SS97 長女の選択

 会社帰りに突然の夕立に降られ、コンビニに一本だけ残っていた傘を共有して歩き出した春輝と伊織。


「伊織ちゃん、大丈夫? 濡れてない?」

「はい。と、いうか……春輝さんの方が濡れちゃってますよね……!?」

「俺はまぁ別に……」

「そういうわけには……! ……い、いきません、ので」


 言葉の途中で、急速に伊織の語調は弱まっていき。


「失礼……します、ね」


 そっと、春輝との距離を更に詰めた。


 腕と腕が、触れ合う距離。

 伊織に上着を譲って雨に濡れたせいだろう、春輝の腕はひんやりと冷たく感じられた。


「……確かに、これがベストかもね」

「……です」


 また、言い訳じみた会話。


(私、赤くなっちゃってないかな……!?)


 腕からドキドキが伝わってしまわないかと、今更ながらに少し心配になる伊織である。


「………………」

「………………」


 それからしばらく、二人の間を少し気まずい沈黙が支配した。


「あー……っと」


 春輝は、いかにも何か話題はないかといった様子で視線を左右に彷徨わせ。


「伊織ちゃん、来年受験生だよね」


 ふとした調子で、切り出してきた。


「え? あー……はい」

「……?」


 自明な事実にも拘わらず反応が鈍くなってしまったせいで、春輝は疑問顔だ。


 けれど、伊織もこの状況が気まずいゆえだろうと納得したのか。


「夏期講習とか、そろそろ行っとかなくて大丈夫なの? 行きたい塾とかあったら、遠慮せずに言ってね?」


 そんな風に、話を続ける。


「いえその、お気遣いなくっ。学校の勉強だけで、十分ですのでっ」

「そっか、伊織ちゃんは成績優秀だもんねー。行きたい大学はもう決まってるの?」

「いえ……まだ、です」

「そうなんだ? まぁでも、伊織ちゃんのことだしちゃんと考えてはいるんでしょ?」

「それはまぁ……はい……」


 学校の進路相談でも、似たような流れがあった。


 ──小桜さんはしっかりしてるから、安心して見ていられますよ。


 先生は、そんな風に続けたが……春輝は。


「でも、ちょっと心配ではあるかなぁ」

「えっ……?」


 真逆の言葉が出てきて、伊織は思わず春輝の顔を見上げる。


「伊織ちゃん、しっかりしてるように見えて……いやまぁしっかりしてはいるんだけど、一人で抱え込んじゃうとこあるでしょ? それに自分のことより他人を優先しちゃうとこもあるし……受験の年くらい、自分を最優先に考えなよ?」


 一年前なら……会社の同僚でしかなかった頃なら、きっと春輝も先生と同じようなことを言っていたのではないだろうか。


 その変化が、伊織の胸にじんわりと温かく広がっていく。


「何でも相談に乗るから、何かあったらちゃんと言ってね? あっ、ていうか、そろそろ家事の分担減らした方がいいよなー。俺も割と早く帰れるようになってきたわけだし」


 春輝は本気で、全力で伊織の事を考えてくれている。


 それは、とても嬉しい。

 でも、その気持ちはあくまで『家族』に向けられるものだ。


 家族同様に想ってくれているのだって、凄く嬉しいけれど……少しだけ、胸がチクリと痛んだ。


「あの、ありがとうございますっ。でも、今のままで全然大丈夫ですのでっ」


 その気持ちを、笑顔で包み隠す。


「や、流石に来年になっても今のままってわけにはいかないし今のうちから徐々に移行していった方が良いでしょ」

「えっ、と……というか、ですね……」


 言おうかどうか、まだ迷っていたことだったけれど。


「たぶん私、大学受験はしない……と、思いますので……」

「えっ……?」


 むしろ今が好機かと考え、思い切って切り出すことにする。


「でも前に、情報系の学部への進学を考えてるって言ってたよね?」


 それは、まだ春輝の家にお世話になる前に交わした雑談の中で出た話題だ。

 そんな些細なことまで覚えてくれているのが嬉しい……と、いつもなら思うところだけれど。


 今度ばかりは、忘れていて欲しかった。


「いえあの、気が変わったというか……会社の皆さんを見ていると、大学で学ぶより実地で学んだ方が早いかなーとか思い始めましてっ」


 ちょっと早口にはなってしまったが、上手い言い訳作りは出来たと思う。


「……まぁ確かに、大学で学んだことが必ずしも実務に直結するわけじゃないけど」


 間近で春輝に真っ直ぐ見つめられ、ドキドキしてしまう……二つの意味で。


「あのあのっ、高校卒業したら春輝さんの会社に入社させていただくこととかって出来ないですかねー? あっ、やっぱり大卒じゃないと駄目ですかっ?」


 それを、冗談めかして誤魔化す。


「ウチは大卒必須じゃないし、伊織ちゃんならみんな大歓迎だよ」

「ホントですかっ?」


 今度は、半ば以上本気の喜びだ。


「その……春輝さんも、ですか?」


 少し勇気を出して、尋ねてみる。


「あぁ、勿論さ」


 春輝の微笑みに、心臓が高鳴って。


「君が、本当にそれを望んでいるならね」


 次いで、凍りついたかと思った。


「最近悩んでたのって、この件かな?」

「……はい」


 流石に今は、わかってくれていた嬉しさより気まずさが勝る。


「それで、気にしてるのは学費かな? それなら……」

「そこまでしてもらうわけにはっ!」


 きっと伊織が望めば、春輝は援助してくれるだろう。


 けれど。


「いかない……です」


 伊織は、絞り出すように声を出した。


 そこまでしてもらっては……それはもう、春輝との関係性が決定付いてしまう気がして。

 この気持ちを抱く資格を、失ってしまいうような気がして。


 ……それだけが、理由ではなかったけれど。


「うーん……まぁ学費に関しては、奨学金っていう手もあるしさ」


 伊織の本心までは伝わっていないだろうが、本気は伝わったのだろう。


 春輝は、少し困ったように頬を掻いた。


「会社で身に付くスキルって、割とその会社でしか使えないものだったりするんだよね。体系的に学んでおくに越したことはないし……あんまこういうこと言うのは良くないのかもしれないけど、大学って勉強だけする場所でもないしさ。行きたいなら、行きたいって意思は示した方が良いと思う」

「でも……私も働いて、少しでも早く春輝さんに借金をお返ししないといけませんし……」

「子供は、そんなこと考えなくても良いんだよ」


 優しく、頼もしい微笑み。


「お金のこと以外でも、俺に出来ることなら協力は惜しまないつもりでいる。子供が進みたい道に進ませてあげるのが大人の役割だと、俺は思ってるからね。俺も、そうやって大人に甘えさせてもらってきたんだし」

「……なら」


 伊織も、小さく微笑む。


「私は良いので、それは露華と白亜が望んだ時にしてあげてください」


 今の春輝との会話で、逆に決意が固まった。


 父親が来年になっても帰ってこないようなら、伊織の自立は急務となる。

 いつまでも人見家にお世話になるわけにもいかないし、それこそ露華や白亜の受験においては伊織の経済力が選択肢に直結すると言って良い。


 万一伊織が働くようになった稼ぎでも、妹たちを進学させてあげられないようなら……その時は、恥を忍んで『お願い』するかもしれないけれど。

、だからこそ、それを自分が使うわけにはいかないと思っていた。


 たとえ、伊織はその道に進むことが出来なくても……。

 これも、自分で『選択』したことだと考えている。


「……伊織ちゃん」


 そんな伊織に、春輝は少し困ったように笑った。


「俺の前では、お姉ちゃんの顔をしなくてもいいんだよ」

「えっ……?」


 言われた伊織は、パチクリと目を瞬かせながらその意味を考えて……。


「それは、その……! おっ、女の顔で良いということですか!?」


 最初に思い浮かんだ言葉を、そのまま口に出し。


「えっ……?」


 春輝の、ポカンとしたリアクションに。


「……あっ」


、やらかしたなと、瞬時に悟る伊織なのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る