第36話 初日と原点と

 春輝の家で共に暮らすことになったあの日から、ちょうど一年くらい前。

 小桜伊織、高校一年生の春のことである。


「こ、小桜伊織です! よろしくお願いします!」


 バイトの初日、上擦った声での挨拶と共に伊織は大きく頭を下げていた。


 バイト自体これが人生初ということで、緊張でガチガチである。


「おぉ、女子高生じゃん!」

「可愛い~!」

「我がチームのマスコット爆誕やぁ!」


 とはいえ、社員さんたちが優しく受け入れてくれたのは幸いだった。


 ……などと思っていたのも、束の間のことである。


「あの、これ……データ入力、終わりましたっ!」

「おっ、ありがとう小桜さん! それじゃ、休憩入っていいよ!」

「えっ……? でも私、さっきも休憩いただきましたけど……」

「いいのいいの、入ったばっかじゃ気疲れしちゃうでしょ? ゆっくり慣れてってよ」

「あ、はい……」


 ニコニコ笑う社員にそれ以上何も言うことが出来ず、伊織は自席に戻る。


 休憩といっても、手持ち無沙汰で待機するだけである。

 お手洗いも、つい数十分前に行ったばかり。

 出来ることといえば、既に何度も読み終えたマニュアルをまた読み返すことくらいだ。

 周囲の社員さんたちが忙しそうに動き回っている中で、自分だけがこうして実質何もしていないことに罪悪感が湧いてくる。


「あ、あの、休憩終わりました。次は何をすればいいでしょう?」


 結局、早々に立ち上がってまた指示を仰ぎに行った。


「えっ、もう? そっかー……じゃあこれ、入力しといてもらえる?」

「はいっ!」


 元気よく返事して受け取ったはいいものの、その内容を確認してみると先程と全く同じ形式のものだ。

 やり方も既に覚えているので、この量であれば十分程度で終わるだろう。


「あの……もう少し沢山いただいても、出来ると思いますけど……それか、別形式のものとかでも……あっ、その、差し出がましいようで恐縮なんですけど……」


 恐る恐る意見すると、社員はまたニコニコと笑う。


「いいよ、そんなに急がなくても。ゆっくり覚えていってくれればいいからさ。ほら、君のおかげで職場が華やぐからね。まずは、ただいてくれるだけでもいいの」

「は、はぁ……」


 恐らく、悪意はないのだろう。

 だからこそ、伊織は頷くしかなかった。


(なんか……思ってたのと違うなぁ……)


 小さく溜め息を吐く。


 これで伊織も、結構張り切って……そして、ワクワクしながら初仕事に臨んだのだ。

 学校とは違う、『大人』の社会。

 その中に混ざることが、怖くもあり、楽しみでもあった。


 だが、蓋を開けてみればこの通り。


(確かに、『大人』の中にはいるけど……これじゃ結局、私一人『子供』が紛れ込んでるだけ。なんていうか、ただのお客様みたい……)


 激務を望んでいるわけではないが、少しくらいは仕事らしい仕事をしたかった。


(でも、邪魔しちゃったら本末転倒だしなぁ……)


 なんて葛藤を抱きながら、自席に戻る途中。


「ふんふんふーん♪ ふんふふーん♪」


 そんな鼻歌が聞こえてきて、伊織の視線はそちらに吸い寄せられる。


(この人、えっと……確か……人見さん……)


 初日における、伊織の彼に対する印象は。


(やっぱり、怖そうな人だなぁ……)


 で、あった。


 チームメンバーと自己紹介を交わし合った際、他の人は趣味の話なども交えつつにこやかに喋っていたのだが。

 彼だけは、「人見春輝です」の一言で終了して笑顔の一つもなかった。

 自己紹介後の雑談タイムにも加わらずさっさと席に戻ってしまった春輝のことを、彼の同期は「まぁあいつ、いつもめっちゃ忙しいから……ウチのエースだし、頼りになる奴なんだけどね。あっ、ちなみにあいつが鼻歌交じりの時は集中してる証拠だから。邪魔しないよう、歌ってる時の人見には極力話し掛けないでやってな」と苦笑交じりに説明していた。


(邪魔しないように……邪魔しないように……)


 鬼気迫る表情と共に猛烈な勢いで手を動かしているのに、鼻歌交じり……というギャップをまた少々怖く思いながら、伊織は極力足音を立てないようその傍らを通っていく。


「ふふふふぅー♪ んっ?」


 なのに、伊織がちょうど真横に到着した辺りで彼の鼻歌が止まった。


(ひっ!? 邪魔しちゃった!?)


 ビクリと身体を震わせ、伊織は恐る恐る春輝の方に目を向ける。


 すると、彼も同時に視線を向けてきて。


(怒られるっ!)


 思わず、伊織は半歩後ずさる。


「あぁ、小桜さん。ちょうどいいや、これ頼める? 思ったよか早めに必要そうだから」


 けれど、思っていたよりずっと穏やかな声で春輝は紙の束を差し出してきた。


「……へっ?」


 想定外の事態に、伊織は間の抜けた声を上げる。


「……?」


 それに対して、春輝は不思議そうに眉根を寄せていた。


「あぁ、このフォーマットは初めてだった? なら、説明すると……」

「あっあっ、いえ! これなら、さっきもやったので大丈夫です!」


 慌てて書類に目を落として確認し、コクコクと何度も頷く伊織。


「そっか。なら、この量だとどれくらいで終わりそうかも大体わかるかな?」

「えーと、えーと……」


 紙の束を確認してくと、先程別の社員から渡された作業量の数倍は固い。

 だが、逆に言えばそれだけだ。

 単純作業なので、作業時間の見積もりも出しやすい。


「二時間もあれば十分かと!」

「わかった。それじゃ、よろしく」


 短く言って、春輝はモニタに視線を戻し……かけて、再び伊織を振り返った。


「ちなみに、他の人からの作業って今どれくらい貰ってる?」

「十分程度で終わるのが一つだけ、ですが……?」

「そっか。じゃあその後でいいから、これもお願い出来るかな?」


 と、更に書類が差し出される。


「さっきのと違うフォーマットだけど、いける?」

「あ、はい。一通りマニュアルは読み込みましたので……」


 やたら入れられる休憩時間を利用しての成果であった。


「ん、わからないことがあったら遠慮なく聞いてくれていいから」


 新たな書類を、伊織に手渡して。


「にしても、初日からそこまでやれるなんて頼もしいな」


 春輝が、小さく笑った。


「改めてこれからよろしく、小桜さん」


 それはきっと、彼にとっては大した意味が込められていたわけではなく。

 単に、思ったことを口にしただけだったのだろう。

 そんな、何気ない口調だった。


(あっ……)


 けれど、伊織にとっては。


(この人は、私のことを……『大人』と、同じ扱いで。チームの一員だって、認めてくれてるんだ……)


 何よりも欲しかったものを、与えてくれたような気持ちで。


 トクンと大きく心臓が高鳴ったことを、鮮明に覚えている。

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