第37話 感謝と転機と
あの日……春輝と出会った時のことを、思い出しながら。
(きっかけは、そんな些細なこと)
未だに天を仰いでいる春輝の隣で、伊織はそっと自身の胸に手を当てた。
(あの時はたぶん、単に『嬉しい』ってだけだった)
チームの一員として認めてくれたこと。
『大人』として、扱ってくれたこと。
ただ、それが嬉しかった。
(だけど……いつの頃からか、無意識に春輝さんのことを目で追うようになって)
この心臓は、今も高鳴っている。
(そしたら、いつも一生懸命で。とっても優しくて、誰かのために頑張っちゃう人だって。どんどん、わかってきて)
あの時よりも、もっと大きく高鳴っている。
(気が付けば……私が、この人に抱く気持ちは)
どこか、くすぐったくて。
だけど、心地よくて。
少しだけ、苦しくて。
そんな、自身の鼓動を感じながら。
(『恋』に、なってた)
小さく微笑んで、伊織は春輝の顔を見上げた。
「春輝さん……覚えてますか? 私が、初めてバイトとして着任した日のこと」
「うん……?」
そこでようやく、春輝が空から視線を外す。
「うーん……? 確か、ちょうど去年の今頃だったよな?」
そして、腕を組んで思案顔となった。
「その日、特別に何かあったっけ……?」
どうやら、思い当たる節がないようだ。
「伊織ちゃんに仕事頼んだことくらいしか覚えてねーや」
あの時とは違って、『小桜さん』ではなく『伊織ちゃん』。
口調も、随分と砕けたものになったと思う。
そんな変化が、たまらなく愛おしく感じられた。
「ふふっ……初日からあんなに遠慮なく仕事を頼んできたのなんて、春輝さんだけでしたよ?」
「えっ、そうなの?」
目を丸くする春輝。
やはりというか、彼自身はその事実に気付いていなかったらしい。
「後日、皆さんに聞いたところ……高校生でバイトに入ってきたのって私が初めてだったから、匙加減がよくわからなかったそうです。辞めちゃわないように、緩々と育てるつもりだったとか」
「ほーん?」
クスクスと笑いながら言うと、春輝は意外そうな声をあげる。
「春輝さんは、そういうこと考えなかったんですか?」
「ん? なんで?」
次いでの伊織の問いかけには、いかにも不思議そう首を捻った。
「高校生だろうが成人してようが、チームの一員なことに変わりはないだろ? 別に分けて考える必要はないっていうか、分ける方が失礼なんじゃないか?」
そこまで言ってから、ハッとした表情となって再び天を仰ぐ。
「って、俺だけがそうだったっつーなら俺が空気読めてなかったパターンかー……」
どうやら、今更ながらに反省しているらしい。
「なんかごめんな、伊織ちゃん。めっちゃ今更だけど」
申し訳なさそうに、頭を下げてくる。
「……いえ」
一瞬、迷ってから。
「春輝さん」
伊織は、思いきって彼の手を握った。
春輝の顔に、少しだけ驚きが浮かぶ。
「私は、春輝さんがそんな風に接してくれて嬉しかったです」
伊織の、心からの言葉だった。
「そ、そう……? ならよかったけど……」
春輝がどこか戸惑った様子なのは、伊織の言葉に対してなのか。
あるいは、繋がった手に対してなのか。
「あの、春輝さん」
「どうした?」
彼とこんな風に手を繋いで歩く日が来るなんて、あの時の自分には想像も出来なかった。
それどころか、つい一ヶ月前の自分に言ったところで信じはしないだろう。
今の生活は……きっと、いくつもの偶然が重なった結果なのだから。
あの日の夜、あの公園に行かなければ。
そこに、春輝がいなければ。
たぶん、彼が完全に素面だったとしても違う結果になっていたのではなかろうか。
あるいはそれは、奇跡と呼ぶべきものなのかもしれず。
「ありがとうございます」
「え……? 何が……?」
感謝を込めて礼を言うと、春輝はキョトンとした表情となった。
確かに伊織自身、唐突だったとは思うけれど。
「全部、です」
本当の本当に、そう思っていた。
チームの一員として認めてくれたこと。
帰る場所をくれたこと。
甘えていいって言ってくれたこと。
こうして、隣を歩いてくれること。
手を、離さないでいてくれること。
全部、心から感謝していた。
「ははっ、なんだそりゃ」
こうやって笑ってくれる度に、もっと好きになる。
「ふふっ」
伊織も、笑った。
(こんな風に、過ごしてると)
考える。
(このまま、幸せな時間がずっと流れていって……)
それは、ただの願望で。
(全部が、上手くいくような気がしてきちゃうなぁ……)
勿論、そんなわけがないことはわかっていた。
こうして過ごしていても、伊織の心の奥では鉛のように重く伸し掛かってくる不安が消えずにいる。
こんなことをしている場合じゃないんじゃないかと、焦燥感が常に急かしてくる。
今の時間は、それこそ奇跡の積み重ねの上に成り立っているのだと。
ただの、停滞に過ぎないのだと。
理解、しているつもりだった。
それでも、幸せな願望を信じてしまいそうになって。
だから。
「……っ!?」
それは、もしかしたら。
伊織に、現実を思い出させるために現れたのかもしれない。
それを目にした瞬間、思わずそう考えてしまった。
そんなわけがないことも、知っていたけれど。
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