第98話 夜分と就寝と
ほとんど隙間なく並んだ布団を前に、しばし沈黙していた二人だったが。
「ね、ねぇ春輝クン。ウチはまだそんなに眠くないし、もうちょっと旅館の中見て回ろっかなーって思うんだけど」
「あ、あぁうん、俺も行くよ」
露華のぎこちない提案に春輝もぎこちなく頷き、そっと布団が敷かれた部屋の襖を閉める。
その後は、汗をかいたからとまた浴場に行ってみたり、マッサージを受けてみたり、無駄にお土産コーナーをひやかしてみたり、廊下に飾ってある謎のオブジェを眺めてみたり……と、二人して言い訳でも探すかのように時間を潰した。
しかし時刻も十分に『夜分』と呼ぶべき頃となり、いい加減やることもなくなって。
露華の「そろそろ、寝よっか!」発言を経て、現在に至るわけである。
「やー、今日はあちこち回って疲れたしよく眠れそうだよねー!」
「あぁ、そうだね」
どこか白々しく聞こえる露華の言葉に、春輝もわざとらしく頷いた。
実際、疲れは感じている。
普段であれば、露華の言う通りよく眠れたことだろう。
しかし現在はどうにも妙な緊張感が胸に渦巻いていて、とてもすぐには眠れそうになかった。
(落ち着け……露華ちゃんは『家族』なんだし、妹みたいなもんだろ……兄妹なら、隣り合った布団で寝るくらい何でもない……はず……たぶん……)
自分に言い聞かせるも、その中でさえも若干の自信のなさが表れている。
「ほんじゃ、おやすみっ!」
逃げるような素早さで、露華が布団の中に潜り込んだ。
「……おやすみ」
部屋の明かりを消して、春輝も布団を被る。
「………………」
「………………」
再び訪れる、沈黙。
息遣いから、双方どこか落ち着かない気分であることがなんとなく察せられた。
「……ね、春輝クン」
ポツリと、露華の呟きが僅かに空気を震わせる。
「手、繋いでもいい?」
「えっ……?」
予想もしていなかった申し出に、思わず疑問の声が口を衝いて出た。
「……いいよ、ほら」
けれど、少しの間を空けた後に布団から手を出し露華の方へと差し出す。
「ん……ありがと」
その手が、ぎゅっと握られた。
「春輝クンの手、おっきいね」
クスリと笑う気配が伝わってくる。
「それに、あったかい」
「……露華ちゃんの手も、あったかいよ」
暗闇の中でお互いの境界が曖昧になり、手の温もりが混ざり合っていくようだった。
「そっか」
再び、露華の笑う気配。
「……昔ね」
静かに紡がれるその声は、いつもの賑やかものとは随分異なる印象を伴って聞こえてくる。
「小さい頃に、お母さんが死んじゃって。たぶん当時のウチは、そんなことわかってなかったんだろうけどさ。どこを探してもお母さんがいなくって、しょっちゅう泣いてたの。特に夜になると、寂しくて……毎晩、泣いてたと思う」
話の内容に反して、その口調はどこか微笑ましげなものであるように感じられた。
「でもそんな時は、お父さんやお姉がこんな風に手を握ってくれて……そうしたら、なんだか安心出来て。ようやく、眠れてたんだ」
繋がった手に、少しだけ力が込められる。
「あの時の手も、こんな風にあったかったなぁ」
春輝は、黙ってその懐かしげな声に耳を傾けていた。
「……ウチさ」
露華の声色が、また少し変化する。
「まだ、迷ってるんだ」
何のことについてなのかは、言われずともわかった。
「春輝クンが、あそこまで言ってくれたのにね。どうすべきなのか……ウチは、どうしたいのか。まだ、全然わかんなくて……」
言葉通りに、迷いを孕んだトーン。
「ごめ……」
「いいさ」
謝罪の言葉を、遮る。
「答えが出るまで、いつまでだって悩めばいい。いや……別に、答えを出す必要もないんだよ。十分に悩んだってこと自体が、きっと何かに繋がるだろうから」
春輝も、偉そうなことを言えるほど経験が豊富なわけではない。
ただ、かつて悩んだからこそ今伝えられる言葉はあると思っていた。
「君が安心して悩めるようにするのが、大人である俺の役目さ」
十年前には、持っていなかった言葉。
「だから存分に悩め、若人」
言ってから、ちょっとオヤジ臭かったかと思って苦笑を浮かべる。
「ふふっ……なんかオヤジ臭いよ、春輝クン」
果たして、露華もそう言って笑った。
「でも……ありがとね」
暗闇の中なのに、なぜか彼女が穏やかな笑みを浮かべていることが伝わってくる。
「………………」
「………………」
それから、また沈黙が訪れた。
けれど今度の沈黙には、気まずさは感じられなくて。
「……すぅ……すぅ」
やがて、隣から穏やかな寝息が聞こえ始めた。
その頃になって、春輝もいつの間にか当初の緊張感が霧散していることに気付く。
それを自覚すると、入れ替わるように急激に眠気が訪れてきた。
「くぁ……」
大きなあくびを漏らす間も、刻一刻と意識がブラックアウトしていく。
(俺は……今度こそ、上手く伝えられたのかな……)
完全に眠りに落ちる直前に、そんなことを思った。
◆ ◆ ◆
それから、どの程度の時間が経過した頃のことだろうか。
目覚める直前なのか、夢の世界に旅立った直後だったのか。
あるいは、夢の中の出来事だったのかもしれない。
そんな、酷く曖昧な感覚の中で。
唇に、何か柔らかいものが触れた……ような、気がした。
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