憂国の薔薇

藤吉郎

1

 ジャン・カルネは、ローヌ川の畔に立って、対岸の向こうに見える、ニースの町を見つめていた。町にはそれを囲む城壁はないが、ぐるりと周囲に掘りが巡らされ、侵入者を阻むべく、剣山のような木製の杭が、空に向かっていくつも伸びていた。町へと入る道は一本しかなく、物見櫓には兵が常駐し、常時辺りを監視している為、町に近づくのも容易ではない。これまでも、何度か侵入を試みてはきたものの、ことごとく失敗していた。

「簡単に落とせると思ったんだが、敵もやるものだな」

 ロジェ・シャノワーヌはそう言って、カシャカシャと甲冑の擦れあう音をさせて歩いてくると、ジャンの隣に並んで腕を組んだ。

「まったくだな」ジャンは苦々しげにそう答えた。そして、眉間に小さな皺を作って続けた。「小さな町だからと見くびっていたわけではないが、なかなか有能な指揮官がいるようだ。おかげで手こずる羽目になった」

「それは向こうも同じだろう。うちの指揮官も優秀だからな」

 ロジェが茶化すように言う。

「部下が優秀だからさ」

 ジャンはそう言って、隣の親友を見つめた。

 ロジェはジャンより二つ年上で、辺境伯であるカルネ家に古くから仕える、由緒ある家柄の出身だ。彼は、現在の領主であるジャンから見れば臣下ではあるが、幼馴染ということもあって、なにかと気兼ねなく接することのできる間柄だった。ジャンにとって、親友であると同時に、良き理解者でもあった。

「どんなに道具が良くても、それを使う者がぼんくらでは、宝の持ち腐れと言うものだ。それを、お前はうまく使いこなしているのだから、やはり、お前は優秀だと言うことさ」

「褒めてくれるのはうれしいが、もう少し、軍事の才能があったらと思うよ」とジャンはため息を漏らす。

「奴らも必死だ。簡単にはいかないさ。首がかかっているんだろうからな」

 ロジェはそう励まして、親友の肩を叩いた。

 と、その時、ひゅん、と空気を割く音がして、次いで、ドスン、と地面を叩くような音がした。

 ジャンはその音の方を見た。一メートルほど離れた地面に、矢が一本刺さっていた。射殺してやろうと敵が放ったのだろう。残念ながらその目論見は外れたが。

 しかし、暫くすると、その土の中からミミズが慌てたように這い出てきて、のたうち転げまわったのち、丸くなって死んでしまった。矢の刺さった周辺の地面は黒く変色し、雑草も枯れて緑を失っていた。

「あいつら!」ロジェはそう叫びながら「下がるんだ。ジャン!」とジャンの腕を引いて数歩、後退して「矢に毒を仕込んだな! 卑劣な連中め!」と唾棄して罵った。

「それだけ、焦っているという証拠だろう。こんな手しか思いつかんのだからな」

「しかし、お前になにかあっては問題だ。兵たちの士気にかかわる」

「その時はお前が指揮を執れ。お前なら誰も文句は言うまい。万が一の時は、メニエ要塞に逃げ込めばいい。あそこなら、何年でも連中を足止めできる。その間に、体制を立て直せばいい」

「おい、おい。逃げ込むなんてごめんだぞ。だいたい、お前だって、そんなこと考えたこともないだろう? それにだ、滅多なことは言うもんじゃないぞ。死神が寄ってきてしまうからな」

 ジャンは軽快に笑って「死神か。それはいいな。しかし、お前が追い払ってくれるだろう?」

「もちろんだ。死神だろうが、なんだろうがな」

「うむ。それなら安心だ」ジャンは頷いた。「が、あくまで、私が言ったのは、万が一の場合だよ。さて、戻るか」

 ジャンとロジェはくるりと向き直る。そしてその背中で、ローヌ川とニースの町に後々の再会を約束して、その場を後にした。

 ローヌ川から十分に離れた場所に、一本の大樹があり、その木の幹に、馬が二頭、繋がれていた。二頭は長い首を垂れて、柔らかな緑の草を食んでいる。ジャンとロジェは手綱を外して馬に飛び乗った。食事を打ち切らざるを得なくなったからか、愛馬は少しばかり不満げな様子を見せたが、主の命令では仕方がない。彼らは最後に一食み、二食みと草を頬張ると、もごもごと咀嚼をしつつ、ボトワーズへと歩みを進めた。

 マルセル平原は、カンパイユ子爵領から辺境伯領へと至る領域にあり、ローヌ川は、子爵領と辺境伯領の領境として、平原を南北に分断するように流れていた。ニースとボトワーズはその平原の中にあって、ニースはカンパイユ子爵領の最東端にあり、現在はブリトン王国の支配下にあった。そして、ニースを睨むローヌ川の対岸にボトワーズがあり、そこは辺境伯領の最西端に位置し、現状はまだ、ゴール王国の領土であった。

「それで、状況は?」

 道中、馬上から、遠くに見えるボトワーズの町並みを眺めながらジャンが聞いた。昨日、ゴール軍との間で、小規模ながらも戦闘が起きていた。

「怪我を負った者が数名。いずれも命に別状はない。今、治療を受けさせている。大きな戦力の減少には繋がらないだろう」

「そうか」ジャンは頷いた。「城壁を強化しておいて、正解だったな」

 ボトワーズには、木製ではあるが、しっかりとした構造の城壁が巡らせてある。城壁と言うよりは柵に近いが、それでもないよりはましだ。それが、町と兵士たちを守るのに役立った。

「町民たちのおかげだ。彼らの協力がなければ、今回は危うかったろう。人徳だな」

「そんなものは些末なことでしかない」ジャンは首を振る。「彼らにとっては、自分たちの町を守るのが当然のことだろうから」

「まあ、そりゃそうだろうがね」とロジェは肩をすくめて「今度の戦闘で一部壊れたところについては、修理に当たらせている」

 ジャンは、わかった、というように頷いて「それが済んだら、彼らには十分に礼を取らせてやってくれ。これからもよろしく、とな」

「わかっているさ。万事任せてくれ」ロジェはジャンへ頷いて、ボトワーズへ視線を戻して続けた。「それにしても、連中はいったいどこまでやるつもりなんだ? とうに公爵領は支配下においているのに」

 この戦争は、その公爵領を巡る、ゴール王国とブリトン王国との領有権争いが発端だ。始まりは、三百年以上も前に遡る。当時、ブリトン王国は蛮族(ヴォルガ人)の侵略を受けており、国家存亡の危機にあった。そこで、ブリトン王国は、隣国であるゴール王国に助けを求めた。ゴール王国は、喜んでそれを受け、マクシミアン公爵を派遣して、公爵は見事蛮族を退けた。ところが、事はそれでは終わらなかった。その混乱に乗じて、公爵はブリトン王国を乗っ取り、自らが王位に就いたのだ。これは、そもそも、ゴール王国の策略でもあったのだが、彼はゴール王国の臣下だから、ゴール王国に臣従したまま即位する形となって、彼が有していた公爵領も、王になったあとも領有し続けた。彼はゴール王国の臣下だから、領有を続けることは問題とされなかったのだ。

 それから数年の間、ブリトン王国には平和が訪れていた。しかし、その平和は、ブリトン王国の正当な支配者によるものではなく、隣国の一臣下によって奪われた、偽りの支配だったから、その状況をよしとするはずもなく、それをかつての国王一派が看過するわけがなかった。彼らは密かに人を集め、力を蓄えた。そしてすべての準備が整い、時が満ちたとき、彼らは現国王に反旗を翻すと、国王を倒し、王座を取り戻した。ところが、それで元通り、というわけにはいかなかった。新国王は、ゴール王国にある公爵領は、前国王が領有していたのだから、今後も自分たちが領有すべきだと言い出した。一方で、ゴール王国からしてみれば、公爵領は、もともと臣下である公爵が領有していたのだから、自明のこととして、自分たちに帰属するべきだと主張した。こうなると、当然、両者共引き下がるはずもなく、それは両国の間で、公爵領の領有を巡る対立へと発展した。

「遺恨もあるからな。今度はこっちがやり返してやろう、そんな風に考えているのだろう。こちらだって、このままでは国が滅びてしまう。引くにも引けんさ」

「どちらかが倒れるまで続くってことか」

 ため息交じりに、やりきれないと言う様子でロジェは言った。

 両国の対立は、当初、国境を挟んで睨み合うのが常で、時にちょっとした小競り合いが起きる程度だった。しかし、是が非でも公爵領を手に入れたいブリトン王国は、突然、国境を越えてゴール王国への侵攻を開始し、公爵領をその手中に収めると、それだけには飽きたらず、積年の恨みを果たそうとでもいうかのように、次々と、ゴール王国の各領国へと兵馬を進め、支配下に組み込んで行った。国都もまた、ブリトン王国に蹂躙されることとなり、国王一派は間一髪のところで逃げ出して、その後、唯一、侵略を免れた辺境伯領へと逃れ、今に至っている。

「そうかもな」

 ジャンもまた、嘆息して、同意した。

 そこに、ボトワーズの方から、馬が駆けてくるのが見えた。少し急いでいる様子だ。騎手は彼らの直前で馬を急停止させると、手綱を引いて横に向きを変えさせた。

「兄上」

 男性が言った。

「ポールか。どうした?」

 ジャンが応じた。彼はジャンの二番目の弟だ。まだ二十歳を迎えていない若者で、長兄に比べてもまだまだ体の線は細い。今後、彼が立派な大人へと成長するためにも、様々な経験を積み重ねていく必要があるだろう。そんなわけもあって、ジャンに帯同してこうして前線に出ていた。

「国王陛下からの使者が来ています」

「陛下から? 使者が?」

「なにか重要な用のようですよ」

「そうか。わかった」

 ジャンは馬の脇腹を踵で蹴った。馬は腹ごなしとばかりに駆け足で走り始めた。三人は横一列に並んで、ボトワーズへと向かった。


 ボトワーズの西門の近くに、立派な佇まいの館があり、ジャンはその二階に陣を張っていた。元々は、町のとある有力者の居館であったが、事態が事態であるからと言うことで、その人物は別の場所に移って、彼らのために、自らの屋敷を提供したのだ。

 ジャンとロジェ、そしてポールの三人は、階段を上って二階へと上がった。廊下を進み、突き当りの扉を開いて中へと入る。そこは元々、書斎として使われていた部屋で、現在は作戦室として利用されていた。中央には大きめのテーブルがあり、その左手と奥に格子窓があって、窓の向うに、城壁と家々の屋根と、遠く霞むようにニースの街並みが見える。右手には書棚と扉があり、扉からはベランダに出ることができた。部屋には既に彼の配下が集まっていて、テーブルを囲んで並んで立っていた。ジャンはぐるりと奥へと回って、彼らと同じようにテーブルを前に立った。ロジェとポールがそれぞれ隣に並んだ。

 テーブルを挟んだ反対側に使者が立っており、その隣に、見慣れぬ少女が立っていた。年のころはジャンより少し若く、おそらくは十代の後半くらいだろう。彼女は地味な色合いのフード付きコートにズボンをはいており、一見すると少年の様にも見えるが、その体つきはもっと小柄で細く、茶色の頭髪は肩まであって、卵型の顔に浮かぶそれぞれのパーツは、男というよりはやはり女のそれに違いなく、目の下にはそばかすが乗っていて、なんともあどけなく素朴な様子は、どこか田舎の小娘を思わせた。ここは戦いに明け暮れる男どもの巣窟のような場所であり、女子供の来るような所ではないから、どういうことかとジャンは配下の面々を眺めた。しかし彼らは、わからない、というように肩をすくめただけだった。

 少女が、じっと、ジャンを見つめてきた。その視線は、見た目の印象とは異なり、とても力強いものだった。ジャンは思わず、その瞳に引き込まれそうになった。

「カルネ卿?」

 使者に呼びかけられて、ジャンははっとして我に返った。

「ああ、これは申し訳ない」

「お疲れなのでは?」

「いや、問題ない。心配には及ばん。それで、どのような用向きかな?」

「国王陛下からの親書をお持ち致しました」

 ポールが歩いていって親書を受け取り、それをジャンに渡す。ジャンは封蝋を切って封を開け、紙面に書かれた文字に目を這わせた。彼は読み終わると眉間にしわを寄せ、少女に目を向けた。彼女は落ち着いた様子で、じっと前を見つめている。

「陛下はなんと?」

 ロジェが言った。ジャンはロジェに手紙を渡す。彼はそれを読み、最後にはやはり同じように表情を歪めた。

 ジャンが口を開いた。

「そこの少女の指揮下に入り、国都を奪還せよとのご命令だ」

 部下たちにざわざわとどよめきが広がる。部下の一人が言った。

「その小娘……」と彼は言いかけて、咳払いをして言い直す。「少女の指揮下に入る? 本当にそう書いてあるんですか?」

「読み間違いでなければな」

「国都奪還についてはもとより承知のことですが、彼女の指揮下に入るとは、いったい、どういうわけです?」

「それには私が答えましょう」

 使者が質問を引き取った。そして彼は、事の顛末を説明した。

 話が終えると、ジャンは言った。

「つまり、守護者が彼女の前に現れて、我々を率いて国都を奪還せよと、そう命じたと?」

「その通りです」

 ジャンは、ふうっと小さく息を吐き出した。

「陛下は、それを信じているのか?」

「聖職者たちが、それは真実であると認定したのです。信じない理由はありません」

 ジャンの部下が異を唱える。

「もとよりわれら、王国には忠誠を誓っているが、だからと言って、そのような、あいまいな理由で命を懸けるわけにはいかない」

「ごもっともでしょうな」使者は、さもありなんと頷く。「ですが、これは陛下のご命令です。王命とあれば、従っていただくほかありますまい」

 部下はキュッと口を引き絞った。誰もが、国王の命令とあれば、それを拒否することなどできようもないことはわかっている。が、自分たちの命を、素性もよく分からない少女に預けるというのは、納得できようもない事だった。

「わかった」ジャンは部下たちの顔を眺めつつ言った。彼らの気持ちはもちろん理解しているが、臣下としては、王の命には従わなねばならない。「謹んでお受けしよう。その旨、国王陛下にお伝えしてくれ」

「わかりました。お伝えしましょう。では、私はこれで」

 使者は丁寧にお辞儀をすると、急ぐように部屋を出ていった。

 同時に、ジャンはこの場を解散させて、部屋にはロジェとポールと、そして少女が残った。

「ポール」ジャンは横を向いて言った。「彼女に部屋を用意してやってくれ」

「わかりました」

 ポールは頷いて、ついてくるようにと少女に促した。すると、彼女が言った。

「私はあなたと共にいなけれなばなりません」

「共に? それも守護者の啓示とやらにあったのか?」

「はい。私は、あなたを助けねばならない定めにあります。ですから、常にそばにいなくてはなりません」

 ジャンが視線を感じてその出所を辿ると、ロジェがニヤニヤと笑みを浮かべていた。ジャンは眉を吊り上げて見せてから、少女に言った。

「とはいえ、寝床まで共にせよとは言ってはいないだろう。違うか?」

「はい。その通りです」

「ならばせめて、部屋は近くに用意させよう。それで構わんな?」

「はい。構いません」

 少女は頷いて、ポールとともに部屋を出て行った。ジャンは安堵してそっとため息をついた。彼はまた視線を感じたが、相手は一人しかいない。彼は言った。

「他にすることはないのか?」

「そうだな。ないこともないから、出ていくよ」

 ロジェはニヤリと笑ったまま言って、部屋を出て行った。一人残ったジャンは、やれやれと、今度は盛大にため息をついた。

 その夜、ジャンとロジェ、そしてポールの三人は、作戦室のテーブルを囲んで地図を見下ろしていた。今後の方針について検討するためだ。現在、国都を含め、辺境伯領以外は全て、ブリトン王国の支配下にある。そのような中で、どのようにすれば、国都の奪還を成功し得るのか……。極めて難問で、極めて困難な状況だ。

「国都は遠い。そこに至るまでに、いくつもの町を落とさねばならない。なにか情報は?」

 ジャンが言った。

 ロジェが答えた。

「どの町も、ニースほど防御は固くないだろう。もう少し兵の数があれば、攻略も楽になるんだが、今の数でなんとかするしかあるまい」

 ゴール王国の各領主は、その首根っこを押さえつけれらており、そのため動員できる部隊も辺境伯のものしかなく、彼らが使える手駒の数は多くはない。

「兵に関しては、進軍の途中で募ることもできるだろう。解放に成功すれば、周辺からも兵が集まってくるかもしれない」

「ですが、その前に、まずはニースを落とす必要があります」

 ポールはそう言って、地図上のニースの辺りを指さした。彼らは今、対岸のボトワーズにいる。国都を目指すには、川を越え、まずはニースを落とすことが肝要なのだが、その攻略に苦慮しているのが現状だ。

「それができていれば苦労はないのだがな」ロジェが苦笑交じりに言った。「本当に、あの娘にできると思うか?」

「どうかな。軍事的才能があるようには思えんが……。いずれにせよ、命令は命令だ。なんとかせねばなるまい」

 彼女が受けたという啓示が真実だと言うのなら、その通りに国都を奪還できるかもしれない。しかし、彼はそれほど信心深くはないし、前線にあって、現実を目の当たりにしていると、とてもそのような不確かにものに頼る気にはなれない。だから彼らはただ、己の力を信じて進むしかない。ジャンは腕を組んで、地図を睨んだ。

 そこに、部屋を訪れる者があった。

「入れ」

 ジャンがノックに答えた。が、ためらっているのか、その人物は入ってこようとしない。ジャンがポールに合図を送ると、彼は歩いて行ってドアを開けた。あの少女が立っていた。

「なにか用か?」

「ピエールと言う人から、手紙を預かっています。あなたに渡すようにと」

「ピエールから?」

 ピエールはジャンの一番上の弟だ。彼は領主代行を任されており、国都から領都リエージュへと逃れてきた国王を補佐する役目も担っていた。

「さて、夜も遅いし、俺はもう寝るとするよ」

 ロジェはそう言って、部屋の出口へと向かった。気を利かせているのだ。

 ロジェが廊下に姿を消すと、ジャンは言った。

「いつまでそんなところに突っ立っているつもりだ?」

 中へ入るよう、ポールが少女に促した。まだ落ち着かないのか、彼女は左右を見回しながら、おっかなびっくりと言った様子で入ってきた。

「それで、手紙と言うのはどれかな?」

 言い方が良くなかったのかと思ったジャンは、できるだけ優しく聞こえるように言った。それが効果があったのか、彼女は安心したような顔になって手紙を差し出した。

 ピエールは手紙を受け取り、ジャンに渡す。封を切り、紙面に目を這わせて、彼はなんとも言えない表情を浮かべた。

「兄さんはなんて?」

 ポールが手紙を見ようと首を伸ばして言った。ジャンは手紙をポールに渡す。彼は手紙を読んで、懐かしさに顔をほころばせた。

「たしかに、そんなことがあったね」

「ああ」ジャンは表情を歪めた。懐かしさよりは、訝しげな思いの方が強かった。「今の今まで忘れていたよ」

「でも、それが本当のことだとすると、今度の件も、納得がいくね」

「信じられんな」

 ジャンは顔をしかめて首を振る。とても信じられなかった。しかし、彼女が聞いたという啓示と、手紙に書かれた内容は、それらが密接に繋がっていることを示していた。彼は少女を見つめた。少女は、怪訝な眼差しでジャンを見つめ返した。

「そう言えば、まだ名前を聞いていなかったな」

「イザベル。イザベル・シモンと言います」

「イザベルか。良い名だ」ジャンはそう言って頷いた。お世辞ではなく、本当にそう思っていた。彼は続けて言った。「さて、今日はもう遅い。部屋に戻って眠るといい。明日からは、忙しくなるからな」

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