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 ニースを望むローヌ川の対岸に、ジャン率いるゴール軍は陣を敷いていた。兵士たちの間には、出撃を危ぶむ声も上がっているが、王の命令がある以上、そうも言っていられない。もっとも、彼らは戦をするのが仕事だから、それ自体を嫌がっているわけではない。彼らを指揮する人間が、ただのみすぼらしい少女だから、そのことに抵抗を感じているのだ。兵と言うものは、優れた指揮官の下にあってこそ、最大の力を発揮する。そして、愚にもつかない指揮官の下では、命すら危うい。この、件の少女に、指揮能力があるとは思えず、故に、彼らは不安で仕方がないのだ。

 兵士たちの間に、そうした感情が逆巻いていることは、ジャンにもわかっていたから、彼は面々を前にこう言った。

「お前たちの心配はわかる。だが、不安を感じる必要はない。彼女が指揮を執ると言うのは表向きであって、これまで通り、部隊の指揮は私が執る。だからなんら心配は不要だ」

 兵士たちの間に安堵が広がって、彼らは落ち着きを取り戻した。

 暫くして、カチャカチャと甲冑のぶつかり合う音が聞こえてきた。皆がその音の方を振り向いた。真新しい鎧を身にまとったイザベルが、白毛の優美そうな馬に乗ってやってくるところだった。隣には、ポールがやはり馬に乗って歩いている。鎧は、ジャンがポールに命じて町の武器屋に造らせたもので、彼女でも苦なく扱えるよう、軽めに作ってあった。馬は栗毛のがたいも良い丈夫なものをと考えたのだが、彼女が、これがいいからと選んだものだった。馬上の少女の姿は、馬子にも衣裳とは言い方が良くないかもしれないが、しかし、男装の麗人と言ってもいいくらいの見映えだ。兵士たちは、口々に、ほう、と言うような声を上げて彼女に見入っていた。

 イザベルは馬を進めてジャンの隣に並んだ。馬の扱いには慣れているようで、難なく手綱を捌いている。

「慣れた手つきだな」

 ジャンが言った。

「馬の世話が私の仕事でしたから」

「そうか」ジャンは頷いて「ところで、兜はつけないのか? 万が一怪我をしては事だ」

「女だから、とお考えなら、心配はご無用です。そんなことは気にしません。それに、兜を被っていては、守護者様に私の顔が見えなくなってしまいます」

 ポールが肩をすくめた。どうやら彼も、彼女に説得を試みたようだ。ジャンは、ならば仕方がない、というように肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。

 ジャンは、ローヌ川の対岸の、その向うを見つめた。黒い帯状のものが草原の上に見える。馬が駆けてきて、ジャンの隣に並んだ。

「どうだった?」

「いつでもこいと待ち構えてるよ。今日こそはと息巻いているようだ」

 ロジェが答えた。

「それは、お互い様というところだな」とジャンは苦笑を浮かべて「では、行くか」

「うむ!」

 ロジェが号令を下すと、部隊はゆっくりと動き出した。

 川幅は三十メートルほどもあるため、普通ならそれを渡河するのは容易なことではない。しかし、彼らが渡ろうとしている場所は、膝下ほどの深さしかなかったため、人馬でも十分に渡ることができた。もちろん、橋もあるにはあるが、少し遠いところにあるため、橋を渡ろうと迂回しているその隙に、敵の渡河を許してしまい、ボトワーズを攻撃される恐れがある。だから、渡河中に攻撃を受ける可能性はあったが、ボトワーズの安全を考えれば、この方法が得策なのだ。

 ゴール軍は渡河を終え、川を背にして隊列を整えた。背水の陣とも言えなくもないが、川は歩いて渡れる深さであるので、一歩たりとも引けない、というような状況にあるわけではない。実際、危機が迫ったときには、再び川を渡って撤退する考えだ。必要以上に兵を損なうわけにはいかないから、その勇気ある撤退への判断は、指揮官に必要な才覚といえるだろう。

 隊列の先頭にはジャンとロジェ、ポールとイザベルが轡を並べていた。イザベルに、後ろに下がるようにと言ったのだが、彼女は首を振って頑なにそれを拒否した。このために来たのだからと言うのが理由だったが、たしかに、自ら望んでここへやってきたわけだから、彼女が先頭に立つのは当然と言えばその通りだろう。とはいえ、そこは、真っ先に刀剣や弓矢の危険の迫るところとあって、身を守る術さえ持たない、まだ成年にも達していない少女を矢面に立てるのはやはり心配ではある。ジャンは、ポールに意味ありげな視線を向けた。彼もそれとわかったようで、任せろと言うように頷いた。

 ジャンは振り向いて、勢いよく剣を引き抜いた。ポールとロジェがそれに続き、そこかしこから、金属同士の擦れ合う音が響き渡った。ジャンは剣を高々と突き上げると「では、いくぞ! かかれっ!」と声を上げて振り下ろし、その切っ先をニースへと向けて馬を走らせた。その後を追うように、堰を切って流れ出る水の如く部隊は動き出し、人馬の土を蹴る音が草原に轟いた。軍団はうねりとなって平原を移動して、波のように敵陣に迫っていった。

 両陣営の、互いの姿形が目にはっきりと捕えられるようになってくると、敵陣営から一斉に矢が放たれた。それは線を引くように空へと登って行き、最高点まで到達したのち、引力に引っ張られて真っ逆さまに落ちてきて、豪雨のように部隊の上に降り注いだ。傍から見れば、矢羽根の雨は容赦なく彼らを射抜いたように見えただろう。しかし、不思議なことに、それは彼らを避けるようにして通り過ぎ、次々と地面に突き刺さった。ブリトン軍は何度も繰り返し矢を射かけた。ところが、なにかの見えない力に護られてでもいるかのように、それらがゴール兵を射抜くことはなかった。

 そうして、部隊は草原を駆け抜けて、やがて敵軍と激突した。剣と剣のぶつかり合う音が方々から上がり、怒号、絶叫が混じり合い、両軍は入り乱れて、戦況は秋の空のように刻々と変化していった。

 やがて、旗色が悪くなりかけたところで、ジャンは号令を飛ばした。

「撤退だ! 撤退せよ!」

 部隊はその指示の通りに動こうとする。が、イザベルが異を唱えた。

「いけません! 守護者様のお言葉を無視するつもりですか?」

「こちらの形勢は不利な状況だ。このままでは多くの兵を失うことになる。いくらお言葉だからとはいえ、指揮官として、それだけは避けねばならん!」

 ジャンは答えつつ、剣を振って敵を薙ぎ払う。

 イザベルが頭を振って「私には……」と言いかけたところで、馬からするりと落ちた。

「おい! どうした!?」

 ジャンは、打ち掛かってくる敵兵の胸に剣を突き刺して、足で蹴って引き抜くと、イザベルのもとに馬を走らせた。

「イザベル! いったい……」

 そこでジャンは言葉を失った。彼女の首のあたりに矢が刺さっていて、血がどくどくと流れ出ていたのだ。彼は馬を飛び下りて、イザベルを抱き起こした。意識はなく、息はか細い。すぐに治療を施さなければ、命が危ないだろう。彼は白馬に彼女を乗せると、弟を呼んだ。

「兄上、どうし……」

 彼は馬上で横たわっているイザベルを見て閉口した。

「彼女を連れてすぐに戻り、医師に治療させろ。いいか。くれぐれも死なせるなと、そう伝えろ」

「わかりました」

 ポールは白馬の手綱を握ると、ボトワーズへと駆けて行った。

 ジャンは愛馬に飛び乗ると、再び言った。

「よし! もう十分だ。撤退するぞ!」

 今度こそ、部隊は退却を始めた。ロジェが殿を務め、彼が敵を押し留めている間に、部隊は一気に川を渡りきる。ブリトン軍は深追いはせず、川の手前で追跡をやめると、勝どきを上げた。ゴール軍は、その声を背に受けながら草原を走り、ボトワーズに入ると門をしっかりと閉めた。

「どうだ?」

 ジャンは医務室として用意された小さな家に入ると、ベッドの傍らに立ってイザベルを見下ろしているポールに聞いた。

「血を大量に失ったため今は気を失っていますが、矢傷の方は命を脅かすほどの重症と言うわけではなかったようです。ただ、暫くは安静が必要だと」

「そうか」ジャンは安堵に胸を撫で下ろした。そして医者に目を向けて「よくやってくれた」

「あと少しずれていたら危ないところでした。なにかのご加護でもあったんでしょうかね」

 血に濡れた手をタオルで拭きながら、初老の男性は不思議そうに言った。

 ジャンはポールと見合って「かもしれんな」とだけ答えた。

 守護者のご加護のおかげ、かどうかは定かでないが、幸いになことに、友軍の被害は最小限に抑えることができた。これなら、次の戦闘でも十分に戦うことができるだろう。とはいえ、敵も強く防御も固いので、それを突破するのは容易ではない。作戦を練り直す必要がある。

 ジャンとロジェとポールの三人は、作戦室のテーブルを囲んで、難しい顔つきで地図と睨めっこをしていた。ほどなく、コン、コン、と、ドアをノックする音がした。

「入れ」

 ジャンが言った。ゆっくりとドアが開いて、イザベルが姿を現した。顔は青白く、首にはまだ包帯が巻かれている。その姿は痛々しく、とても動き回れるような状態とは思われないが、不思議と、その目には気力が満ちており、精神が肉体を凌駕しているような、そんな印象を彼らに与えた。とはいえ、怪我は完治しておらず、まだ安静が必要であるため、ジャンはこう言った。

「なにをしている? まだ動ける状態ではないだろう。休んでいろ」

「いえ、そう言うわけにはいきません。私には、使命を果たす義務があります」

 彼女は中へと入り、ドアを閉めて言った。

「その使命も、死んでしまっては果たせんぞ。それでも良いのか?」

「私には守護者様のご加護があります。こうして無事でいられるのも、守護者様のご加護があったからに違いありません」

 毅然と言い放つ彼女に、ジャンとポールは互いを見つめ合った。医師の言っていたことが思い起こされて、よもや、と思ったからだ。ここまで自信を持って言われると、言い返す言葉もなく、また、言ったところで考えを変えることはないだろう。

「わかった。そこまで言うのなら、好きにするといい」ジャンは言った。「それで、なにか言いたいことがあるんだろう?」

「すぐに兵を出してください」

「兵を出したところで、また前回と同じことの繰り返しだ。なにか別の作戦を考える必要がある。それにはまだ時間が必要だ。それに、闇雲に突っ込んで、兵を失うわけにはいかん」

「悠長なことを言っている場合ではありません。それに、私たちには……」

 ジャンは片手を上げて遮り「ご加護がある。そう言いたいんだろう?」

「はい。ご加護があるのですから、恐れるものはありません」

 ジャンは、ロジェとポールの顔をそれぞれ眺めた。二人とも、なんとも言えない表情を浮かべている。彼は目をつむって熟考した。国都奪還は王命であるし、そのためには是が非でもニースは落とさなければならない。そして、いつまでも進捗がなければ、咎めを受けるのは自分たちだ。彼は目を開けて言った。

「わかった。いいだろう。だが、いますぐに、というわけにはいかん。よいな?」

 ジャンの挑むような視線に、イザベルも頷かざるを得なかった。

 ジャンはポールに向き直り、言った。

「三日後、ニースを攻撃すると、部下たちに伝えてくれ」

 ポールはなにか言いたそうだったが、結局は諦めて「わかりました」と頷くと部屋を出て行った。一方で、イザベルは、満足そうな微笑みを浮かべていた。

 ジャンはローヌ川の畔に立っていた。夜が明けたばかりの頃合いで、空は曇っており、辺りには朝靄が深く垂れ込めている。

「これもご加護という奴かな」

 ロジェがジャンに耳打ちした。

「かもしれないが」

 ジャンは答えて、白く漂う靄を見つめた。いつもなら、視線の先には、草原の上に浮かぶニースの街並みが見える。が、今はその影すら窺うことができない。彼はあらかじめ、町の老人から、この数日間の天候について確認していた。その老人によれば、ちょうどこの日は、気温がぐっと下がって、辺りは靄に包まれるのだという。そこで彼は、その靄に紛れて、ニースへ攻めこもうと考えた。そうすれば、敵に気づかれることなく近づいて、不意を突くことができるだろう。この水蒸気のベールが、彼らの姿をすっかりと覆い隠して、作戦を成功へと導くその一助となるはずだ。ジャンは続けて言った。

「天が味方をしてくれているのだとしたら、心強い」

 後方から蹄の音が聞こえてきて、ジャンを含め、面々が振り向いた。イザベルとポールが、馬を並べて歩いてくるところだった。イザベルはゴール王国の旗竿を手に持って、それを誇示するように高々と掲げて、ゆっくりと馬を歩ませていた。その姿に、ジャンはとある絵画を思い起こした。そして、彼女がやってくるのを待っていたかのように、靄の向こうに太陽が顔を出し、日光は水蒸気に反射してキラキラときらめきながら、一筋の光となって地上に降り立った。ちょうど、その陽の光を、イザベルが背に受ける形になって、まるで後光が差しているかのような印象を彼らに与えた。ただそれだけなら、偶然にもそういうことは起きるだろう。しかし、朝日を受けた彼女の体は、虹のような光の輪に何重にも包まれていて、それが、この世のものとは思えないような神秘さで、神々しささえ伴ってもいるようで、その姿に、彼らは大きな衝撃と感動を覚えた。

 守護者の啓示を受けたというのは本当なのかもしれない……。ジャンのみならず、誰もがそんな風に思った。

「お待たせしました。参りましょうか」

 イザベルは凛とした様子で言った。体はまだ万全ではないはずだが、気力は十分なようだった。

 ジャンは頷き、背後を振り向いて静かな声で言った。

「あまり音を立てるな。静かに川を渡れ。では、進め」

 彼等はパシャパシャと小さな水音を上げて川を渡り、やはり音に注意しながら草原を進んだ。空は徐々に晴れつつあるが、靄はまだ煙のように厚ぼったく、数メートル先の仲間の姿がかろうじてわかる程度だ。その水蒸気のカーテンは、本当の出番はまだ先だぞとばかりに、目覚めたばかりの太陽を覆い隠して、草原を進む人間たちの姿を包み込んでいた。

 ローヌ川からボトワーズの中間点付近まで来ると、靄も次第に薄れてきて、うっすらと陽光しが差し込んで、物見やぐらがぼんやりと見えるようになってきた。すると、監視の兵がこちらの存在に気が付いたらしく、ほら貝の音が靄を切り裂くように響き渡った。じきに、敵兵が町から雪崩を打って出てくることだろう。

「体制が整わないうちに仕掛けるぞ!」

 ジャンが声を上げ、馬に拍車をかけた。兵士たちもそれに従い、どどどどっと地響きが上がった。

 町の姿がはっきりと見えるところまで来たところで、敵兵がわらわらと飛び出してきて、彼らを迎え撃とうと隊列を組み始めた。そこに、ジャンの率いる軍団が突撃した。まだ体制の整っていない敵軍は脆く、彼らは剣に裂かれまたは突かれて倒れていった。が、時間の経過に伴い、増援を受けて次第に敵軍も勢力を盛り返し、戦いは徐々に膠着状態に遷移した。やがて、増援に次ぐ増援で膨れ上がったブリトン軍は、次第にゴール軍を押し返して、情勢は彼らの優勢となった。すると、それを機敏に察したのか、イザベルが、旗竿を高々と掲げて、敵軍と友軍の間を縫うように、味方を鼓舞するような声を上げて走り回った。いたいけな少女が、自らの命も顧みず、勝利を求めて戦場を駆け巡るのは、友軍諸士としては奮い立たないわけはなく、また、彼らの中に、開戦前に見た、光に包まれた彼女の神秘的な姿が思い出されて、その士気は大いに盛り上がった。

 その甲斐もあって、旗色はゴール軍へと徐々に傾き始めた。ブリトンの兵士たちは、その変化にすぐに気がついて、いったいなにが起こっているのかと、訝って辺りを見回した。そして、その原因が、戦場を駆け巡って、なにやら得体の知れない力を、仲間に与えて回っている少女だとわかると、彼女を放っておくわけにもいかず、彼らはその少女に切りかかり、或いは射倒そうと矢を浴びせかけた。

 ジャンは声を上げた。

「イザベルを護れ! 彼女を死なせるな!」

 指揮官の、発奮を促す声に部下たちは気力が高ぶって、彼らはアドレナリンを上昇させた。彼らにとって、今やイザベルは、戦の女神であり、守るべき存在であった。兵士たちは勇猛果敢に戦い、敵兵をなぎ倒していった。一人、二人と敵は倒れ、やがて、隊列の一部に綻びが生まれた。

 ジャンは軍の一部をその場に留めて敵軍にあたらせ、自らは残りを率いてその綻びへと飛び込んで、行く手を阻もうと立ちはだかる敵兵を薙ぎ倒しつつ、町へと続く唯一の道を突破してニースへと雪崩れ込んだ。敵軍は、外の友軍へと増援を重ねたため、町を護る兵はほとんど残っていなかった。が、それでも彼らは、ニースを奪われてはなるものかと、必死の抵抗を見せた。しかし、町の住民たちが、この機とばかりに、鍬や鋤やなた等を持って襲い掛かってくるので、多勢に無勢ではもはや抵抗も虚しと、彼らは町から逃げ出した。その様子を見て、外で戦っていたブリトン軍の兵士たちも、敗戦と認めて武器を捨て、或いは鞘に納めて逃走を始めた。

「深追いはするな!」

 ジャンは命じた。目的はニースを取り戻すことであって、敵を駆逐することではない。いまはこの町を支配下に置き、国都奪還の足固めとするべく、体制を整えるべきだ。部下たちは、追い立てるように声を上げて威嚇こそすれ、ジャンの指示に従って、追撃することはせずその場に留まった。やがて、ブリトン軍が姿を消すと、ゴール軍は勝どきを上げた。それに呼応して、ニースの町からも歓喜の声が上がった。それは波のように広がって、町全体を広く覆い尽くした。

 ついに、ゴール軍はニースを取り戻した。町民は、泣いて笑って飛び跳ねて、或いは兵士に抱き付くなどして、戦勝を喜び、そして感謝した。彼らにとって、文化も風習も異なるブリトンの支配は苦しみでしかなく、統治者が元に戻ることは、ゴールの民であるとの矜持もあって、念願叶っての事なのだ。

「兄上!」

 ほどなくして、ポールが轡を並べた。顔には玉のような汗を掻き、熱い息を繰り返している。彼は続けて言った。

「やりましたね! ついに!」

「ああ。まるで奇跡を見ているようだ」

「奇跡なんかじゃありませんよ! これは現実です!」

 ポールはそう言って破顔した。

「そうだな。夢ならとうに冷めている頃だな」とジャンは笑顔で応じて、弟の肩を叩いた。

 ポールの隣にロジェが並んで、馬鹿にしたような笑みを湛えて言った。

「来るときもそうだったが、去るときはもっと速かったな」

「逃げるが勝ちという言葉もある。連中の勢力はまだまだこちらより大きい。いつでも取り返せると考えているのだろう」

 ジャンは互いに肩を叩いたり、抱き合ったりして開放を喜んでいる兵士や町民たちを眺めながら言った。彼は続けて言った。

「それはそうと、イザベルはどうした? まさか……?」

「いえ、あそこにいますよ」

 ポールが答えて、目線でその場所を示した。

 イザベルは、厩舎に馬を繋ぎ、馬に飼い葉を遣っていた。良く働いたのだろう。馬はもしゃもしゃと干し草を頬張っていた。

 ジャンは柔らかに微笑んで「それでは、俺たちもこいつを休ませてやるか」と愛馬の首筋をぽんぽんと叩いた。馬はひひんと嘶いた。

 三人は厩舎に馬を繋いだ。馬たちは尻尾を振りながら、首を垂れて飼い葉に鼻を突っ込んだ。ポールが町人に新鮮な水を用意させ、人間たちはそれでのどを潤して、残った水を水桶に注いだ。馬たちが喉を鳴らして水を飲んだ。

「怪我はなさそうだな」

 ジャンが、白馬の背にブラシをかけているイザベルを、頭の先からつま先までを眺めて言った。

「ええ。私には守護者様のご加護がありますから」

 イザベルは手を止め、振り向いて答えた。甲冑には所々に引っ掻いたような傷が見えるが、生身の部分には、そういった痕跡は見られない。表情も平然としており、本当に守護者の加護のお蔭なのだろうと、そう思えてくる。それはジャンだけでなく、兵士たちも同様なようで、彼等はイザベルに畏敬の念を持った眼差しを向けて、会釈をしては去っていく。そして彼女はただ、それに奢ることなく、いつもの少女らしい様子で頷き返した。

「確かに、そうらしいな」ジャンは、兵士とイザベルのそんなやり取りを眺めてから、彼女に視線を戻して続けた。「ともかく、劣勢にあった戦況を打開できたのは、お前のおかげだ。感謝する」

 ジャンは頭を下げた。ポールとロジェもそれに習う。

「いえ、礼には及びません。私は使命を果たしたまでです。ただ、私の真の使命は国都の奪還です。それがまだです。いつ出発しますか?」

「兵には休息が必要だ。それに、我々が去ってしまっては、この町を守る者がいなくなってしまう。落ち着いたらリエージュに人をやって、守備隊を送るよう手配する。守備隊が来たら、町の防衛は彼らに任せて、我々は進軍する。それまでは、お前も休むといい。その馬もな」

 馬たちがいつもより長く嘶いた。

「ええ、そうですね」イザベルは愛馬の首を叩き「そうします」と笑みを浮かべた。

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