贖罪さえ許せない
次の日も、その次の日も、わたしは学校を休んだ。
部屋に篭りがちになったわたしを黙認していたお母さんもそろそろ何か言いたげにしている。
直接、何を言われたわけではないけど、静かなプレッシャーを感じるのだ。
ハッキリ口にしてくれない分、タチが悪いように思える。
明確な言葉として責め立てられるのも時間の問題だろうけど。
まあ、お母さんは原因を根掘り葉掘り聞いてくることはないだろう。
それにわたしは何を言われようと話すつもりはない。
それは誰に対しても、である。
あんなおぞましい出来事を他人なんかに話せるわけが無いのだ。
自室の壁に掛けられたカレンダーを視界に入れて、日付を確認する。
流石に来週は学校に行かないとまずいと思う。
窓から見える景色は白く霞んでいて、空から落ちる無数の囁きが静かに世界に響いていた。
今日はバイトの日だ。無断欠勤が二回連続は許されることではない。
先輩から連絡が来るのが怖くて、スマホの電源は落としっぱなしである。
馬鹿なわたしは欠勤の連絡をするまで頭が回らなかったのだ。
店長には今日行って直接謝罪をしよう。
必死に頭を下げて、必要なら土下座だってする覚悟がある。
両頬をペチンッと音を立てて叩く。
小さな痛みが走ると、少しだけ目が冴えた。
よしっ、と頷き、気分を切り替える。
バリバリ働いて、じゃんじゃん稼いで、ソシャゲの推しに貢げば失恋のショックなんて治まるはずだ。
そう信じよう。
マンションのエントランスホールを通って、自動ドアを出る。
視界に入る存在。
認識した刹那、わたしはまるでみぞおちを打たれたように息が詰まり、奥歯が鳴って足がガクガクと震え始めた。
ゾワゾワとした寒気が背筋を走り抜ける。
耳の奥にキーンと高い音が響き、ゆるやかに視界が回転した。
「あーちゃん、」
ソレは、甘くわたしのあだ名を呼んだ。
黒い傘を差して、少し虚ろな目つきでわたしの住むマンションの前にいた。
ソレは、先輩は、焦点の合わない目で口元にはいつもの笑みを浮かべている。
コンクリートとスニーカーの擦れる音。
ゆっくりと、けれど着実に、一歩ずつ距離を詰められる。
パーソナルスペースを侵される感覚。
わたしは立ち尽くしていた。
黒い生地に頭上を覆われて、先輩を見上げる近さまで来て、一種の凄惨さがこもった深紅の瞳がわたしを映す。
棒のように突っ立ったままのわたしの頬に白い指先を伸ばし、触れようして、けれど先輩は迷ったように指で宙をかくと、わたしの肌に触れずにその手を下ろした。
「あーちゃん、お願い、こんな俺を許して……」
先輩がこんな甘えた声で許しを乞うなんて、予期していなかったことだ。
はっと不意打ちを食らったわたしは、先輩を睨みつけ、さらに憤激した。
気がついたときには、雨音の中を風船が破裂するような音が鳴り響き、わたしの右手は先輩の左頬に思いっきり打ちつけていたのだ。
先輩は空気を飲み込むように喉を動かして、恫喝するように目を細める。
空は暗く、大気は湿っていた。
地面を叩く音はもはや規則性も品位もかなぐり捨てており、下卑た茶番劇に対する万雷の拍手のようだ。
実際に、今日は万雷が轟きそうな天気の悪さである。
わたしならバイトが無ければ、外出したいとは思わない。
「なんで、来たの……いまさら」
「いまさらじゃない。あれからずっと、毎日来てたよ。あーちゃんに、会えなくても良いって、姿を見れなくても良いって。ただ、あーちゃんと同じ空気を吸えて、同じ景色が見れて、それだけで幸せだった」
熱に浮かされたような声色で、先輩は話し出す。
「あーちゃんになら、何されても良いんだ。本当に、なんだって、できる。あーちゃんが好きなんだ。愛してる。愛してるんだ。本当に好きなんだ。あーちゃん。俺はあーちゃんだけの犬だよ」
その言葉を聞くや否や、わたしは何とも知れない憎さと恐ろしさに駆り立てられて、絶叫する。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
続けざまに殴りつけて、それでも先輩は受け入れていた。
わたしは激しく肩で息を繰り返して、やがて地面にぺたりと座り込む。
先輩はわたしと目線を合わせるようにしゃがんだ。
こんな男に泣き顔なんて見せたくない。
なのに鼻の奥がツンと痛くなって、目頭が熱くなる。
ぐずぐずと鼻を啜りながら、わたしは自分の履いている靴と靴下を脱いだ。
そして靴下を一纏めに掴んで、先輩の方に差し出す。
「欲しかったら、あげる。だから、もう帰って」
やけくそになったわたしの言葉に、先輩は嬉々と目を輝かせる。
何故かそれが酷くカンに障って、わたしは靴下を丸めてから、出来るだけ遠くに放った。
雨に濡れた遠くの地面にぐしゃりと落ちる音。
靴下の投げられた方向をじっと見つめる先輩に、わたしは嘲るように頬を引きつらせて、意識して酷い言葉をかける。
「アンタは犬なんでしょ、欲しいならあげる。犬なら犬らしく拾ってきなよ」
言うと、先輩は黒い傘を閉じずに地面に置いて、雨の中を歩いていった。
悔しくて、ぼたぼたと溢れた涙を裾で拭って、わたしはゆっくり立ち上がる。
こんな最低な行為を命令されても怒らない先輩が、気持ち悪くて仕方が無い。
車酔いしたみたいにふらつく足運びで、マンションの壁に手をつきながら自宅まで戻る。
こんな不安定な精神状態でバイト先になんて行けるわけなかった。
色々なことを考えるほど、全身を縫い針で突き刺されるように苦しくて、気が狂いそうになる。
鍵を差し込んで、玄関の扉を開けると、わたしは廊下に倒れ込んで、胎児のように膝を抱えて丸くなった。
もう何もできないような気がして、呼吸が上手く出来ない。
ひゅーひゅーと喉が鳴って、わたしは両手で首元を覆うように押さえつける。
どくどくと心臓の響く音が思考回路をショートさせた。
頭の中が修正液を垂らされたみたいにくすんだホワイトで塗り潰されて、瞼は疲労感で重くなる。
わたしはちょっとだけ、と自分に言い聞かせながら目を閉じた。
そして、そのまま眠ってしまったのだ。
次に目を覚ましたのは、お母さんが仕事から帰ってきたあとのことで、わたしの身体の上にはサーモンピンク色の薄手の毛布がかけられていた。
両目をこしこしと擦りながら、身体を起き上がらせる。
パサリと肩から滑り落ちた毛布をしばらく見つめてから、右手に巻きついた安物の腕時計を確認して、下唇を噛む。
……今度こそバイトはクビだ。
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