5

 国都の中央広場には、たくさんの黒山の人だかりができていた。彼らの視線の先には、木製の太い柱がでんと真っ直ぐ立っており、その足元には、うず高く薪が山となって積み上げられていた。人々からは、興味深げに目を輝かせる者や、胸の前で両手を組み合わせ、目をつむって祈りの言葉を呟く者など、様々な表情が見て取れる。群衆の最前列には貴族や領主たちが陣取って、イベントが始まるのを今や遅しと待っていた。その中にはピエールの姿もあったが、どこかそわそわとして落ち着きがなかった。

 群衆の一部が、モーゼが海を渡るときみたいに、波打つように左右に割れて、その中を、執行人に引かれたイザベルが、足取り重く歩いてきた。食事を与えられていないのか、少し痩せ細って見えるが、その表情に焦燥感はなく、むしろ覚悟の色が浮かんでいた。執行人はイザベルを薪の上に登らせて、柱を背にして立たせ、彼女の体と柱をロープでぐるぐる巻きにして固定した。そして薪の束から飛び降りて、松明を手に持つと、柱を挟んで左右に並び、その時を待った。

 群衆が静かになった。執行官が、先ほど出来た群衆の割れ目を通って、刑場へとゆっくりとした足取りで歩いてきた。そうするのは、刑の執行を躊躇しているわけではなく、罪人の姿を、市民にじっくりと見せて印象付けるための、その時間を作っているのだ。

 同じころ、執行人の歩みに合わせるように、それよりは多少なりとも足早に、真紅の長衣を来た人物が、顔を隠すようにフードを深く被って、人波を掻き分けるようにして、群衆の前列へと向けて歩いていた。やがてその人物は、ピエールの背後に迫ると、わずかに面を上げて、何事かを耳元に呟いた。そして、再びうつむくようにして、その場を離れ、人だかりを抜けてどこかへと姿を消した。

 執行官は柱を背にして立つと、巻物を広げて罪状を読み上げた。群衆はそれにただ粛々と耳を傾けた。異議を申し立てる者はいない。イザベルも、本来なら最後の反論を述べるところであろうが、彼女はそうはせず、こう言った。

「私は、自らのしてきたことを悔いてはいません。ただそのことが、皆さんにとって、後々良かったことなのだと思えるようになったのなら、うれしく思います。私は今日、ここに死にますが、この国が、皆さんにとって良きところであり、皆さんが末永く幸せに、そして健やかに暮らせる国となりますことを、願って止みません」

 どこからか嗚咽の声が漏れてきた。イザベルを信奉する市民が、彼女のために泣いているのだろう。が、執行官は、そんな声にも構うことなく、右手を上げて刑の施行を宣言した。執行人は松明に火をつけると、炎がよく見えるようにと高く掲げて、柱を挟んで向かい合った。執行官はくるっと向き直り、執行人を交互に眺めてから頷いた。それを合図に、執行人は二歩、三歩と前に進み出て立ち止まり、松明を持った腕をゆっくりと下ろして薪に向けた。

 その時だ。どこかから、大きな爆発音が轟いた。続いて、それぞれ別々の場所からも、少し間隔を空けて、二回、爆発音が上がった。火山が噴火するように炎が湧き上がり、真っ黒い煙がもくもくと立ち上った。群衆は、突然、見知らぬ誰かにほっぺたをひっぱたかれたときみたいに固まって、暫し呆然と立ち尽くして、空へと吸い込まれていく黒煙を見つめていた。が、やがて事態が飲み込めてくると、恐怖に駆られた人々は、悲鳴と怒声を上げながら、四方八方に放たれた鉄砲玉みたいに逃げ惑い始めた。こうなると、広場は混乱の極みとなって、もはや処刑どころの騒ぎではない。執行官も執行人も、柱に括り付けられた罪人のことなどすっかりと忘れてしまっていた。

 その叫喚に駆られた群衆の中を、真紅の長衣の人物が、荒波を掻き分ける様にして、刑場の方へと進んでいた。怒り狂ったような潮流の中を、それに逆らって進むのは容易ではなかったが、それでもなんとかその場に辿り着くと、その人物は小刀を取り出して、そろりとイザベルに近づいた。この機に乗じて、自らの手で、彼女に死を与えてやろうとでも考えているのであろうか。しかし、そうではなかった。その人物は、ロープの隙間に小刀を差し込むと、ぶつり、とそれを切断した。そうやって、全てのロープを切断し終えたのち、イザベルを薪の上から降ろして言った。

「大丈夫か?」

「……ジャン?」

 イザベルはフードの中を覗き込むと、目をぱちくりとさせて言った。

「詳しい話はあとだ。ここから逃げるぞ」

 彼はイザベルの腰に腕を回して、恋人同士でもあるかのようにピタリと体を引き寄せると、逃げ惑う人々の中を縫うようにして歩いて行った。そうして、苦労しながらもなんとかして広場を抜け、街路に入ると二人は更に奥へと進んだ。そして十分に離れたところまで来ると、来た道を振り向いて、他に人の姿がないことを確めたのち、脇道へと逸れて、四方を建物に囲まれた中庭のような場所へとやってきた。

「心配しましたよ。来ないのかと思って」

 ピエールが、安堵を覗かせながら言った。

「あまりに人が多くてな」ジャンはそう答えてフードを降ろした。「少しやりすぎたかな?」

「あのくらいの方が、真実味があっていいんですよ」彼らのいる場所から広場は見えないが、あたかも見えているかのように、その方向へと目を向けて、ピエールは言った。そして、イザベルに視線を移して「あの時以来ですね」と言ってから、怒りと不安の入り交じった面持ちで続けた。「随分と酷い扱いを受けたようですね。体の具合は大丈夫ですか?」

「はい。体の方は、問題ありません」

 イザベルは気丈にもそう答えたが、辛そうなのは火を見るより明らかだった。

 ジャンは目を怒らせた。

「いくら罪人だからとはいえ、食事もろくに与えないのは人道にもとる。連中には、あとでしっかりと罰を与えなければな」

「それは調べておきましょう」

 ピエールは受け合って、続けて言った。

「ご指示の通り、馬を用意しました。とびっきり足の速い奴を」

「巻き込んでしまってすまない」

「いえ。気になさらないでください。兄上は、なにも間違ったことはしていないのですから。間違っているのは、あの王の方です。あの王は、なにもわかっていないのです」

 いつもなら、そんなことを言うものではない、とたしなめるところだが、もはや、ジャンにそのつもりはなかった。

「まったくだな。この国の将来が危ぶまれる」

「いずれ、正当な王の下に帰るでしょう。そうなれば、良い方向に進んでいけるはずです」

 ピエールはそう言って、イザベルに目を向けた。

「そうだな。そうなると良いがな」

 ジャンは振り向いて、イザベルを見遣って答えた。彼女はピエールとジャンに、怪訝そうな視線を向けた。

「さて。そろそろ行った方がいいでしょう。彼女がいなくなったことに気がつく頃でしょうから」

 ジャンは頷くと、弟の肩に手を置いて、言わずにはいられないというように感謝の言葉を述べた。

「私は幸せ者だ。良い弟を二人も持ったのだからな。お前は危険を顧みず私を助けてくれた。そして、ポールの進言がなければ、私はイザベルを見殺しにするところだった。もし、こうしていなかったら、後悔の念に苛まれて、一生を終えたことだろう」

「でしたら、戻ったらせいぜい、ポールに感謝してくださいよ」

 ピエールはそう言って破顔した。

「ああ。きっと、そうしよう」

 ジャンも満面に笑みを浮かべた。

「さあ、行ってください」

 ジャンは頷いて、イザベルを馬に乗せた。そして自身はその背後にまたがって、彼女を両脇から支えるように腕を伸ばして手綱を握った。イザベルはそれで安心したのか、ジャンに寄り掛かり、薄く目を閉じた。

「こちらのことは私の方でなんとかしますから、心配はいりません」

「わかった。よろしく頼む」とジャンは首肯して「では、リエージュで会おう」

「はい。後ほど」

 ジャンは馬を走らせた。ピエールの言った通り、馬は良馬で、風のように街路を駆け抜けた。

 城門に近づくと、衛兵がジャンに気が付いて、槍を交差させて行く手を阻もうとした。

「貴様! 止まれ! どこへ行くつもりだ!」

 もとより、ジャンはそれに従うつもりはない。彼は馬の脇腹を蹴って、更に拍車をかけた。馬は速度を上げると、衛兵の手前でジャンプして、彼らの頭上を軽々と飛び越えた。そして城門を駆け抜けて、あっという間に遠くへと姿を消した。衛兵はその様子を悔しげに見送ったのち、くるっと向き直って、王宮へと走った。

「さてと、俺も引き上げなくちゃな」

ジャンの走り去っていく姿を見送って、ピエールは言った。

「残念だが、それは叶いそうもないぞ」

 ピエールは驚いて、その声の方を振り向いた。黒い甲冑を身に着けた憲兵が三人、細い路地から広場へ入ってくるところだった。

「私に何か用か?」

 探るような視線を向けつつ、堂々と、何事もないように、威厳を持った口調でピエールは言った。

「聞くまでもないと思うがな。まあ、いい。あんたには、罪人の逃走を手助けした容疑がかかっている。もっとも、容疑と言うよりは現行犯だがな。いずれ、あんたの兄貴にも逮捕状が出るだろう。良かったな。指名手配だぞ」

 憲兵はにやりと笑った。

 ピエールの目がゆっくりと見開かれていく。やがて彼は言った。

「まさか、こうなることを予期していたと言うのか?」

 くすくすと憲兵は笑う。

「あんたの兄貴はわかりやすいからな」

「これも陛下の命令か?」ピエールはそう言ったのち、目を細くさせて続けた。「いや、あの国王の考えたことではないな」

「それは好きに想像するがいいさ。さて、一緒に来てもらうぞ。牢屋に入ってもらうからな」

 憲兵は両側からピエールの腕を掴んだ。彼は抵抗はしなかった。武器もないし、相手が三人では勝てる見込みはない。引き連れられていく中で、彼は遠くを見つめて唇を噛みしめた。誰かの手のひらの上で踊らされていたようで、そのことが悔しくてならない。そして、これ以上、自分には何もできそうにもないことも。


 栗毛の馬はジャンとイザベルをその背に乗せて、草原を吹き抜ける疾風の如く街道を駆け抜けていった。道行く人々は皆、街道を全速力で駆けて行く馬など珍しくないからか、ジャンの馬が近づいてくると、落ち着いた様子で脇へとのけて、通り過ぎていくのをやり過ごし、一時の喧騒が消えて静かになると、元の旅程を再開した。ジャンの駆る馬は本当に良く走り、あっという間にモンフェスの形影は小さくなった。

 それからしばらくして、ジャンは馬の速度を緩め、背後を振り向いて安堵に胸を撫で下ろした。来た道の先に、追っ手と思しき兵馬の姿は見当たらなかった。しかし、あの騒乱の中で、追っ手を出すのに手間取っていただけで、いずれは、追跡の手が伸びてくるはずだ。そうなる前に、出来る限り先へと進んでおきたい。しかし、ジャンも、特にイザベルは有名人だから、昼の間に移動するのは人目に付きやすく、リスクが高い。となると、陽の高いうちはどこかに身を隠して、暗くなってから移動する方が安全だろう。ジャンは、街道の先、道から少し離れたところに、小さな森と、そこから頭を覗かせた小さな岩山を見つけた。うまく行けば、隠れるのに最適な洞穴などが見つかるかもしれない。

 ジャンは、街道からその小さな森へと延びる、細い脇道へと馬を進めた。どんどんと奥へと入って行き、やがて、小道が森の木立に包まれるようになってくると、辺りはうっすらと暗く静かになった。更に歩みを進めていくうちに、茂みの緑は濃くなって、静けさはより一層、深さを増した。

 そうしてしばらく馬を進めると、突然、茂みが途切れて、空間がぽっかりと現れた。空からは日差しが差し込んで明るく、短い下生えの中に、色とりどりの小さな花々が花を咲かせていた。その草地の突当りには岩の崖があり、洞穴があんぐりと口を開けていた。隠れるのに丁度良さそうだが、なにかの生き物のねぐらの可能性もある。ジャンは馬を降りると近くの木の幹に手綱を結わえ、小刀を抜いて握りしめた。鬼が出るか蛇が出るか。どちらになるかはわからないが、小さくても無いよりはましだ。彼はイザベルにここで待っているようにと言って、洞穴へと歩いて行って、その入り口から中を覗いた。僅かにどんよりとした空気が流れて出てくるが、特に嫌な印象はない。ジャンはゆっくりとした足取りで中へと歩みを進めた。その姿が暗がりに飲まれていく。馬は主がいなくなったことなど気にした様子もなく、豊富な栄養素を蓄えた雑草をもさもさと食べていた。イザベルは、言われた通りに馬上でじっとしていたが、その表情は不安げで、落ち着きなさそうな目で洞穴の奥を見つめていた。

 数分ほどのち、洞穴のその暗がりの奥から、浮かび上がるようにしてジャンが現れた。手にしていた小刀は既に鞘にしまわれている。馬が顔を上げて小さく嘶いたが、またすぐに食事に戻った。イザベルは、安堵をその顔に表して、小さくため息をついた。ジャンが言った。

「なにかの巣穴と言うわけでもなさそうだ。これなら問題ないだろう。日が暮れるまでここで過ごして、暗くなったら出発しよう」

 ジャンは馬を引いて洞穴へと入って行った。中はひんやりとはしていたが、寒いと感じるほどではない。彼は外光が届くギリギリの辺りまで進み、岩の出っ張りに手綱を結わえてイザベルを馬から下ろすと、洞穴を出ていってしばらく後、枯れ枝を抱えて戻ってきた。火を起こして枯れ枝に点けると、パチパチと音を上げ、炎が体をもじりつつ背伸びをした。火は辺りをやわらかに、暖かく照らした。

「さあ、座って」

 ジャンは座りやすそうな石を二つ持ってきて、焚火を挟んで向かい合うように並べて言った。

 イザベルは腰かけて炎を見つめた。彼女の顔がオレンジ色に染まって、じりじりと体を暖めた。そうすると、その表情に不満そうな色が浮かんできて、彼女は僅かに口をとがらせた。ジャンはその様子を見て取って、聞いた。

「死刑を免れたというのに、どうしてそんな顔をする?」

「私は死ぬべきでした」

 イザベルはぼそりと答えた。

「死ぬべき? なぜ?」

「それが定めだと思うのです」

「人には寿命というものがある。それを定めと呼ぶのならそうだろう。しかし、それを全うすることなく死ぬべき定めにある人間など、存在しない」

「ですが、それが守護者様のお望みだと、私は思います」

「啓示にあったか?」

「いえ」

 イザベルは頭を振る。

「なら、お前は生きるべきだな。そう啓示にある」

 火が爆ぜてパチッと音が鳴った。

 その音が鳴るのと同時に、イザベルは目を丸く見開いた。彼女は怪訝そうに聞き返した。

「啓示……ですか?」

「そうだ。私が受けた啓示のな」

「……それは……どういう……?」

 彼女の表情はなお一層、訝しさを深くした。

 ジャンは、自分が受けた啓示について話した。イザベルはそれを聞いて、ただ目を丸くしていた。

 ジャンは続けて言った。

「もう一つ、重要なことがある」彼はイザベルの胸元に目を遣って「そのペンダントだ。外から見ればただのありふれたペンダントだ。しかし、その内側には、先の王家の紋章が描かれている。それを持っていると言うことは、お前が王家の血筋にあることを示している」

「私が?」イザベルは更に目を丸くした。「信じられません」

「それは母親の形見なのだろう? おそらく、お前が何者であるかを示すために、それを残したのだ。いつか、王家が復活することを願ってな」

「信じられません」

 イザベルは首を振り、自らに言い聞かせるように言った。

「お前が王家の血筋の持ち主なら、守護者がお前を見出したのも不思議はない。ただの、農家の小娘ではないのだからな」

「母は、どうなったんでしょうか」

「亡くなっているだろう。現王家が玉座を奪ったときに、前王家の血筋は絶えたと言われているからな。おそらく、お前を連れてきたのは、使用人の誰かだろう。その者も、今も生きているかはわからんが」

「あなたの言うことが本当なら、王家の人間は、もう、私しか残っていない、と言うことですね」

「そうなるな」

 ジャンはゆっくりと頷いて答えた。彼は小枝を手に取ると二本に折った。パキン、と音が洞内に響いた。「私はこう考えている」と彼は続けた。

「お前は、お前が得た啓示を信じてそれに従った。私もまた、私の得た啓示に従うべきだろう。お前が、それを使命だと感じたようにな」

 イザベルはうつむいて、目をつむった。彼女自身、啓示を信じ、それに従ってきたわけだから、その重要性については十分に理解している。しかし、突然、ただの田舎娘に過ぎないと思っていた自分が、実は王家の生き残りで、王家の復興を果たす定めにあり、それが啓示に示されているのだと言われても、素直に首を縦に振ることはできなかった。

 ジャンが言った。

「私がどうして、あんな無謀なことをしてまで、お前を助けたかわかるか?」イザベルは怪訝な顔でジャンを見つめた。彼は続けた。「私も、初めは自分の見た啓示など信じていなかった。しかし、お前が現れて、共に行動し、それが現実になっていくのを目の当たりにして、もしかしたら、私が見た啓示も、本当に起こり得ることなのではないかと思うようになった。そして、お前の持つそのペンダントの紋章を見たとき、それは確信に変わった」彼は小枝を炎に放り込んだ。炎は燃料を得て、勢いを増した。「今の王家では、この国の未来は危うい。だから私は、前王家の手に王国を取り戻すべきだ、あるべき場所に、玉座を帰すべきだと、そう考えている。お前は王家の唯一の生き残りだ。それは間違いない。無理強いをするつもりはないが、もしお前が、私の見た啓示を信じると言ってくれるなら、私は、お前にすべてを捧げよう」

 イザベルは、ペンダントを手に取り、指先で撫でながらそれを眺めた。彼女はそこに描かれたという、王家の紋章を見たことはない。また、それがどういうものかを知らない。しかし、ジャンが言うのだから間違いない。そして、彼が得た啓示についても、それを否定する理由はない。彼への信頼が、そうした結論へと導いた。

「今度は私が、あなたに従うべきなのでしょうね」

「守護者はそうお望みだろう」

「わかりました」イザベルは、覚悟を決めた顔つきで頷いた。「全て、あなたに従います」

 ありがとう、と言うようにジャンは頷き返して「お前のことは必ず、私が命をかけて護る。それが、私の役目だからな。さて、日が暮れるまではまだ時間がある。それまでしっかりと休んでおくといい。陽が落ちたら出発する」

「はい」

 イザベルは膝を抱えて丸くなり、目をつむった。だいぶ疲れていたのだろう。彼女はすぐに眠りについた。

 夜の闇が空に広がって、星々が瞬き始めた頃、ジャンとイザベルは洞穴をあとにした。街道を行き交う人の姿はなく、道の先は真っ暗で、ともすれば、魔物があんぐりと口を開けて待ち構えている様子にも似ている。森の木々には静けさが染みこんで、枝葉の陰を動き回る何者かの音や、ほぅほぅと鳴く何者かの声だけが聞こえていた。

 夜ともなれば、夜行性の危険な生き物の跋扈する時間でもあるので、こんな時間にわざわざ道を行く者などいない。だから彼らのような、特別な事情のある者にとっては都合がよい。追われる身としては、夜行性生物の存在より、人間の目の方が厄介だ。

 逃避行は特段の障害もなく進んで、数日後、ジャンとイザベルは、辺境伯領まで目と鼻の先というところまでやってきた。眼前にはローヌ川が横たわっており、あとはそれを越えれば辺境伯領だ。が、ジャンはそこで馬を止めた。夜闇の中に、浮かぶ松明の灯を見つけたからだ。それは点々と広がって、左から右、或いは右から左へと忙しく動き回っている。

「あれは?」

 イザベルが言った。

「追っ手だ。先回りされたらしい。通常の経路で領地に入るのは無理そうだな。迂回しよう」

「そんな道があるんですか?」

「陛下ですら知らない、代々の辺境伯だけが知っている秘密の道がな。万が一のときのために用意してあるのだ。まさか、今度のことで使うことになるとは思わなかったが」

 ジャンは馬首を巡らせて、ローヌ川を右手に見ながら馬を進ませた。


 モンテイユ川はローヌ川の支流で、ブロバンス峡谷は、モンテイユ川の浸食によってできた、深い深い峡谷だ。その峡谷を越えて山を登り、道なき道を進んでいったその先に、辺境伯領へと続く秘密の道がある。そこまでの道程は決して楽ではなく、そしてその場所は人が立ち入るようなところでもないので、それ故に、秘密の道と言うわけだ。

 ジャンは峡谷に掛かるランビュイエ橋の袂で馬を止めた。この先ももちろん馬は必要だが、騎乗したまま吊り橋を渡るのは非常に危険だ。彼は馬を降りるとイザベルが下馬するのに手を貸した。そして彼女を先に行かせて、彼は馬を引いて後に続いた。橋は人の歩く動きと、峡谷の崖を撫でるように吹いてくる風にあおられて、上下左右にゆらりと揺れた。時は夜の真っただ中にあり、松明の明かりは僅か先を照らすのみで、足元は薄暗くてよく見えず、ややもすると、誤って板切れの隙間から足を踏み外してしまいそうだ。そうした状況に、普通なら、足も心もすくみそうなものだが、イザベルは、そんなことなどどこ吹く風で、すいすいと歩いて行った。もちろん、ジャンもなんとも思わなかったが、彼女くらいの年ごろなら、大概は怖いといって立ち止まりそうなところを、そんな素振りは微塵も見せず、淡々とした様子なので、彼は目を見張って、感心するよりほかなかった。

 そうして、橋の中ほどまで来たとき、辺境伯領側の橋の袂に、雪崩を打つ如く、灯火の光がわあっと広がって、夜空に浮かぶ星のように瞬いた。

「なんでしょうか」

 イザベルが言った。

「まさか」ジャンは一驚と共に言った。「こっちもか」

「追っ手、と言うことですか?」

「そのようだな」

 彼は苦虫を噛み砕き、すり潰し、舌の上で転がしたように顔をしかめた。

「秘密の道だったのでは?」

「その通りだ」

「あなた以外には知らないのですよね?」

「……いや」ジャンは奥歯を噛みしめた。「一人だけ知っている……ポールだ」

「ポールが? では、これは彼が?」

「あいつが誰かに話したとは思えない」頭を振りながら、本当にそう思っている顔でジャンは言った。「王国の歴史は長い。その間に、知られてしまっていたのかもしれない」

「どうするんです?」

「先に進むわけにはいくまい。戻るしかあるまいな」

 そう言ってジャンは振り向くと、短くうっと声を上げた。彼らが渡ってきた方にも、灯火の光が、列をなして並んでいたからだ。その光は、獲物を追い立てるかのように、右に左に忙しく動き回っている。状況から察するに、そちらもまた、味方と言うわけではないだろう。彼らは行く手を阻まれ、退路も断たれた。下は深い峡谷の底。まさに八方塞がりとなった。

「私のせいですね」

 イザベルは肩を落とした。

「お前のせいなどではない。気にするな」

「ですがこのままでは、あなたまで捕まってしまいます」

「それは覚悟の上でしたことだ。そんなことより、今はこの状況をどうするか、考えるべきだろう」

 イザベルは頭を振った。

「やはり、私の責任です」

 彼女はそう言って、数歩、後退った。

「イザベル?」

「私が死ねば、あなたは助かるでしょう」

 彼女は手摺のロープに手を掛けた。

「イザベル! 馬鹿なことは考えるな!」

「私は死ぬべきなのです」

 イザベルは勇気のある女性だ。こうなると、行動は早い。彼女は地を蹴った。橋がぐらりと揺れて、その上半身は手摺の向こうに投げ出された。

「イザベル!」

 ジャンは咄嗟に駆けだした。死なせるわけにはいかなかった。彼は腕を伸ばして彼女の手を掴んだ。しかし、死後の世界へと誘おうとするその引力の力を、彼は止めることができなかった。二人の体は橋の向こう側へと投げ出され、まさに、死後の世界そのものであるかのような暗黒の闇へと飲み込まれいった。永遠に続くかと思えるような時間ののち、バシャン、と水を叩く音がして、その後すぐに、漆黒の世界と静寂が訪れた。

 橋の両側から、松明を掲げた兵士が数名やってきて、二人の落ちた辺りから下を覗きこんだ。松明の明かりを谷底に向けるが、光は暗闇に吸い込まれてしまって、ただその周辺だけがぼうっと明るくなるだけだった。彼らは駆け戻り、谷底へと降りて二人を捜索した。しかし、二人は見つからなかった。兵士は上を見上げた。橋はずっとずっと上にある。落ちて助かる高さではない。彼らは二人が死んだものと判断して、引き揚げて行った。

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