SS65 テンパりの後に
イルカショーも終わり、他に誰もいなくなったイルカスタジアムの観客席にて。
「………………」
「………………」
伊織と春輝は、互いに無言でただひたすら項垂れていた。
空気感は、完全にお通夜のそれである。
唇が離れた後、両者一言も発することなく……示し合わせたかのように、この体勢に移行したのだった。
今現在、伊織の胸を高鳴らせているのは恋愛的なドキドキではなく。
(やっっっっっっっっっってしまった……!)
やらかしから来る動悸であった。
(私の馬鹿、変なこと考えるから……! 無理矢理に、春輝さんの……く、唇を、奪っちゃうなんて……!)
こんな時なのに思い出すとカッと頬が赤っていくのを自覚して、そんな自分をまた叱りつける。
(と、とにかく、まずは謝罪を……!)
ここに来てようやく少しだけ落ち着きを取り戻してきた頭が、それを最優先事項と決定した。
「あの、春輝さん、すみま……」
「……責任は取るよ」
伊織の言葉を遮る形で、項垂れたままの春輝は絞り出すようにそんな声を出す。
「……え?」
一瞬何を言われたのかわからず、伊織は首を捻った。
「……えぇっ!?」
それから、言葉の内容を理解して驚きの声を上げる。
「そ、それって、結こ……」
「申し訳ないけど、これから一緒に警察まで行ってもらえるかな?」
「なんでですか!?」
と思ったら想定していた内容とだいぶ違って、先程以上の驚きの声を上げることになった。
「辛いだろうけど……被害者による証言も必要だろうからさ」
「いえあの、そういう問題ではなく……!」
「あぁ、もちろんそれで俺の罪が消えるだなんて思っちゃいない。一生かけて償っていくつもりだよ……償えるとも、思えないけどね」
「償わなくていいですよ!?」
思ったよりだいぶ事を重く受け止めているらしく、ようやく上がってきた春輝の顔には力ない笑みが浮かべられている。
「春輝さんは何の罪も犯してないですから!」
「法律には詳しくないけど、たぶん強制わいせつ辺りに当たるんじゃないかな」
「当たりませんよ!? 仮に当たるとしても私です! 私がわいせつです! ……あぅ」
いつものテンパりモードではあるが、「私がわいせつです」は流石に言った後に恥ずかしくなって伊織はシュンと俯いた。
「と、とにかく!」
が、そんな場合ではないと再び顔を上げる。
「私の! その……ちょっとしたイタズラ心的なものが全ての元凶ですので! 春輝さんには何の非もありません!」
「でも、俺が変なタイミングで伊織ちゃんの方を見なけりゃこんなことにはならなかったろ?」
「だとしても、あの、えっと……!」
このままでは本当に警察に向かいかねない春輝を、どう説得すれば良いのか伊織は脳みそをフル回転させ。
「ノーカンですから!」
出てきた答えは、それだった。
「ほら! ちょっと触れ合った程度でしたし、ノーカンです! ただの挨拶です! 軽いスキンシップです!」
「伊織ちゃん、そんなアメリカンな価値観じゃないでしょ……」
「う……」
出会った当初ならワンチャン通った可能性もあったのかもしれないが、流石の春輝もこの言い訳に納得する程に伊織のことを理解していないわけではないらしい。
「それとも、俺の知らないとこでは気軽にキスするようなイケナイ子だったりするのかな?」
「そ、そんなわけないです! さっきのが始めてでしたし! ……あっ」
皮肉げな春輝の冗句に思わず素で返してから、しまったと思った時にはもう遅い。
「……ファーストキスかぁ」
ますます春輝を落ち込ませる結果となってしまった。
「ごめん……謝って済む問題じゃないけど、本当に……」
「……あの」
そんな春輝を見ているうちに、伊織の心がチクチクと……罪悪感とはまた別の理由で、痛み始める。
「よりにもよって、ファーストキスを最悪な思い出にしちゃって……」
「あの!」
「……?」
語気を強めて春輝の言葉を遮ると、春輝は小さく首を捻った。
「……最悪なんかじゃ、ないです」
胸の痛みが、伊織の口から言葉を紡がせる。
「だから……謝らないでください」
「ははっ、ありがとう……」
それに対して、春輝は力なく苦笑するのみ。
春輝検定三級未満と認定されている伊織でもわかった。
これは、『伊織ちゃん……俺に気を遣ってくれてるんだな……』という顔だ。
「……これだけは、誤解しないでいただきたいんですけど」
だから、一歩踏み込むことにする。
「私は」
自分の唇に触れながら、覚悟を決めた。
「嫌だったとか……全然、少しも、思ってないので」
伊織のことを、傷つけたと思い込んでいる春輝。
その誤解だけはどうにか解きたくて……少しでも、想いを伝えたくて。
伊織は、強い瞳で真っ直ぐ春輝を見つめる。
「えっ……と……?」
曖昧な苦笑を浮かべている春輝は、伊織の真意をはかりかねている様子だ。
「春輝さんは、嫌……でしたか?」
更にもう一歩、踏み込む。
「それは……」
言葉を探すかのように、春輝は左右に一度ずつ視線を彷徨わせた後。
「嫌なわけないよ」
彼も、真っ直ぐ伊織に視線を返してきた。
「っ……!」
思わず声が出そうになるのを、グッと堪えて。
「なら、これで解決ですね!」
「えっ……?」
伊織は立ち上がって春輝に背を向けながら、殊更に明るい声を意識しながらポンと手を叩く。
「どっちも嫌な思いをしていないなら、何も謝ったりすることなんてありませんもんねっ?」
「そう……かなぁ……?」
背中越しに聞こえてくる春輝の声には、かなり懐疑的な色が含まれていた。
「そうなんです! だからこのお話は、もうこれでお終いにしましょう! せっかく水族館に来てるんですから、楽しまないとですし!」
「う、うん……」
だが、ここは勢いで押し切ることにする。
「私、次の深海ゾーンが凄く楽しみだったんですよー!」
喋りながら先行して歩き始めたのは、春輝を促すためであり……同時に。
(嫌なわけない、って……きっと、私を傷つけないために気を使ってくれての言葉だったんだろうけど……それでも……っ!)
真っ赤になった顔を、春輝に見せないためであった。
ゆえに、伊織は気付かない。
「………………」
伊織の背中を見つめながら……そっと自分の唇を撫でる春輝の、その表情に。
◆ ◆ ◆
なお、その夜。
「お姉さぁ、流石にそれはさぁ」
「完全にギルティ」
伊織は、妹たちから断罪されていた。
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