第8話 カルトロジック その2
わたしとその友達とは一時期、野球に熱中していた時期がありました。休み時間はプロ野球の話題が占めるようになり、また贔屓の球団を持つというだけでなく(ちなみにわたしはG党でした)、地元の少年野球チームに加入する友人も後を絶ちませんでした。尤も、わたしは週末には礼拝がありましたので指をくわえて話を聞いているだけでしたが。
ちょうど、わたしたちの通っていた小学校の近くには、広いグラウンドを有した公園がありましたから、放課後になると、わたしたちは毎日のようにグローブを持って集まり、日が暮れるまでキャッチボールや簡単な試合などをして遊んだものでした。
Fとの衝突が起こったのはその公園でした。
あのきっかけはなんだったのでしょう。わたしは幼稚園からの友だちであるAと下校する途中でした。少し、公園に寄って遊んでいこうという話になったのだと思います。わたしたちがランドセルを適当な遊具の上に残し、気の向くままに喋ったり、うんていを行き来したりしていると、あの仇敵Fが公園の入り口に現れたのです。
Fはその友人であるUを連れていました。お互いの存在には、すぐに気づいたと思います。しかし、Fは因縁のあるわたしをあえて避けようとはせず、友人と堂々公園の中に乗り込んできたのでした。
また、何か起こるかもしれない――緊張に身をこわばらせていると案の定です。Fは牙をむいてきました。ただ、その相手がわたしではなくAの方だったのは少し意外でしたが。
――おい、ねずみ。
ねずみというのは、Aの蔑称でした。その由来はあえて説明する必要もないほど単純なものです。彼は幼稚園から四年生の当時に至るまで、クラス替えなどで人間関係がリセットされるたびにその蔑称を授けられる宿命でした。
――なんか返事しいや、ねずみ。
ねずみ――Fはそれを、まるで本物のねずみにでも相対したような嫌悪感を持って呼ぶのでした。
――なんやねん。
Aが云いました。このときはまだ、彼特有のにこやかな笑みを浮かべていたと思います。
――鬱陶しいからこっち来んといて。
――云われなくても、行かへんわ。
――じゃあ、公園からも出てって。
――なんでやねん。こっちの方が最初におったのに。
――Uちゃん、ねずみがなんか鬱陶しいこと云ってるで。どうする?
どうする、と問いかけつつもFの中ではすでに答えが決まっているようでした。答え、それは手近な石を拾いそれをAに投じることでした。
――痛っ。なにすんねん。
石はわたしの方にも飛んできましたが、その多くはAを狙ったものでした。
――痛っ。アホ! 暴力女!
Aは叫びました。しかし、その声に真剣味が感じられないのがAの悲しさでした。これでは相手の嗜虐心に火を注ぐようなものです。それがために彼はこれまで幾度となく嘲笑を浴びせられてきたことをわたしは知っていました。
――出てけや。ねずみ。
Aは遊具の影に隠れようとしましたが、Fはそれをしつこく追い回し石を投じるのでした。Uさんはそれをただ見てるだけです。彼女のために一応の弁護をしておくと、あまり面白そうには見えませんでした。一方のわたしは――遅ればせながら、Fを止めるべく駆け出しました。
決定的な瞬間はそれからすぐに訪れました。
――痛っ!
Aのひときわ大きな声が公園に響きました。わたしはただならぬ予感を感じ、ぞっとするような思いで現場に駆けつけました。すると、ドーム状の遊具の影にAが顔を抑えてうずくまっているのが見えました。
――顔に当てんなや……
そう弱々しくつぶやくA。その声にはさすがにそれなりの悲壮感がこもっていました。わたしはその声もよく知っていました。Aを面白がっていじめる者も、この声を聞くと急にげんなりとして手を緩めるのが常でした。それほどまでに実感のこもった声だったのです。
そして、Fもその例外ではありませんでした。
石をぶつけたFはAから少し離れたところに立ち尽くしており、その表情までは伺えませんが、両手に石を握り締めたままでいるところを見ると少し呆然としているようでした。自分の振るった暴力が思った以上の破壊をもたらしたとき、このような反応を示すものです。
しかし、それで許されるほど世の中は甘くありません。少なくとも、わたしは彼女を許すつもりがありませんでした。わたしはずかずかと彼女に近づくと、その正面に回り頬を張りました。「うっ」という声。両手に握られていた石がばらばらと地面に落ちる音。わたしは反撃の隙を与えず、みぞおちに蹴りを入れました。女子供への容赦は、ついぞわたしには芽生えなかった発想の一つでした。暴力を行使する以上は徹底的に、相手が反省なり謝罪の意を示すまで手を緩めてはならない。それがわたしの主義だったのです。
――謝れ。
――なんやねん。そこまでせんでも……
とうもろこしの房のような髪が揺れていました。それがまるでわたしに引っ張ってくれと云っているようでしたので、その通りにしました。
――謝れ、ブタ。
わたしは単に、友達に対して行使された暴力への怒りや、正義感のために動いていたわけではないと思います。自分より弱いものを蹂躙する快楽は誰をも陶酔させるものです。
そうしているとやって来たのがUでした。遅まきながら事態の深刻さに気づいたのか、彼女はわたしとFを引き離すと、こちらをきっとにらみつけ、
――最低。
などとののしりながら、公園を後にしていくのでした。自分は見ているだけだったくせに――わたしは、そう云いたいのをこらえて、Aの元に向かいました。結局、Fの謝罪が聞けなかったことにわたしは強い不満を覚えました。Aは泣いているというのに、Fは犬にでも噛まれたような顔で去っていく。それがひどく不条理に思えました。
先生から呼び出しを受けたのは翌日のことでした。Fと、それにわたしは教室前方の教卓に集められ、昨日の喧嘩について詳しい事情の説明を求められました。
――話を聞こか。
やがて双方の主張が終わると、S先生はFにお説教を始めました。やはり、自分は正しかった。その満足感、勝利者の愉悦が胸を満たしました。S先生はやはり事情の解る大人だったのだと、これまでの教師とは違うのだとそう思ったのです。教師への信頼が芽生えるとすればこのタイミングでした。しかし、それはまったくのぬか喜びだったのです。
Fへの注意が終わると、S先生はわたしに向き直り、あろうことかお説教を始めたのです。これが報復の苛烈さを咎める程度なら、わたしも納得したかも知れません。しかし、先生の放ったボールはまったく予想外の角度から飛んできました。
――Fとは何かとトラブルが多いやろ。Fのお母さんが韓国人だからって意地悪してるんじゃないか。
S先生は苦々しげな口調で云いました。何をどう思えばそのような発想が出てくるのでしょう。韓国人。たしかに、わたしは彼女がその血を引いていることは知っていましたけれど、それをこの場で云う必要があるのでしょうか。
「韓国人」。それはわたしの学校では「障害者」と並ぶ魔法の言葉でした。生徒間で何かいざこざがあったとき、それをかざせば、被害者、加害者の区別なく教師の采配が有利に働く魔法の手形でした。その魔法とはつまり、子供同士のいさかいに政治的なニュアンスを付加し、大人の論理で解決を図ることを指しました。
その不条理!
わたしは悔しさの余り、涙を流しました。さらに悔しいことには、先生はそれを反省の意と捉えたらしく、「解ってるならいい」とばかりに優しげな口調で諭し始めたのです。
結局はこの先生も同じ――
日教組の手先。
悪魔の僕。
自分の中で、S先生に芽生えつつあった信頼ががらがらと崩れ去っていくのが解りました。
学校の掲げる人権教育とはこういうことを云うのでしょうか。マイノリティに特権を与えつけあがらせるのが、平等という理念に即したものだったのでしょうか。いい大人が集まって、どうしてそのような硬直的な思考しかできないのでしょう。そうして解りやすいレッテルに拘泥し、物事の本質から目をそらすのは、それこそ平等の理念から最も遠いこと――彼らの嫌う差別そのもののように思えるのはわたしだけでしょうか。
後に聞いたところでは、例の木材の騒動の折、Fの両親から先生に抗議があったようでした。裁定を不満に思ったFが両親に訴えたのでしょう。その事実があの喧嘩の裁定にどれだけ影響があったのかは解りません。いずれにせよ、S先生への信頼は二度と戻りませんでした。
S先生だけではありません。わたしは、このとき完全に教育への、教師への信頼を失いました。のみならず、彼らをはっきりと「悪」と断じるのに何の躊躇いもなくなりました。それは義憤という燃え盛る感情を持て余していたわたしには火に油を注ぐようなものでした。わたしの怒りは、憎悪の炎は教師たちの上にも降り注いだのです。教師への憎悪、理不尽な大人たちへの憎悪、この世界そのものに対する憎悪。
教師。
それはわたしにとってこの世の悪の象徴でした。不条理の象徴でした。逆に云えば、彼らを悪と断じればこそその対となる神や正義の存在を信じることができたのでした。彼らへの憎悪は、わたしの人格が形成されていく上できわめて重要な位置を占めていたということです。それを一体、どうすれば変えられると云うのでしょう。
わたしは神を信じることはできても、いえ、神を信じればこそ、教師を信じることができませんでした。
そして――わたしは思うのです。教師とは子供にとって社会の窓口とでも云うべき存在です。その教師を信用できなければ、それは社会そのものへの不信とつながるのではないでしょうか。
わたしがこの世界に対して常に神経を張り詰め、その出方を伺って生きてきたのはこれまで述べてきたとおりです。安心感がない、とも云いました。不安。それは突き詰めれば、周りへの不信、人間への不信のために生まれた感覚です。社会に接する不安とはつまり、社会に対する信頼の欠如でした。
十人十色、いえ、一億の人がいれば一億の個性がひしめき合う社会がそれでもばらばらにならないのは、そこに生きる人々の根底に社会への信頼感があるからではないでしょうか。逆に云えば、その信頼感を獲得しそこなった人間こそが、わたしのようなアウトサイダーだということです。
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