SS96 悩める長女?

 ある日の、会社での風景。


「小桜さん、この資料まとめてもらえるー?」

「はいっ、承知致しましたっ」


 春輝は自分の作業をゴリゴリ進めながら、先輩社員と伊織のそんなやり取りを聞くとは無しに聞いていた。


「それとさっきいただいたデータ、入力終わりましたのでご確認お願いできますか?」

「ありがとー、もう出来たんだ? だいぶ早くなったね?」

「はい、色々ツールのコマンドとか覚えてきまして」

「そーそー、あるとないとじゃ全然違うよね。誰に教えてもらったの? やっぱ、人見?」

「あっ、いえ、お時間貰うのも申し訳ないですし……調べれば出てきますので」

「おっ、いいねぇ自分で調べるその姿勢。SE向きだよ」

「ふふっ、ありがとうございます」


 笑顔で先輩社員の元を離れた伊織が経理担当の方へと向かっていく様が、視界の端に映る。


「小桜さーん、領収書なんだけど……」

「はいっ、こちらにまとめておきましたっ」

「おろ、もうやってくれたんだ? ありがとねー。じゃあ宅配のお弁当の集金お願いできる?」

「今月分でしたら、皆さんからの集金終わって金庫に収めてありますっ」

「おー、そっちもやってくれたんだ。仕事早いねー。卒業したらウチ来ない?」

「いいんですかっ?」

「やー、実際さ。入社時点でエンジニアと事務の仕事両方知ってる子とか、人事部としても鬼欲しいでしょ」

「ふふっ、そう言っていただけますと嬉しいですっ」


 伊織はバイトとして、元々エンジニア系の仕事の手伝いをしていたが。

 以前、小桜家の借金問題が深刻な局面を迎えた際にバイト時間を増やして事務系の仕事も始めた。


 今はバイト時間は元に戻っているが、仕事内容に関しては兼務を継続している。

 仕事の覚えも早いと、今では両方で重宝されていた。


「もう、すっかりなくてはならない存在ですねー」

「……だな」


 いつの間にか隣に立っていた貫奈の言葉に、相槌を打ちながら。

 春輝は、少し気になっていた。


「………………」


 伊織が、時折……ふと、物憂げな表情を見せているような気がして。



   ◆   ◆   ◆



 その日の夕刻。


「伊織ちゃん、ここから一緒させてもらっていいかな?」


 定時を少し過ぎたところで上がった春輝は、自宅の最寄り駅から少し行ったところで伊織に声を掛けた。

 春輝より幾分早く退勤していたはずだが、どうやら同じ電車に乗っていたらしい。


「あ、はい、もちろんですっ」


 振り向いた伊織は、一瞬少しだけ驚いた表情を見せたものの微笑んで頷く。


「今日は早く上がれたんですね」

「そうだね、トラブルがなくて良かったよ」


 冗談っぽい口調ではあるものの、本気の言葉である。

 トラブル一発で、下手すれば一晩が飛ぶこともあるのだから。


 尤も、以前の春輝はトラブルの有無に拘わらず大抵終電帰りだったのだが。


「明るい時間に帰れるようになったのも、伊織ちゃんのおかげだよ」

「いえそんな、私は何もっ」

「いやいや、ホントに」


 フリフリと手を横に振って恐縮する伊織に対して、春輝はそう続ける。


「前に、俺の業務を見える化する提案してくれたのもそうだし……戦力的にも、凄く助かってる」

「そ、そう言っていただけますと嬉しいです……!」


 少し頬を赤く染めながらも、伊織は言葉通り嬉しそうに微笑んだ。


「そ、それにしても、この時間になってもまだ暑いですねっ」


 それから、照れくさそうに話題を変える。

 パタパタと手で自分を仰ぐ伊織の頬からつぅと汗が流れ、胸元へと吸い込まれていく様から春輝はそっと目を逸らした。


「そうだね。でも、俺は夏のこの時間帯の空気感って結構好きだなー」

「あっ、わかる気がしますっ」


 それを誤魔化しがてらの話題に、伊織がちょっと前のめりに食いつく。


「昼の暑さがまだ残ってるけどちょっと涼しい風も吹いてきて、そこになんだか草の香りが感じられたりして、真っ赤に染まっていく空が、夕日に照らされる雲が幻想的で……私も、好きですっ」


 と、春輝に向けてニコニコ笑いながら言ってから。


「……あっ」


 ふと、何かに気付いたような表情となる。


「今の『好き』というのはあくまで夏のこの時間帯が好きという話であって特に他意があるわけではないというか……!」

「ははっ……流石に、今の流れで変な勘違いしたりとかはしないから」


 早口で捲し立てる伊織に対して、春輝は微苦笑で手を横に振った。


「……はい」


 すると、なぜか・・・伊織はちょっとシュンとした様子となる。


「……?」


 理由がわからず、春輝は小さく首を捻った。


(……もしかして、最近何かに悩んでそうなのと関係あるのかな?)


 それから、ふとそう思い立つ。


「ねぇ、伊織ちゃ……」


 それについて尋ねようとした言葉の途中、ふと春輝は空を見上げた。


「……ん?」


 いつの間にか、空を覆う雲がやけに暗くなっていることに気付いたためである。


 ──ポツンッ


 春輝の手の甲に、雫が当たった。

 かと思えば、瞬く間に激しい雨が降り始める。


「伊織ちゃん、走ってっ」


 春輝は咄嗟にスーツの上着を脱いで伊織の頭に被せ、走り始めた。


「えっ、でもこれじゃ、春輝さんが……!」


 一緒に走り出しながらも、頭の上の上着を春輝へと返そうとする伊織。


「俺、身体の丈夫さが取り柄だからっ」


 少し冗談めかして笑い、春輝はそれを押し留める。



   ◆   ◆   ◆



「この先のコンビニまで、ダッシュだ!」

「あ、は、はい……! あの、ありがとうございますっ!」

「はいよ!」


 いつもよりちょっと強引な一面を見せる春輝に、伊織は。


「……ふふっ」


 春輝の上着で、緩んだ口元を隠しながら……勿論、申し訳ない気持ちもあったけれど。


(なんだか、春輝さんに包まれてるみたい……かもっ)


 そんなことを、密かに考えるのだった。



  ◆   ◆   ◆



 そうしてしばらくダッシュして辿り着いた、コンビニにて。


「えっ、もうこれ一本しか残ってないんですか……?」

「はい、申し訳ございません……この雨ですので、お求めのお客様が多く……」


 一本だけ残っていたビニール傘を手に在庫を尋ねた春輝に、コンビニ店員は申し訳なそうに頭を下げた。


「あっ、いえ、なら仕方ないですね。じゃあこれ、お願いします」

「はい、ありがとうございます」


 とりあえず一本だけ傘の会計を済ませて。


「……参ったな」


 それを手にコンビニの外へと出ながら、頭を掻く春輝であった。



   ◆   ◆   ◆



 コンビニの軒先っで、伊織はちょっと所在なさげに立っていた。

 びしょ濡れが二人も入店するのも申し訳ないと、春輝を外で待っているのである。


「ごめん伊織ちゃん」


 声に振り返ると、なんだかちょっと気まずげな表情な春輝の手にはビニール傘が一本だけ。


「傘、一本しか残ってないって……」

「あ、そうなんですか?」


 思わず目を瞬かせてしまったが、そういうこともあるかと納得した。


「なら、春輝さんが使っていただければ」


 それから、珍しくちょっとイタズラっぽく笑う。


「私には、これがありますのでっ」


 と、春輝の上着をどこか誇らしげに被った。


「そういうわけにもいかないでしょ……」

「ホントにいいんですけど……」


 むしろその方が良いまである……とは、流石に言えない伊織である。


「俺はこのまま家までダッシュするから、傘は伊織ちゃんが……」

「そ、それはダメです!」


 恐らく本気で実行するつもりの春輝を、慌てて止める。

 家までは、まだ結構な距離があるのだ。


「それなら、私も傘を使わずダッシュします!」

「む……」


 こういう時の春輝は頑固ではあるけれど、既にその説得方法を伊織も心得ていた。

 無論、春輝が強行するなら伊織も本気で実行するつもりである。


「……なら」


 伊織の本気を感じ取ったか、春輝は諦めの表情でビニール傘を開いた。

 そして、伊織との距離を詰める。


 コンビニの軒下で、二人共が一本の傘の下に収まった。


「こういうことに、なっちゃう……気が、するんだけど」


 春輝は、だいぶ気まずげな表情である。


「は、はいっ……! なっちゃう……かも、しれませんね……!」


 一方の伊織は、少し顔を赤くしてソワソワした様子を見せていた。


「伊織ちゃんは……その、イヤじゃない?」

「イヤなわけないです!」


 自分でも思ったより強い口調になってしまって、言った直後にハッとする。


「いえその緊急避難的なアレですので! あれですカルネアデスの板的な!? トロッコ問題的な!?」

「その二つは両方、どっちかが助からないやつだけどね……」


 早口で捲し立てる伊織に、春輝は微苦笑を浮かべた。


「じゃあ、まぁ……仕方ないね」

「はい……仕方ない、です」


 お互い、言い訳のようにそんなことを言い合って。


 一つの傘を共有して、二人は歩き始めるのだった。

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