SS29 プリンセス

 それは、何の変哲もない夜であった。


 少なくとも伊織にとって、それ・・を見るまでは。


「ひぇっ……!?」


 人見家の脱衣所にて、タオル一枚だけを身に纏った伊織は顔を引きつらせる。


「そ、そんな……!?」


 ワナワナと身体が震え、その目は信じがたい……あるいは、信じたくない何かを見るようなものであった。


「こうなったら……!」


 ゴクリ、と唾を飲み込む。


 その瞳には、確かな決意の光が宿っていた。



   ◆   ◆   ◆



 翌朝。


「あれ……?」


 食卓に並んだ皿を見て、春輝は首を捻る。


「伊織ちゃん、それだけ……?」


 春輝たちの前にはいつも通り複数種の皿や茶碗が並んでいるのに対して、伊織の前には小皿に盛られたサラダしか存在しなかったためだ。


「はい……ちょっと、あんまりお腹がすいていないもので」


 伊織は、控えめに微苦笑を浮かべる。


「そうなの? 大丈夫? 体調が悪いの?」

「あ、いえ……」

「違和感があるなら、早めに病院行った方がいい」

「や、その……」

「何なら、俺今日半休取るから付き添いで……」

「はーるきクンッ」


 困ったように眉根を寄せる伊織へと矢継ぎ早に話しかける春輝の言葉を、露華が遮った。


「そこは察してあげなって。女の子が食事の量減らすっつったら、真っ先に浮かぶのはアレっしょ?」

「アレ……?」


 一瞬理解が及ばない春輝だったが、流石に遅れてピンときた。


「あぁ、ダイエットか……」


 とはいえ。


「いや、でも伊織ちゃんは全然……」

「はぁい、ストップ春輝クぅン」


 太ってないよ、と続けようとした言葉が再び露華に遮られる。


「こういう時、『全然太ってないよ』とかって言葉はあんま意味ないんだよね。どっちかっつーと、自分の意識の問題っつーか? 数字に出ちゃってるもんは否定しようがないっていうか?」

「数字に出ちゃってるのか……」

「この節制っぷりから考えて、想定してたよりだいぶいっちゃってたと見たね」

「だいぶいっちゃってたのか……」


 そこまで言われると、春輝としても否定する言葉が出せなかった。


「ロカ姉」

「んあ?」


 とそこで白亜に呼びかけられ、露華の視線がそちらへ向く。


「あれ」


 と、白亜が指す先では。


「あの、露華……全部バラすのやめてほしいんだけど……」


 真っ赤になった顔を俯けた伊織が、プルプルと身体を震わせていた。


「え? あっ、ごめん」


 どうやら今回に関しては普通に善意からの行動だったらしく、露華の顔にも若干の気まずさが混じる。


「ロカ姉、真実は時に人を傷つける」

「いや、今回の場合そんな深い話じゃないから……」


 したり顔の白亜に、半笑いを浮かべる露華。


 その後は春輝が気を使って雑談など振ったりもしたものの、結局終始気まずいままその日の朝食は終わったのであった。



   ◆   ◆   ◆



 それから、数日。


 相変わらず、伊織は毎食の量を大幅に減らしていた。

 最初の件もあったので、しばらく春輝もそれを黙って見守ることにしていたのだが。


「なぁ母さん、伊織ちゃんのダイエットって大丈夫なのか……?」

「んー、一応栄養のバランスはちゃんと考えて食べてるみたいねー」

「そっか……ならいいんだけど」

「ただ、育ち盛りの子としてはやっぱり量がねー。とはいえー、気持ちはわかるから止めづらいところはあるわよねー。私が言ってもたぶん無駄だと思うしー、止められるとすればー……」

「……何だよ?」

「何かしらねー?」


 雑談がてら母に相談したところ妙に意味深な目を向けられ、首を捻る。



   ◆   ◆   ◆



 それから更に数日、とある平日の深夜近くのことである。


「飲んだ後に小腹がすいてくるこの欲求、抗いがたいものがあるよな……」


 この日飲み会だった春輝は、帰宅後一旦自室に戻ったものの空腹を覚えてキッチンに向かっていた。


「あれ……?」


 とそこでリビングに明かりが灯っているのを見つけ、疑問を覚える。


「消し忘れか……?」


 そう思って、リビングに顔を覗かせる。


「伊織ちゃん……?」

「あっ……」


 ソファに座っていた伊織は、春輝と目を合わせた途端に「しまった」といった感じの表情を浮かべた。


「まだ起きてたんだ?」

「あっ、はい、いえ、今から寝ようと思ってたところで……!」


 尋ねると、なぜか妙にあたふたと様子で手を振る。


 と、その時であった。


 ──グゥキュルキュルキュルキュルゥ……!


 そんな、なかなかに巨大な音が静かな夜に響き渡ったのは。


 発生源……伊織の腹部へと、自然と春輝の視線は向かってしまった。


「っ……!」


 伊織は、顔を真っ赤にして自身のお腹を押さえる。


「ち、違うんです!」


 それから、勢いよく春輝の方へと顔を上げた。


「これは別に、お腹がすいて眠れないから何か食べようかと思って降りてきたけどやっぱりダイエット中だしって迷ってとりあえずリビングで過ごしてたとかそういうわけでは決してなくてですね!」


 どうやら、そういうわけらしい。


 伊織は、安定のお目々グルグルモードである。


(うーん……ある意味ちょうどいい機会だし、ここで何か手を打つことは出来ないかな……? 言葉はあんまり意味がない……つまり、言葉じゃなければワンチャン……?)


 そして、春輝は春輝で酔いによってだいぶ回転が鈍い脳みそでそんなことを考えていた。


(なら……こういうのはどうだ?)


 一つ、良さげなアイデアが浮かぶ。

 なお、それが本当に良いアイデアなのかどうかを精査するだけの判断力はアルコールによって消滅させられていた。


 結果、即座に行動に移すことになる。


「伊織ちゃん」

「は、はいっ?」


 真っ直ぐ、伊織へと歩み寄り。


「ちょっとジッとしててな」

「え? えぇっ!?」


 伊織の肩と膝の裏に手を回した。


「ほいっ、っと」

「えっ、わひゃっ!?」


 そして、一気に持ち上げる。

 いわゆる『お姫様抱っこ』の体勢である。


「あわわわわわわわわわ……!?」


 伊織は、顔を真っ赤にして身を縮こまらせた。


「ほら、この通り伊織ちゃんなんて軽いもんなんだからさ。眠れないくらい腹減ってるなら、素直に食べちゃおうぜ?」

「こ、これは……!? 夢……!? 私、いつの間にか寝てた……!?」

「ははは、食べるって言うまでずっとこのままだぞー?」


 軽く笑う春輝の声も、届いているのかいないのか。


(どうだ、恥ずかしいだろう! この羞恥に耐えかねて、ダイエット断念を宣言するがいい!)


 春輝としては、そんな考えの元この行動に及んだというわけである。


「は、はひぃ! た、食べ、食べ……!」


 伊織は、また目をグルグルと回して……。


「っ!」


 かと思えば、唐突にその視線が定まった。


「食べません!」


 次いで、ギュッと目を瞑ってそう叫ぶ。


「えぇっ……!?」


 力強い宣言に、春輝は困惑する。


「このまま一生、何も食べません!」

「なんで!?」


 終いにはそんなことを言い出して、春輝を驚愕させた。


(こ、この罰ゲーム状態に耐えてまでダイエット継続を宣言するだと……!? 伊織ちゃんの決意はそこまで固いっていうのか……!)


 そんなことを考えているあたり、実に春輝であると言えよう。


(あれっ……? ていうか……今更だけど、これ思いっきりセクハラだよな!? ぐわぁ一気に酔い醒めた!)


 急激に、春輝の顔から血の気が引いていく。


「あの、伊織ちゃん、この度は大変申し訳なく……」

「でも!」


 謝罪しつつ伊織を下ろそうとした春輝を、当の伊織の声が止めた。


「このままキッチンまで運ばれちゃったら、食べちゃいますね! そうなったらもう仕方ないので! そこはもう仕方ないとこなので!」


 顔を逸らしながら、どこかヤケクソ気味にそんなことを叫ぶ。


「そ、そう……なの?」


 イマイチ意味がわからず、春輝は首を捻った。


「そうなんです! だから、春輝さんにはもう運ぶって選択肢しかないですね! 私に食べさせるにはそうするしかないです!」

「いやその、元々俺が妄言が吐きすぎだったんで……今、下ろすから……」

「その場合は一生断食します!」

「その場合も!?」


 春輝としてはよくわかっていないが、そう言われるとキッチンまで運ぶ他ないだろう。


「えっと……じゃあ、このままだとちょっと不安定だから俺の首に手を回してくれる?」

「あ、はい……そうですね……不安定ですものね……仕方ないですね……仕方ないです……」


 何度も口の中で「仕方ない」と繰り返しながら、伊織がそっと春輝の首に手を回した。


(んんっ……! 近い! 思ってた以上に近い! そして、色んなところに色んな感触が……! マジで俺、なんでこんなことをしてしまったのか……!)


 後悔先に立たず、とはまさにこのことである。


「そ、それじゃ、行くよ……?」

「は、はい……」


 お互いおずおずと確認し合った後、春輝はキッチンへと足を向ける。


「はわわわ……! この密着感、凄いぃ……! 揺れるから……! 揺れるから、仕方ないね……! もうちょっと密着しちゃっても、これはもう事故と言わざるをえないよね……!」


 しばらく、口の中でモゴモゴとそんなことを呟いていた伊織だったが。


「あの……私、本当に重くないですか……?」


 ふと、不安げに尋ねてきた。


「もちろん、羽のような軽さだよ」


 妙に気障な言い回しになったのは、まだ酒が抜けきっていない証左と言えよう。


「そう……ですか。春輝さんがそう言ってくださるのなら……」


 妙に表情が固かった伊織の頬が、徐々に緩んでいく。


「無理して食べる量を減らすのは、もうやめますね」


 微笑んだ伊織が、春輝の顔を見てそう言った。


「えっ? あっ、うん、そう? そうだねそれに越したことはないよねうん」


 至近距離で目が合い、春輝は密かにドギマギしながら早口でそう返す。


(このタイミングで……? 女の子ってのは、やっぱよくわからんなぁ……)


 やっぱり、そんなズレたことを考える春輝だった。



   ◆   ◆   ◆



 なお、後日。


 改めて色々と測定したところ、ウエスト等には特に変化が見られず。

 唯一バストサイズだけが『影響を受けていた』ことが判明し、露華と白亜を半笑いにさせたのだがそれはまた別のお話である。








―――――――――――――――――――――

次回更新は1回飛ばして、次の日曜とさせてください。

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