン茶が飲みたいな、と思った。

目は少しごろごろする。

いくらか、気持ちが落ち着いた。

思考停止しただけかもしれない。

わからない。

何一つわかることなんてなかった。


先輩はクソ野郎で、わたしの初恋は死んだ。

それだけが、残った事実で、痛いくらいの現実だった。

好きで、大好きだった。

すべては過去形だ。

先輩がわたしを好きだったのかすら、わからなくなる。

ちゃんとした普通の恋がしたかった。

普通の恋人同士になりたかったのに。

枯れたはずの涙が、またじんわりと溢れてくる。

わたしは、死んでしまいたかった。

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