SS68 着地点?

 貫奈からの助言により、伊織と向き合うことを決めた春輝。


「……よし」


 決意と共に一つ頷き、リビングに足を踏み入れる。

 中にいるのが伊織一人だけなのは、先程確認済み……だったが。


「きゃっ……?」

「おっ?」


 ちょうどリビングから出てきた伊織と、正面からぶつかってしまった。


 ポスンと触れる程度でほとんど衝撃もなかったが……フワリと甘い香りが漂ってくると共に、柔らかい感触が伝わってきて。


「っとぉ!?」


 春輝は、反射的に大きく飛び退った。


「えっ……?」


 そんな春輝のリアクションに、伊織はどこかショックを受けた様子を見せる。


「あ、あの……すみません、私……もしかして……」


 ヒク、と強張った伊織の頬が動いた。


「臭いですか!?」


 自らの腕を鼻に押し当て、スンスンと嗅ぐ伊織。


「今から、シャワーを……!」

「ちょちょ、待って! 違うって!」


 それからピュンと風呂場の方へと駆けていこうとする伊織の手を、咄嗟に掴む。


「臭くない! 臭くないから!」

「気を使わないでください!」

「誤解だって! 伊織ちゃんは、むしろ良い匂いだし! だけどそれが問題っていうか! このままじゃ君のことを良くない目で見てしまいそうっていうか!」

「汚物を見るような目で!?」

「違うよ!?」


 初手での思い込みが効いているようで、グルグル目の伊織は何もかもを悪く捉えるモードに入ってしまっているようだ。


「そうじゃなくて、君のことを……」


 異性として意識してしまいそうで。

 危うくそう言いそうになったところを、ギリギリで口を噤んだ。


(っぶねぇ……! 流石にこれを本人に言うのは気持ち悪すぎるだろ……!)


 どうにか踏みとどまれたことに、密かに胸を撫で下ろす。


「と、とにかく、一旦落ち着いて! さぁ、深呼吸! すぅ! はぁ! すぅ! はぁ!」

「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……」


 春輝が大げさに呼吸するのに合わせて、伊織もゆっくりと深呼吸。


「……すみません、思わずテンパっちゃいましました」


 そうして、ようやく落ち着きを取り戻してきたようだ。


「あの……本当に臭くないですか?」

「あぁ、もちろん。ごめんね、さっきのはちょっと驚いちゃっただけだから」

「なら……良かったです」


 大きく頷いて返すと、伊織はホッとした様子を見せた。


「っと、それよりごめん。邪魔しちゃったね」

「あっ、いえ……」


 どこかに行く途中だったんだろうと道を譲ると、伊織は小さくを首を横に振る。


「むしろ、ちょうど良かったというか……」


 ゴクリと喉を鳴らし。


「春輝さんのところに、伺おうと思っていたところでしたので……お話、するために」


 そして、どこか決意の宿った声でそう告げる。


「……そっか」


 その声に、春輝は伊織も自分と同じことを考えていたのだと悟った。

 いい加減、お互い向き合おうと。


「それじゃ、とりあえず座ろっか」

「はい、失礼しますね」


 テーブルを挟んで、リビングのソファに相対して座る。


「あの……」


 そして、伊織は正面から春輝を見て。


「あぅ……」


 その顔が、たちまち真っ赤に染まっていった。


「す、すみません……出来るだけ普通にしようと思ってたんですけど、やっぱりちょっと……」


 顔を両手で覆って、俯く伊織。


「伊織ちゃん」

「はい……」


 呼びかけると、伊織は俯いたまま弱々しい声で返事した。


「まぁぶっちゃけて言うと、俺も君と顔を合わせるのをちょっと……ちょっとだけ気まずく思ってるところがあるけどさ」

「ですよね……すみません……」


 引き続き、弱々しい声。


「謝らないで」


 春輝は、小さく笑う。


「あの時は、ちょっと混乱しちゃってたけど……俺としても、伊織ちゃんの気持ちは嬉しく思ってるんだ」

「えっ……!?」


 春輝の言葉に、伊織はガバッと顔を上げた。


「君はあの時、家族として親愛の情を示そうとしてくれたんだよね?」

「あっ、そういう感じですか……」


 そして、再びシュンと項垂れる。


「……間違ってたかな?」


 春輝としては、あの時のキス……本来は頬に当たるはずだったそれを、最終的にそう解釈していたのだが。


「えっ、と……」


 伊織は、何かに迷っているかのように言葉を詰まらせる。

 そんな彼女の顔を、真正面から見据えて。


(本当に、綺麗な子だよなぁ……)


 改めて、そう思う。


 大きな瞳に、真っ直ぐに伸びた鼻梁。

 そして、桜色の唇……を思わず意識しそうになってしまって、慌てて少しだけ視線を上げた。


 とはいえ、目を見ているだけでも胸の鼓動が高鳴ってきて。


(……大丈夫だ)


 けれど、春輝は内心で一人頷く。


 なぜなら、彼女を見ていて真っ先に湧き上がってくる感情は……最も大きな感情は。


(守ってあげたい)


 それ、だったから。


(あぁ、俺の気持ちは変わってない。伊織ちゃんとどうにかなりたいとか、そういうことを考えてるわけじゃないんだ)


 自分の気持ちを改めて確認し、ホッとした気分となった。


(このドキドキは……まぁ、そうは言ってもキスしちゃった相手だからな。吊り橋効果っつーか、一時的なもんだろう。これは、異性に対する……恋愛感情の類なんかじゃない)


 なお、ここで春輝は一つの事実を見落としている。


 守ってあげたいという想いが真っ先に来たから、恋愛感情ではないと断定した。


 だが……その二つは、十分に両立し得る・・・・・のである。


(良かった……!)


 あるいは……無意識に、その点から目を逸らしているのか。


「……あの」


 再び春輝を見据える伊織の目には、少し迷いの色が見て取れた。


「私、あの日のこと……後悔してますし、申し訳なく思ってます。やり直せるなら、やり直したいと思っています」


 その言葉は、先の確認に対する返答にしては話が繋がっていないように思えたが。


「そうだよね……とはいえまぁ、事故だったわけだしさ」


 ひとまず、春輝はそう返す。


「お互い、忘れることに……」

「嫌です」

「……え?」


 こんなにキッパリ断られるとは思わず、一瞬フリーズしてしまった。


「後悔してますし、やり直せるならやり直したいですけど……忘れることは、出来ません。忘れたくありません」


 いつの間にか揺るぎの消えた伊織の視線が、真っ直ぐ春輝を射貫く。


「私……初めての相手が春輝さんで、嬉しく思ってますから」

「………………えっ?」


 予想外の言葉に、今度は完全にフリーズする春輝。


「あっ、あのでも、私も、なんだか変に意識しちゃってるのは良くないとは思ってるので! 今後は普通に振る舞って参ります所存でございますので、はい!」


 先の揺るぎなさから一転、伊織はわたわたと慌ただしく手を動かし。


「それでは、そういうことでっ!」


 フリーズしたままの春輝を残して、リビングから走り去っていった。

 それをぼんやりと見送った後、しばらく。


(………………えー、っと?)


 ようやく、脳が少しだけ動き始める。


(今の、どういう意味だ……?)


 とはいえ、動揺のあまり思考は大変に鈍い。


(まさか、伊織ちゃんは俺のことが好き……)


 一瞬、その可能性が頭をよぎるも。


(なわけはないからぁ)


 即座に春輝システムが発動した。


(ないからぁ……えーと……)


 引き続き動きの鈍い脳で、考える。


(あの日に言ってた『嫌だとか思ってない』っていうのは、家族同然に思ってる相手だからキスも嫌ではない、ってことだよな? そう……俺だって、そう思ってるから全然嫌だなんて思っちゃいない)


 なお、春輝システムにより先日の伊織の言葉はそう処理されていた。


(つまり間違っても、伊織ちゃんが異性として俺のことを好きなんてわけはないんだからぁ……)


 だが、しかし。


(ないんだからぁ……からぁ……えっ!? からぁ、何なんだ!? 家族だからファーストキスの相手でも嬉しく思えるってこと……!? いや待て、『初めて』って言葉の解釈を間違えているのでは……!?)


 流石に今回は、納得出来るような仮説がすぐには浮かばない。


 そのまま、半分フリーズしたまま考えることしばらく。


(……考え方を変えよう)


 ふと、そう思った。


(伊織ちゃんがどういうつもりで言ったのかなんて関係ない。重要なのは、俺が勘違いしないこと・・・・・・・・だ)


 結局、春輝システムは堅牢であり。


(いずれにせよ、俺は保護者として彼女たちを守る……うん、大丈夫だ。今までと何も変わらない)


 何歩か進んで、何歩か戻った感じのこのキス騒動。


(………………とはいえ、どういう意味だったんだ?)


 最終的に、進んだのか戻ったのか……現時点では、誰にも不明なのであった。

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