愛する君のすべてを知らない
深緑の草原は、音と熱のない光で焼かれているようだ。
背後からやってくる風が冷たく膝の裏をくすぐる。
暖色の空に見下ろされて、ジロくんの黒い毛並みとわたしの肌が人参色に輝いた。
野菜ジュースが飲みたくなる。あとでコンビニに寄ろう。
道の端っこに生えた雑草がコンクリートに櫛の歯のようなシルエットを映す。
わたしは我らがアイドル犬である柴犬のジロくんの散歩をしていた。
渦巻き柄のスカーフの下の首輪と繋がる青色のリードを握りしめながら、りーちゃん指定のコースを歩く。
最近は本当に、日が暮れるのが早くなった気がする。
あれから、週に一度の頻度で先輩はわたしの家に来るようになった。
約束なんてしなくても、毎週日曜日はゲームの日という暗黙の了解が出来つつある。意思疎通が凄まじい。
このままだと先輩と付き合い始めて、一ヶ月を迎えてしまう。早いものだ。
先輩は毎朝わたしの住むマンションの前にいて、自宅から学校までの道のりを自転車で送ってくれるし、お昼休みになると手作り弁当を片手に教室までやってきて、わたしのマシンガントークに耳を傾けながら一緒にご飯を食べてくれる。
放課後になると先輩の漕ぐ自転車に乗って自宅まで送られる毎日だ。
さらに、アルバイトがある日はバイト先まで送り迎えしてくれる。
ダメ人間製造機の気配を感じた。
鼠輸送任務より戦闘がお任せな駆逐艦娘に匹敵する包容力である。
先輩はわたしの母になってくれるかもしれない男性だった……?
赤い彗星の異名を持つエースパイロットの気持ちが分かるような、分からないような。
先輩のお弁当が美味しすぎて、すっかり舌が肥えてしまった。胃袋をがっちり掴まれている。
コンビニのお弁当が美味しく食べられない。大変な事態だ。
わたしの夕食は基本的にコンビニorインスタント食品で、電子レンジとカップ麺に生かされている。
一応、簡単な料理なら作れるけれど、いつだって面倒くさい気持ちが勝ってしまうのだ。
オセロで言うなら全埋めパーフェクト勝ちである。ある種の天才だ。誇れることではない。
わたしの食事事情を知るやいなや、先輩は夕食分まで作って渡そうとしてきたけど、それは流石にお断りした。先手必勝である。わたしが声に出して拒絶を示すと先輩は口をへの字に曲げてなんとも言えない表情をしていたけど「いつか一緒に住む時の楽しみにしたいから」と言えば、渋々と了承してくれた。
先輩は意外と押しが強い。要望を通すにはゴリ押しに流されない強い意志を保つ必要がある。鋼のような心が必要だ。いい加減に学んだのである。
痛みを伴わない教訓には意義がないとよく言ったものだ。使いどころが違う気はするけど、金髪三つ編みボーイの言い分は正しい気がした。
思い返すと、ちょこちょこ先輩の手のひらで転がされている感じが否めない。
狼谷なんて苗字をしながら先輩は狐のように狡猾なのだ。
ゲームに負ける度に辱めを受けている気がする。最近になってやっと自覚したけど、先輩は自分が優位に立てる、または勝てるという確信がある時しか勝負事に乗らないのだ。恐ろしい。
勉強と料理に加えて、ゲームの才能まであるなんて先輩の残念要素は歌が下手っぴなことくらいなんじゃないか。
才能と苦手の比率が取れてないと思う。
先輩は気にしているみたいだけど、スパダリなイケメンが実は音痴だった、なんてギャップ萌えでしかない。欠点どころかむしろ親しみやすさを感じて可愛く見える。
先輩と会う度に中華拳法の構えを取ってドラゴンキックをお見舞しようとしていたりーちゃんも、最近では何も言わずにわたしを教室から送り出すようになった。
りーちゃんはわたしの交友関係が狭いことを少しだけ心配していたらしく、わたしが他人と関わることには大いに賛成らしい。まるでわたしのお姉ちゃんである。同い年とは思えない。
前を進むジロくんは一所懸命に尻尾を振っている。わたしがジロくんと会うのは久しぶりだ。
先輩と付き合い始めてから、ジロくんの散歩はりーちゃんに任せきりだった。
りーちゃんの飼い犬なんだから当たり前ではあるけど。
というか、飼い主じゃないわたしが散歩を代わってもらえること自体が奇跡みたいなものだけど。
ジロくんはわたしの癒しである。愛玩動物の頂点を取れてしまう可愛さなのだから仕方ない。
「あれ、あーちゃん?」
あだ名を呼ばれて、立ち止まる。
振り返ると、膨れたビニール袋を両手にぶら下げた先輩がいた。
安売りセール帰りの主婦のようだ。
わたしの元に小走りで駆けてきた先輩は、白い頬にオレンジ色の陰を帯びている。
ジロくんは先輩を見上げると、先輩と同時に首を傾けた。
吹き出しそうになり、慌てて口を押える。
「きみがうわさのジロくん?」
先輩はジロくんと目線を合わせるようにしゃがむと灰色の地面にビニール袋を置いて、ジロくんの鼻先に手を差し出す。
先輩の服の袖からは白い包帯がのぞく。
ふんふんと鼻を動かしたジロくんは、くるんとした黒い尻尾をブンブンと振った。
先輩の手はジロくんの胸から顎を伝い、下の方から上に向かって撫でていく。
先輩がマッサージをするようにジロくんの耳の付け根あたりを撫でると、ジロくんはうっとりと目を閉じた。
わたしは戦慄する。ジロくんがこんなに早く心を開くなんて……先輩、恐ろしい子……!
畏怖のあまり黒目が消えそうになる。
わたしが黙り込んでいると、先輩はわたしと目を合わせるように顔を上げた。
しゃがんだままの先輩は、自然と見上げる形になる。
口元は微笑んでいるけど、先輩の目つきは獲物を狙う肉食動物のそれだった。
あ、あかん。
「……、……良いな」
「じじじじジロくんはあげないからねッ!そもそもわたしのじゃないけど!」
「うん?」
先輩はジロくんを一通り撫でて満足したのか、重そうなビニール袋を涼しい顔で持ち上げた。
ビニール袋に印刷されたロゴは見慣れないものだ。
そういえば、わたしは先輩の家について何も知らない。
ので、聞いてみた。
「先輩ってどこに住んでるの?」
「俺?……え、別にどうでも良くない?」
「えっ、なんで?気になるけど」
先輩は虚をつかれた顔でわたしを見返す。エッ。
「な、なんで驚くのっ、決めたッ、来週はわたしの家じゃなくて先輩の家で遊ぼ!はい決定!」
先輩の返答を待たずにまくし立てるように宣言した。ショックである。
わたしは恋人に対してどれだけ無関心な女だと思われているのだろうか。凹む。
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