第34話 抱擁と葛藤と

 露華と白亜が出ていったのと、ほぼ入れ替わりのタイミングにて。


「あっ、春輝さん」


 今度は、伊織がリビングに入ってきた。


「実は今日テレビで見て、試してみたいことがあるんですけど……ちょっと、いいですか?」


 そう言いながら、小さく首を傾ける。


「ん? 何かな?」


 春輝が尋ねると、伊織は春輝の目の前まで歩み寄ってきた。


「はいっ!」


 そして、笑顔で両手を広げる。


「えっと……また膝枕、ってことかな?」


 やっぱり恥ずかしくはあるが、それならまぁいいかと思った春輝。

 だが、今回の伊織は座る様子もなく。


「いえ、ハグです!」


 満面の笑みのまま、予想外のことを言い放った。


「リラックス効果があるそうなので、日々お疲れの春輝さんを少しでも癒せればと!」


 その顔は、断られることを想定していないように見える。

 断った場合のの悲しげな表情も、ありありと想像出来た。


「……わかった、やってみようか」


 なので、春輝は若干苦笑気味に頷く。


(まぁ、今更ハグくらいはどうってことないしな)


 心中には、そんな余裕も抱いていた。

 つい先日、家庭菜園の世話をしている時に抱きつかれた──どちらかといえば絞め技を食らったという印象に近いが──ばかりだし、以前には足の間に座らせて後ろから抱きしめる、などといったこともやっているのだ。

 かつての、ちょっとしたことで動揺していた春輝はもう存在しないのである。


「はいっ! では、どうぞ!」


 伊織は笑みを携えたまま、広げた腕を軽く上下させる。


(……俺の方からいくのか)


 なんとなく、抱きつかれるよりも犯罪度数が高いような気がした。


(オーケーオーケー。今の俺は、イケメンキャラに匹敵するくらいの経験を積んできている……このくらい、全然問題ないさ。余裕だ、余裕)


 なんて自分に言い聞かせながら、春輝は恐る恐る伊織の方へと身体を近づけていく。

 触れるか触れないかのところまで迫り、この辺りで止まろうとしたところ……伊織が、残りの距離を詰めてきて。


(うおっ!?)


 彼女の方からギュッと強く抱きしめてきたため、思わず驚きの声が出そうになる。


「んっ……」


 なぜか、伊織から艶っぽい感じの声が出た。


(ふ、ふふっ、この程度、余裕……余裕……よゆ……よ……)


 余裕余裕、と胸中で呟き続ける……が、しかし。


(……いや余裕じゃねぇわ!? 胸の辺りに感じる圧迫感が凄すぎる!)


 後ろから掻き抱くのとは、また一味違った危険度であった。


(だ、駄目だ別のことを考えよう! えーとえーと……あっ、凄い良い匂いが……なんで同じシャンプーとかボディソープ使ってるはずなのにこんな違うんだろうな……伊織ちゃん自身の匂いってことか……? って、いかんいかん! 思考が余計に変態的な方向に向かってるぞ! この子は家族なんだから、変なことは考えるな!)


 それでも、春輝としては動揺などしていないと主張したい所存なのである。


(この子は家族……この子は家族……)


 心の中で、念仏のように唱え続ける中で。


(そう……家族、だと思ってるんだよな)


 ふと、春輝の頭が妙な冷静さを取り戻した。


 あるいはそれは、現実逃避しているだけなのかもしれないが。


(俺はこれまで、極力この子たちの事情に触れないようにしてきた)


 春輝がずっと、抱え続けている葛藤でもあった。


(知らないようにしてきた。踏み込まないようにしてきた。この子たちは同居人ではあっても、ただ同じ空間で生活してるだけだからって……最初は、そんな風に考えて)


 少しだけ腕に力が入って、伊織が「んっ」とまた小さく声を出す。


(でも……俺はもう、この子たちを家族だと思ってしまっている)


 もう少し、今度は意図的に力を強めてみる。


 すると、伊織の腕に込められた力も少し強まった気がした。


(だったら……『家族』なら、踏み込まなきゃいけないんじゃないのか?)


 面倒事を嫌って、事情を聞かなかったのは事実。


 だが同時に、もう一つ。


 踏み込まなかった理由が、春輝にはあった。


(踏み込んで、いいんじゃないのか?)


 それは、『自分にそんな資格があるのか』という悩み。


 差し伸べられてもいない手を勝手に取るのは、傲慢なのではなかろうかと。


 けれど。


(この子たちも、俺のことを家族だと思ってくれてるのなら……)


 こちらから手を取っても、いいのではないだろうか。


 最近は、そんな風に考え始めていた。


「……なぁ、伊織ちゃん」


 決意を込めて、呼びかける。


「はい、なんでしょぉ……?」


 すると、紅潮して何やら蕩けるような顔が上がってきて。


(………………うん。今シリアスな話をするのは、流石に空気が読めてないな)


 たちまち、春輝の決意は霧散していく。


 こんなことも、もう何度目だろうか。


 自分が『今聞かなくていい理由』を探してしまっていることは、春輝も自覚している。


(まぁ……そのうち、機を見て尋ねりゃいいだろ)


 そう考える春輝は、無意識に今の環境がずっと続くと思っていた。


 しかし後に、そんなわけはないと思い知り。


 ずっと問題を先送りにしてきた自身を、後悔することになるのであった。

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