俳優ゲオルゲ
阿部善
俳優ゲオルゲ-本文
ザクセンハウゼンの強制収容所。嘗てはナチス政権の手によってユダヤ人や共産党員などの政治犯が収容されていた場所だ。今では、ここを使っているのはソ連だ。嘗て使われた用途とは逆に、ナチスの政治犯を収容する為に。
そこにポツリとある小屋。ここでとある政治犯に対し、ソ連の将校によるナチスの政治犯への尋問が行われていた。彼の名はハインリヒ・ゲオルゲ。ワイマール共和国時代から、第二次世界大戦に至るまで、ドイツの映画界で活躍した名優である。
尋問は机を挟んで行われた。一方にゲオルゲ、もう一方にはソ連の将校と、戦前にドイツからソ連へと亡命した通訳が。その通訳とゲオルゲ、嘗て二人は同志だった。同じドイツ共産党員として……。
〈あなたは嘗て、共産党員だったそうですが、何故ナチス支持へ転向したのですか?〉
ソ連の将校がロシア語で聞き出し、隣にいる通訳がドイツ語に直す。
ゲオルゲはワイマール共和国時代、共産党員として知られていたが、ナチスが政権を獲得するや否や、ナチス支持に転向し、一般的にはナチズムの強烈な支持者として知られていた。しかし、その『転向』は実際の所、本心からのものでは無かった。
心の底では、ナチス政権時代、ずっと共産党員のままだった。コンラート・ファイト、ピーター・ローレ、マレーネ・ディートリッヒなど、数々の映画人がアメリカなどへ亡命していった時期も、ナチス支持を表明しドイツに留まったのだが、それは英語もロシア語も碌に話せないゲオルゲにとって、亡命は俳優としての生命を絶つことを意味していたからだ。誰よりも強烈な支持者として振る舞わなければいけなかったのも、それは共産党員としての過去があった為だ。しかし――
「それは……。私の心が……弱かったから惑わされたのです」
ゲオルゲはこう答えた。通訳はそれを将校に伝える。
幾ら本心では無いとは言え、最早言い逃れは不可能だった。ゲッベルスお気に入りの俳優として、『ヒトラー少年クヴェックス』、『ユダヤ人ジュース』、『コルベルク』などの露骨なプロパガンダ映画に出演し、大衆扇動に加担してきたのは紛れもない事実なのだから。
〈弱かった? 惑わされた? 確固たる意思が無いまま、流されるまま奴等を支持した。そうお考えですか。その前は共産党員として、あからさまに奴等を口汚く罵っていたのに?〉
ソ連の将校は問いただす。通訳はドイツ語でゲオルゲに伝える。
ゲオルゲは何も反論ができない。俳優生命を絶たない為の転向する素振りだった、それが真相ではあるが、そう言っても無駄だ。そう言えば『自分の信条を投げ打ってでも、俳優を続けたかったのですか?』などという返事が返ってくるだけであることは明白だったからだ。そして実際、その通りだった。自分の主義主張を投げ打ってまで、俳優という職業、更にはナチスから与えられた『国家俳優』という特権的地位に恋々としがみつく小物でしか無かったのである。
「私は、確固たる意思を以て、ナチス支持へと転向いたしました。その事実に、間違いはありません」
こう言う他に無かった。
〈矢張りそうだったようですね! ではさっきの言い訳は何だったんでしょうか? 答えよ、答えなさいよ!〉
将校は激高して机を叩く。御丁寧にも、通訳は逐一それをドイツ語へ訳していく。ゲオルゲは将校からの圧迫に耐えきれなかった。
「私は罪を全面的に認めます。二度と俳優の仕事に就くこともありません。だから……」
通訳が言葉を伝えると、将校は更に激高して、ゲオルゲを怒鳴りつける。
〈だから何だって言うんだ? まだ苦しい言い訳をする気か? いい加減にしろよ、貴様。貴様はナチスの強烈な支持者として数々のプロパガンダ映画に出演し、政権から与えられた特権的地位を享受した。その事実に何ら変わりは無いのだよ。グズグズグズグズ言い訳を続けて、本当に図々しい奴だ〉
もう何も返す言葉は無い。この後も暫く尋問は続いたが、ただ将校の言葉に「はい」と答えるばかりで、意味のある言葉は何も言わなかった。尋問の後、ゲオルゲは独房へと収監された。
独房の中で、ゲオルゲはふと、仮定の話を思い浮かべた。もし、あの時、共産党員としての信条に殉じ、俳優としての生命を絶っていたら……。ナチスの犠牲者として、人々から称えられていたかも知れない。しかし、今やナチズムの殉教者だ。ワイマール共和国時代に得た名誉や名声までも、ナチスの強烈な支持者として振る舞ったことによって穢されてしまった。後世の人々は、自分に対して最悪の評価を下すことになるだろう――
収容所の中で、彼は生きる希望も、意義も、何もかも見出せなくなった。精神的にも、肉体的にも衰弱していった。彼は栄養失調で、五十二歳で短い生涯に幕を閉じる。その死は、実に呆気なかった。
俳優ゲオルゲ 阿部善 @Zen_ABE
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