第38話 停滞の終焉

「あっ……」


 を視界の端に捉えた瞬間から、伊織の表情は凍りついていた。


 少し先の路地に、入るか入らないかくらいの微妙な位置。

 見覚えのある、男の姿だ。


 向こうは、こちらに向けて軽く会釈をしている。


「うん? 伊織ちゃん、どうかし……」

「あ、あーっ! 春輝さん、見てください!」


 春輝の視線が男の方に向きかけた瞬間、伊織は反射的に逆側を指して全力で叫んだ。


「ん……?」


 春輝は、素直に伊織の指した方を見てくれる。


「……別に、何もなくない?」


 しかし、伊織の指の先に見えるのは何の変哲もない街並みだけ。

 春輝の言う通り、特筆すべき点は何もなかった。


「えーと、その……! ま、街です!」


 それでも、どうしても春輝の意識を留めたくて。

 とにかく、思いついたことを口に出す。


「街が……あの、街……なので、その……あの……」


 だけどいつも以上に頭が回らなくて、だんだん泣きそうになってきた。


「……どこにテンパりポイントがあったのかは、よくわからないけど」


 そんな姿を見て、春輝は苦笑を浮かべて伊織の頭の上に手を置く。


「まずは、落ち着きな? ちゃんと、全部聞いてあげるからさ」


 ポンポンと頭を撫でられると、不思議とそれだけで落ちついてきて。

 同時に、ますます泣きそうになってしまった。

 本当に、を話したくなってしまう。


 けれど。


(……ダメ。これは、私たちの問題なんだから)


 寸前で、どうにか留まることが出来た。


「あ、はは……すみません! ちょっと……その! 唐突に超弩級の急用を思い出したので、ついついテンパってしまいました!」


 苦笑を浮かべて見せるも、上手に出来ているかちょっと自信はない。


「もう、大丈夫ですので!」


 とにかく勢いで誤魔化そうと、伊織は大きく頷いた。


「超弩級の急用なら、大丈夫じゃないんじゃないか……? よければ付き合うけど」


 春輝が、眉根を寄せて尋ねてくる。

 その気遣いも、今だけは出してほしくないところだった。


「あー……いえ、その……」


 この優しい人を、どうすれば巻き込まずに済むかを考えて。


「アレです! 下着! 下着関連の、アレですので!」


 アパレルショップでの出来事を思い出し、咄嗟にそう口にする。


「あ、そ、そうなんだ……」


 狙い通り、春輝はどこか気まずげな表情になりながらも納得してくれたようだ。


「じゃあ俺は、先に帰ることにするよ」


 自身の頬を掻きながら、春輝は帰路へと足を向け直す。


「はい。私も、すぐに帰りますので」


 この言葉に、嘘はない。

 自体は、恐らくすぐに済むはずだ。


「わかった。ほんじゃ、気をつけてな」

「はい!」


 伊織が頷くのを確認してから、春輝は再び歩き出した。

 男のいる路地の前を、特に思うところもなさそうに通り過ぎていく。


「……ふぅ」


 それを、ホッとした気持ちで見送って。


「……っ」


 表情を引き締め、伊織も件の男の方へと足を進めた。


 男は立ち止まったまま。

 程なく、相対する。


「どうも小桜さん、ご無沙汰しております」


 男は胡散臭い程のにこやかな顔で、再び伊織に向けて頭を下げてきた。


「……芦田あしださん」


 男の名を呼ぶ伊織の顔には、知らず苦々しい表情が浮かぶ。


「すみませんね、楽しそうなところをお邪魔してしまって」


 一方の男は、やはり白々しいまでににこやかな表情だった。


「ただ、こちらも仕事なもので」

「……わかっています」


 伊織の返答は、極力感情を押し殺した静かなもの。


 しかし。


「何なら、先程の男性にも一緒に話を聞いていただいても……」

「やめてください!!」


 続いた男の言葉に、空気を震わせる程の大きな声で叫んで。


「それだけは、やめてください……」


 次いで出てきた声は、対照的に消え入るようなものだったけれど。


「……あの人は、私たちとは無関係ですので」


 最後は、毅然とした表情で言うことが出来た。


 伊織たちのを、彼には知られたくない。

 知れば、彼を悩ませてしまうだろうから。

 彼は、きっと悩んでしまうだろうから。

 伊織たちのために、心から。

 それは、伊織の望むところではなかった。

 今のままでも、十分すぎるくらいに色々なものを貰っているのだから。


「失礼、差し出がましいことを言ってしまいましたね」


 慇懃に、男は頭を下げる。


「それで、例の件なのですが」

「……はい」


 この男の口から出てくる話題が、伊織に……伊織たちにとって良いものである可能性は、非常に低く。

 伊織の表情は、無意識に硬くなっていった。


「本日は、が見つかりましたということをお伝えしに参りました」

「っ……!?」


 けれど、続いた男の言葉は予想以上に悪いもので。


「もう、ですか!?」


 動揺に顔を歪めながら、叫んでしまった。


「えぇ、これに関しては僕としても少々予想外でしたが」


 伊織の内心など知ったことではないとばかりに、男の笑みは揺るがない。


「ともあれ」


 揺るがない。


は、本日より二週間とさせていただきます」

「そんな!? 短すぎます!」


 なんでもないことのように告げられた言葉に、伊織はまた叫んでしまう。


「それを僕に言われましてもねぇ」


 男は困ったような表情を浮かべるが、恐らくそれはただのポーズだろう。


「これはもう、決定事項ですので」


 事実、その言葉は冷たく事務的に紡がれた。


「………………はい」


 伊織だって、ここで何を言ったところで何も変わらないことはわかっている。


「わかりました……妹たちにも、伝えておきます」


 だから、唇を強く噛みながらも頷くことしか出来なかった。



   ◆   ◆   ◆



 伊織は、心のどこかで。


 彼の家で過ごす幸せな時間が、永久に続くんじゃないかと思ってしまっていた。


 そんなはずはないのに。


 もう、とっくに知っていたはずなのに。


 どれだけ大事なものだって。

 どれだけ大切に思っていたって。

 失われる時は、いつか訪れるのだということを。

 それも、至極あっさりと。

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