SS64 テンパりがちな長女

 デートのスタートから空回りし続け、早くも気力ゲージが尽きかけていた伊織だったが。


「おおっ、でっかいなー!」

「ですねっ!」


 水族館に入場し、様々な生物を眺めているうちにだいぶ癒やされてきた。

 今は、二人でジンベイザメの大きさに感嘆しているところだ。


「見てるだけでテンション上がるわー。前にも言ったけどさ。俺、でっかい生物が好きなんだよねー」

「えっ……? あっ、はい、そうなんですね」

「ん……?」


 伊織の微妙な反応に、春輝が片眉を上げる。


「あれ……? 言ったことなかったっけ?」

「そうですね、初めて聞きました」

「あぁ、そっか」


 そう言いながら、春輝はふと何かを思い出したかのような表情となった。


「これ話したのは、貫奈にか」


 そんな何気ない言葉に、チクリと胸が痛む。


 付き合いの長さが違うのだから、伊織の知らない春輝のことを貫奈が知っているのは当然。

 理性はそう言っているけれど、感情までは制御しきれなかった。


 それを、誤魔化すのも兼ねて。


「も、もう、春輝さんったら。私と一緒にいるのに他の女性のことを口にするだなんて、マナー違反ですよっ」


 露華をイメージして、冗談めかして指を立てる。


 ははっ、確かにそうかもね。

 そんな、軽い反応を期待したのだが。


「そっか……そうだよね、ごめん」


 割と真面目な感じで謝られてしまった。


(す……滑ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!)


 笑みをピキリと固まらせ、内心で頭を抱える伊織。


 だが、春輝検定一級所持者であればこう判断することであろう。


 ──はい、ナイスジャブぅ

 ──これでハル兄は、少しだけこれが『デートっぽい』ことを意識した

 ──まぁ、ほーんのちょっとだけねー

 ──伊織ちゃんと俺は決して男女の関係ではないし今後そうなることもないけど、確かにこういう場面で他の女の人のことを口にするのは良くない……よな? とか思っている顔


 とはいえ、妹たち認定によると三級にも達していない伊織ではそこまで察することは出来ないのである。


「じょ、冗談ですよっ! 私、ホントはそんなの全然気にしませんし! あの、そんな深刻に捉えないでいただければと……!」


 いずれにせよ春輝に心労をかけるのは本意ではなく、伊織は早口に捲し立てた。


「ははっ……まぁ確かに、何とも思ってない相手が誰のこと言おうと気にならないだろうけどさ。俺が、いつもデリカシーに欠けるのは事実だから」

「いえ、そんな……」


 何とも思っていない相手、という言葉が。

 やっぱり伊織の気持ちが少しも通じてないことを意味していて、またチクリと胸が痛む。


『間もなく、イルカショーが始まります。皆様、どうぞ西館イルカスタジアムまでお越しくださいませ』


 とそこで、そんな館内アナウンスが流れた。


「あっ、イルカさん! イルカさん、見に行きましょう!」


 これ幸いと、伊織は気分と話題を変えることにする。


「そうだね、せっかくだし見に行こうか」

「はいっ!」


 春輝も特に思うところはない様子で頷き、二人はイルカスタジアムへと向かうことにした。



   ◆   ◆   ◆



「うおっ! めっちゃ跳んだなぁっ!」

「凄いですねぇ!」


 水面から大きく跳んで輪をくぐったイルカの姿に、伊織は春輝と共にはしゃいだ声を上げる。


「ふふっ、飼育員のお姉さんへのキスもお上手ですね」


 飼育員さんの頬にキスするイルカを称賛しながら……ふと。

 春輝の方に目を向けたのは特に何か意図があったわけではなく、完全になんとなくのことだった。


(あれ……?)


 けれど、彼の横顔を見ているうちにとある考えが思い浮かんできた。


(これ……もしかして、チャンス・・・・なんじゃ……)


 春輝の目は、イルカショーに釘付けとなっている。


 ──ヒュゥ! ほっぺにチューした程度でめっちゃ上から言うじゃん!

 ──ほっぺにチューすらしたことない相手なんだから当然


 思い出されるのは、妹たちの言葉。


(今なら……ほっぺにチュー、いけるんじゃない……!?)


 無防備に晒された春輝の頬が、千載一遇のチャンスに見えた。


(言い訳も『イルカさんがチューしてるのを見てたら私もちょっとやってみたくなって、イタズラしちゃいましたー』っていう軽い感じにすれば……いける!)


 落ち着いて考えるとだいぶ無理筋なのだが、静かに目がグルグル回り始めている伊織からはその判断をするだけの冷静さが失われていた。


 本日ここまで空回っているだけであり、何かを成さねばという焦りもある。

 わざわざライバルである自分を鼓舞してくれた妹たちに何か行動で応えたいという想いが、伊織の思考をいつもより随分と大胆にさせている部分もあった。


(よし……いきます!)


 良くも悪くも思い切りの良くなるテンパりモードの勢いに押され、春輝の横顔へとゆっくりと唇を近づけていく。


 想い人の顔が近づいてくるにつれて恥ずかしさゲージが急上昇していくが、途中でヘタレないように大体の距離感が掴めたところで目を瞑った。


 鼻息で気付かれないよう、息も止める。


 目を瞑る前のの目測から、接触までは恐らくあと三秒程度。


 イルカショーの喧騒の中にあってなお、大きく跳ねる自分の心臓の音がやけにクリアに聞こえていた。


 そして。


「あっ、そういえば伊織ちゃ」


 前方からそんな声が聞こえたのとほぼ同時に、伊織の唇が何か・・に触れて。


「ん」


 春輝の言葉は、まるで唇を何かで・・・・・・・・塞がれたかのように・・・・・・・・・不自然に途切れた。


(………………ん?)


 それと同時、伊織は別の部分でも不自然さを感じていた。


 唇に伝わってくる感触が、ほっぺにしては柔らか・・・・・・・・・・すぎないか・・・・・


 否……正直に言えば、この時点で伊織も薄々気付いてはいたのだ。

 果たして自分が、何をやらかした・・・・・・・のかを。


 それを確かめるべく、恐る恐る目を開ける。

 すぐ目の前に、春輝の瞳が見えた。


 完全に固まってしまっている春輝から、ゆっくりと……まるでそうすれば全てなかったことに出来るとでも思っているかのように、できる限りゆっくりと顔を離していく。


『………………』


 目を合わせたまま、お互い無言。


(……キス)


 九割以上フリーズしている伊織の脳が、辛うじてその単語を絞り出す。


(しちゃ、った?)


 まだ、感情は完全に凍りついたまま動き出しておらず。


(唇同士、で?)


 なのに……ドキンドキンと、心臓だけは痛いくらいに高鳴っていた。

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