第8話 同棲と疑惑と
数年ぶりの「いただきます」を口にした、約一時間後。
「ぜぇ……はぁ……あっぶねぇ、ギリセーフ……」
「ひぃ、ふぅ……ま、間に合って良かったです……」
春輝と伊織は、発車間際に滑り込んだ電車の中で乱れた息を整えていた。
久方ぶりに家で朝食を食べていたら時間の感覚が狂い、遅刻ギリギリの時間に家を出ることになって駅までダッシュした結果であった。
とそこで、春輝はふと隣に立つ制服姿の伊織に疑問を抱く。
「ん……? ていうか、なんで君も一緒に電車に乗ってるんだ……? 学校は……?」
「あはは、昨日も朝から出社してましたよ……もう春休みに入ってるんです」
「あぁ、なるほど」
長期休みという概念から離れて久しく、その発想はなかった春輝であった。
「………………」
「………………」
その後、少しの沈黙の沈黙が挟まって。
「……あの、春輝さん」
ふと、伊織が表情を改めた。
「昨日は泊めていただき、本当にありがとうございました」
「いいって、俺から言い出したことだし」
何度目になるかわからないお礼に、春輝は軽く苦笑する。
「私たち、今日中には出ていきますから……これ以上、ご迷惑はおかけしませんので」
けれど、続いた言葉に小さく眉根を寄せた。
「……行く当てはあるのか?」
尋ねはしたが、答えは予想出来る。
行く当てがあるなら、端から『神』になど頼るまい。
「それは、その……えっと……」
果たして、伊織はしどろもどろになって答えに窮した様子だ。
「今日から暖かくなるらしいので、外でもたぶん寝られますし大丈夫です!」
そんなことを言い出す伊織に、春輝は内心で悩む。
(うーん……流石に、これを聞いた上で放り出すっていうのはなぁ……まぁぶっちゃけもう何泊かするくらい構わないんだけど、それ言って大丈夫か……? なんかこう、下心があるように思われない……? 初日は油断させといて、みたいな……いやいや、昨日あんだけハッキリ意思表示したんだし大丈夫だろ……大丈夫だよな……?)
そんな迷いが、胸に渦巻いていた。
「それに、いざとなれば私が……」
けれど、伊織の表情にまた少し変化が生じて。
「そんじゃ、とりあえず行く当てが出来るまではウチにいれば?」
それを感じ取った瞬間、気が付けば春輝はそう口にしていた。
アニメの主人公みたいに、なんて考えることすらなかった。
「で、でも、私たち、何も返せるものもありませんし……」
「そこは、ほら、あれだ。代わりに、家事はやってもらうから」
言い訳がましく、条件を付け加える。
「大体、一人であの家をキープするのも結構大変なんだ。家って、人が住んでないと老朽化が早いって言うだろ? 使ってない部屋でも、時々空気を入れ替えてやらないとカビ生えちゃうしさ。だから、住んでくれる人がいる方がありがたいんだよぶっちゃけ」
早口気味で捲し立てた言葉も、必ずしも嘘ではないけれど。
「……だからな」
言おうかどうか迷った末、少し間を置いて春輝は再び口を開いた。
「もうするなよ、昨日みたいなこと」
自分で思ったよりも、その言葉は厳しい口調となって口を出た。
脳裏に蘇るのは、昨晩の伊織の姿だ。
彼女は、もし春輝にその気があれば本当に身体を差し出したことだろう。
先程の伊織の表情は、あの時の決意に満ちたものと同じに見えた。
恐らく再び住む場所を探すことになれば、彼女は同じことをするつもりなのだと思う。
それを想像すると胸が妙にざわついて、半ば無意識に先程の言葉が口をついて出たのだ。
(……とんだ偽善だな)
自身に、苦笑する。
(俺にこんなこと言う権利なんて無いし、責任を持てるわけでもない。なのに、ただ俺がなんとく嫌だから『するな』ときた。せいぜい数日宿泊場所を提供することくらいしか出来ないのに……それ以上何かするつもりはないってのに、さ)
口に出したことを、春輝は今更ながらに後悔し始めていた。
「は……」
そんな春輝の傍らで、伊織は先程から口をパクパクとさせており。
「はいっ!」
かと思えば、やけに大きく頷いた。その頬は紅潮しており、なぜか嬉しげに見える。
「春輝さんに誓って、もうしませんっ!」
「いや、俺に誓ってもらう必要はないけど……」
なんとなく照れくさくなって、春輝は目を逸らして自身の頬を掻いた。
「それじゃ、今日以降もウチに泊まってくことでいいかな……?」
目を逸らしたまま、確認する。
「……はい。それじゃすみませんが、もうしばらくの間お世話になりますっ!」
再び大きく頭を上下させた後、伊織は満面の笑みを咲かせた。
(この笑顔が、一番のお返し……ってか?)
心中で、そんなことを考え……けれど、一瞬の後に。
(うわっ、我ながら似合わねぇ台詞……やっぱ俺は主人公にはなれねぇわ……)
猛烈に恥ずかしくなってきて、今度こそ口に出さなくて良かったと心から安堵した。
◆ ◆ ◆
その後は特に何事もなく、会社に到着し。
「おはようございまーす」
「おはようございますっ!」
それぞれ挨拶の言葉と共に、オフィスに入った春輝と伊織。
「おはようございます、先輩、小桜さん」
たまたま入り口の近くにいた貫奈が、挨拶を返してくる。
「……お二人、揃って出社ですか?」
その眼鏡が、キランと光った……ような、気がした。
「あぁ、たまたまそこで会ってな」
何気ない調子で、春輝が返す。
「……気のせいでしょうか? 幾分、お二人の距離感というか空気感が昨日までと異なるというか……どこか、気安くなったような……?」
貫奈の鋭い指摘。
流石に昨日からの件を経て、『社員とバイト』というだけの関係よりは距離感が縮まっていることを、春輝自身も自覚していた。
「ははっ、何を言い出すやら。別に、昨日までと同じだろ」
それでも、ここは惚けるしかない。
「そ、そうです! 全然気安くないです! むしろ、高いです! 気高いです!」
伊織も、彼女なりに懸命に誤魔化そうしてくれようとしているらしい。
「気高いというと、別の意味になってくる気がするけれど……」
「あっ! そ、そうですよね! 間違えました! つまり、アレです! えっと、その、私、人見さんに対して滅茶苦茶高い壁を感じてますので!」
「それはそれで、先輩が不憫なような……」
「す、すみません! 良い意味で、です!」
恐らく狙っているわけではないのだろうが、徐々に話がグダグダになってきているので結果的に誤魔化すことには成功していた。その流れに、密かにホッとする春輝だったが。
「と、とにかく、一夜を共にしたからといって何も変わっていませんので!」
突然の爆弾投下に、思わず吹き出しそうになった。
「い、一夜を共に……!?」
ピシリと貫奈が固まる。
「今なんか、一夜を共にとか聞こえたけど……」
「伊織ちゃんの声だよね……?」
「誰とだ……? やっぱ、人見さん……?」
「意外と言うべきか、ついにと言うべきか……」
しかもかなりの大声だったため、オフィス全体がザワッとし始めた。
「ちょ、いや、今のは比喩だよな!? 例えそうなっても、って意味で!」
慌てて春輝が火消しにかかる。
「へ……?」
自分の発言の意味がわかっていなかったのか、伊織はパチクリと目を瞬かせた。
けれど一瞬の後、ハッとした表情となって顔を赤くする。
「そ、そうです! あくまで喩えで! 未遂でしたし!」
「みす、み、みすぇ、未成年だもんな! ははっ、未成年に手を出すわけないじゃないですかぁ……! いや、マジで……!」
「そ、そうです! 出されませんでしたので!」
「仮にそうなっても、っていうシミュレーション的にね!」
「その、春輝さんは……!」
「は、春来た! 確かに春はもう来てるよな!」
春輝は入社以来、数々の炎上案件の火消しを請け負ってきた。
が、しかし。
(これなら、重障害の対応の方がまだナンボかマシだな……)
朝から、終電間際のような疲れを感じる春輝であった。
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