幸せだった、気づかなければ

「……まあ、俺はあーちゃんならいつ来ても良いよ?今日でも良いけどジロがいるし、明日にするか?」

「エッ、ごごごご両親の許可は?……そッ、それこそ、菓子折とか何か持っていかなきゃでは……」

「ああ、うん。それは良いよ。俺って一人暮らしだから」

なん……だと。

あと、いつの間にジロくんを呼び捨てする仲になったの先輩。素直に羨ましいぞ。

それにしても、一ヶ月の記念日を迎える前に先輩の家に突撃することになるなんて。

わたしが言い出したことだけど、いきなりの急展開である。


お互いの授業が終わると、わたしは先輩の漕ぐ自転車の後ろに乗っかった。

他の生徒たちは、もはや見慣れたとばかりの総スルーだ。人間とは順応する生き物である。

クラスメイトたちに冷やかされたのは付き合い始めの一週間のだけだった。

今ではもはや日常風景の一部と化しているとばかりの扱いを受けている。

要するに眼中に無い。クラスの女子グループは他人の彼氏より自分の恋路が大事なのだ。

同級生を校舎裏に呼び出す暇があるなら、アイラインを引いている。そんな女たちなのだ。ありがとうクラスメイト諸君。

いじめとかに発展しなくて心底よかった。


先輩はわたしを乗せて、迷わず真っ直ぐに自転車を走らせる。

十月の風と光はほどよくひんやりしていて、快適さだけを分け与えてくれるようだった。

土手を通りながら、下の河川敷を見ると大人と子供が入り混じって草野球に興じていて、純粋に良いなと思う。

野球のルールはよくわからないけど。

チームを組めるほど遊ぶ相手がいるのは凄いことだ。

選手としてマウンドに立ちたいかと言われたら全力で否定するけど。

スポーツは苦手だ。特に球技なんて不慮の事故で怪我をしたらと考えたら恐怖のあまり倒れたくなる。倒れないけど。


というか、先輩の住んでる場所はわたしの家とは反対方向でかなり離れている。

わたしを家に送ってから帰宅したら、二時間近くかかるんじゃないだろうか。

やはりというかなんというか、予想してなかったわけではないけど、今更ながら申し訳なくなった。

橋を渡って、公園を見送って、神社の前を通り過ぎると、先輩は唐突に自転車を止めた。やっと、目的地に着いたらしい。

自転車の後ろから下りて顔を上げて、度肝を抜かれた。

目に入ったのは二階建ての一軒家で、黒い瓦屋根に一階はグレーで二階はホワイトという和風モダンな外装でバルコニーが見える。


こんな立派な一軒家に高校生が一人暮らしなんて、ラノベ主人公みたいだと思った。

謎の美少女がいきなり押しかけてくる感じの。

先輩は自転車のカゴに放り込んでいたリュックから鍵を取り出し、自宅の鍵穴に差し込んで扉を開ける。

わたしの方を振り向いた先輩は、玄関前の階段の段差でいつもよりさらに目線が高い。

「入る、よね?」

先輩に声をかけられ、何かぼんやりしていたわたしの思考はハッと我に返った。

足を踏み入れた広い玄関には、傘立ての傘が一本とローファーが二足。

それだけだ。それしかない。


靴箱の上は空っぽで、ひどく殺風景だった。

ぬいぐるみや写真立てが飾られている我が家とは大違いである。

先輩は自転車を持ち上げて、玄関に入れると鍵を閉めた。

先輩は黒いローファーを脱ぎ、ぴっちり揃えて玄関の端に寄せる。

わたしも真似するように、ローファーを脱いで反対側の端っこに寄せた。

布越しに伝わるフローリングの感触。

外観を裏切らないオシャレな内装に、安物の靴下を履いていることが少し恥ずかしくなる。

やっぱり、先輩ってボンボンなのでは?

育ちが良いとは常々感じていたけど、モノホンだったとは……。


しかし、廊下を通る際に見えたリビングは物がほとんどなくて、がらんとしていた。

そのくせ、塵一つなく掃除されていて、新装開店準備中の喫茶店を彷彿とさせる。

他の人間の気配を感じない。先輩って本当に一人暮らしなんだ。寂しくないのかな。

「部屋は……あんまり漁らないでね。恥ずかしいからさ」

先輩はわたしを勉強机のある部屋に案内すると、飲み物や食べ物を取りに行くと言って部屋から出ていってしまった。

三枚扉の可動式本棚とリンゴ印のノートパソコンに、高そうなセミダブルのベッド。

白いチェストの上にはアマチュア無線で使うオールモード機から、薄型テレビといったリビングにあるようなものまで集結していた。


この一部屋だけで生活ができそうである。

わたしはベッドに腰かけて、身体をバウンドさせる。フワフワだ。

部屋を眺める。家族写真が一枚もない。

どこかに隠してるんだろうか。

先輩の両親ってどんな人なんだろう。

そもそも、ご両親はご存命なんだろうか。会ったことがなくて、存在するのかすら疑わしくなってきた。非常に気になる。

……この時のわたしは愚かで、好奇心は猫を殺す、ということわざを知らなかったのだ。

わたしはベッドから跳ね返るように立ち上がって勉強机に近づいた。

ちょっとしたスパイ気分である。

机の上を見ると小さな鍵があった。


これは……もはや、開けろという神の思し召しな気がする。むしろここまでお膳立てされたら開けなきゃ失礼だ。開けよう。

熱病めいた興味だった。わたしは鍵を手に取って、机の引き出しの鍵穴に差し込み、手首を捻る。開く。

中身を見て、息が止まった。

体中からいっぺんに汗が流れ落ちていくような感覚に囚われる。血も凍るほどの恐怖だ。窒息するくらいにおそろしくて、奥歯がガチガチと音を立てる。

震える手で掴んだ。それは、学校のロッカーに置いてきたはずのわたしの体操服で、下には目線が合わない紙切れのわたしが何人もいた。そして、写真と混ざるように乾いた経血のついたナプキンがある。嫌悪から胃酸が逆流した。


口内が嫌に酸っぱくなって、でも、必死に嘔吐を堪える。わたしの写真と変色したナプキンの中に音楽プレーヤーが埋まっていて、それは先輩が日常的に使っているものだった。

冷えきった指先は黄色のイヤフォンを片耳にはめて、画面に表示された【2019/09/22】というタイトルを再生する。

既視感のある会話。先輩とわたしの声が遠くから聞こえて、やがて、ギィッ、と扉が開く音がする。わたしの独り言。水の流れる音。排泄音。涙が溢れてきた。

「あーちゃん」

振り返ると、先輩が、無機質な目で、わたしを見つめていて。

「へんたい……」

わたしの口から零れたのは、嫌悪に充ちた軽蔑の言葉だった。

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