第6話 道化師と笑わない友。その2

 搾取は割合早い段階で始まったと思います。タカ君とKはいつの間にか気心の知れた親友のようになっており、タカ君と昔から付き合いのあるわたしは置き去りにされたような寂しさを覚えたものでした。わたしはいつも――休み時間にせよ放課後にせよ、彼ら二人の後をついて回っていましたから、Kとも自然と話す機会が増えました。そうして気づいたときにはすっかりKの手のひらの中だったのです。ええ、わたしはそうして彼の手の中で羽をむしられる小鳥でした。


 Kが何かにつけて口にしたのが「罰金」という言葉でした。わたしが何か不手際を犯すたびに「罰金」、つまらない云い間違い、空気を読まない発言にも「罰金」、彼の所持物を傷つけたとして(こういう云いがかりのうち、本当のものがいくつあったでしょう)「罰金」。その度にわたしは財布の中から小銭を――一回の「罰金」につき百円というのが暗黙の決まりになっていました――彼に差し出すことになっていたのです。


 わたしは別に、Kに弱みを握られていたわけではありません。なのに、Kの眼光を目にすると、声を耳にするともうダメでした。わたしは抵抗しようという発想さえ持たないまま、まるで財布の口を開いてしまうのです。


 タカ君は、ただ見ているだけでした。Kをたしなめるでもなく、またはやし立てるでもなく、わたしをかばうでもなく、ただ見ていました。タカ君はわたしにとって誰よりも仲のいい友だちでしたから、そのことも少なからずショックだったのです。


 Kの搾取とはつまり純粋なお金の搾取でした。Kはたとえば暴力や言葉によってわたしをいたぶることはめったにありませんでした。それどころか、わたしがクラスの暴れん坊に「でこピン」を食らい涙目になっていると、事情を聞くや否やその暴れん坊のところに飛んでいって代わりに仕返しをしてくれるような男でした。その他にも、学校生活において何かとわたしに助言し、世話を見てくれたものでした。彼は彼なりに、わたしに対して友情を覚えていたのかもしれません(それはあるいはヤクザがみかじめ料をとる代わりに用心棒を務めてくれるのと同じ理屈だったのかもしれませんが)。ただ、彼はわたしの財布を自分のもののように使うことにためらいがありませんでした。


 金銭の搾取。これは小遣いの少なかったわたしにはひどく堪えたものです。


 子供と云えど、遊びにかかるお金は馬鹿にできたものじゃありません。ゲーム機、カードゲーム、その他の玩具。それらを持たない子供が仲間外れにされるのは云うまでもないでしょう。ある種の交際費として、玩具への投資は不可避だったのです。


 わたしは他の友達がお菓子やジュースを買い食いしているのを尻目に、ああ、自分もああして飲み食いしたいという欲望をぐっと我慢し、小遣いを蓄えてきました。それが、Kと付き合うようになってから見る見る搾り取られ、ほとんど根こそぎと云っていいほど奪われてしまったのです。


 母にそれとなく小遣いを無心すると、いったい何に使っているのかと訊かれました。それに対してKに云われたとおりの答えを――携帯ゲーム機の電池代に消えてしまったのだという答えを返さざるを得なかったときの屈辱。これにはさすがのわたしも怒りました。怒らざるを得ませんでした。


 わたしが怒りを爆発させたのはいったいいつごろのことだったのでしょう。もはや、その季節さえ曖昧ですが、少なくとも一つはっきりしていることがあります。わたしの怒りは状況をなんら変えることができなかったということです。


 それは木の茂みが鬱陶しい、どこか暗い雰囲気を漂わせた公園でした。わたしとタカ君、そしてKはいつも通り遊び、そしていつも通り「罰金」の声を聞くことになったのです。そのきっかけが何だったのかまでは覚えてません。どうせ、つまらないことだったのでしょう。だからこそ、わたしはKに怒りをぶつけたのでした。と云っても、わたしに暴力に訴えるだけの度胸などあるはずもなく、ただ「もう一円だって払わない」とかそのようなことを主張しただけでした。Kはというとそれに表情一つ変えず耳を傾け、そしてわたしの訴えが終わるとこう云ったのです。


 ――じゃあ、絶交な。


 何を今さらという台詞です。こっちは端から友情など感じていなかったのですから。縁を切ったところで、困るのは財布を一つ失うKだけなのです。わたしも一度、怒りを爆発させた以上はそうやすやすと引き下がるつもりはありませんでした。Kと縁を切って、それでこの苦しみが終わるなら、喜んでそうするつもりだったのです。しかし、Kはこう続けました。


 ――云っとくけど、タカともやで。


 わたしは衝撃を受けました。タカ君と縁を切る――それは確かに、わたしにとって大きな痛手でした。しかし、Kはいったい何の権利があってそんなことを云うのでしょう。Kはわたしのみならず、タカ君までも自分の所持物のように扱っているというのでしょうか。


 ――それはさすがにないって。


 とタカ君はびっくりしたようにKに訴えます。これまで静観を決め込んできた彼も、さすがに自分の立ち位置が勝手に左右されては黙っていられないようでした。


 尤も、それで聞く耳を持つようなKではありませんでした。Kはタカ君の言葉を無視し、ただわたしにのみ問いかけてきます。


 ――どうする?


 と。


 わたしはKの顔を、表情の読み取りにくい顔を必死ににらみつけながら考えました。タカ君はどうするだろう。Kの云うことに従うのだろうか――


 タカ君はたった一言の抵抗を最後にすっかり黙り込んでいました。またもや静観モードです。まるで、これがわたしとK、たった二人きりの舞台であるかのように、自分はそこにはいてはいけない役者のように棒立ちになっていたのです。


 タカ君がKの横暴に呆れているのは確かでした。しかし、子供というのは横暴なのが勝ちなのです。Kはその横暴さを持ってこの場を支配しました。タカ君はそれに逆らうことができるだろうか――タカ君が意外に意志の弱いところがあるのを、わたしはすでに知っていました(後にKにそそのかされて万引きを働くくらいです)。


 当時七歳だか八歳だかのわたしがそこまで複雑な思考をめぐらせたとは思いません。しかし、Kと縁を切るならタカ君も諦めなくてはならないという結論に達したのは事実でした。


 わたしは最後にKをひとにらみすると、きびすを返し、黙ってその場を立ち去ったのです。その背中にかかる声はありませんでした。


 Kと絶交した。


 のみならずタカ君と絶交した。


 自分には友達がすっかりいなくなってしまった。


 頭が真っ白になる、というのはああいう感覚を云うのでしょう。いつもより早い時間、たった一人家に引き返しながら、わたしは涙も出ないほど打ちのめされ、途方にくれていました。やがて、家が近づき始め思考がはっきりしてくると、ああ、明日からは学校でも一人なのだと、放課後も誰と遊ぶこともできないのだとにわかに明日以降の生活が見えてくるようでそれは深い絶望と孤独感を覚えたものです。母にはなんと云って説明しよう。ある日、突然友達がいなくなってしまった事情をどうやって説明しよう。そんな考えも浮かんできました。今となっては、孤独なんてつまらないものを恐れる自分をいっそ冷笑したくもなりますが、その頃の自分には友達というものが社会のすべてだったのです。それを失って、どうやって生きていくのか見当もつかないほどに大事な、それは大事なつながりだったのです。それが良くも悪くも杞憂だったなどとは、思いもしなかったのです。


 翌日のことでした。いつも通りの学校。恐る恐る教室のドアを開け、自分の席に着くと、江川さんが話しかけてきました。たしか、昨日の宿題には問題文におかしなところがあったとかそんな話だったと思います。そうしてしばらく話していると、そこにKがやってきました。まるで昨日のことなど何もなかったように、です。江川さんはKがわたしに話しかけるのを見て、違う友達と喋り始めました。


 Kが話しかけてきた――いったい何を云われるのだろうと、最初こそわたしも身をこわばらせたものですが、Kが昨日見たテレビ番組について面白おかしく話しているのを聞いているうちに、その緊張も次第にほぐれ、なんだ、絶交なんてはったりだったのかと、タカ君とはこれからも友達でいられるのだと安堵を覚えました。安堵。いま思えば情けない話なのですが、友達を失うという恐怖があまりにも大きかったがために、わたしの頭からは他のことがすっかり抜け落ちていたのです。


 ――あっ、昨日のアレ「罰金」な。


 不意に思い出したようにKがそう云ったとき、わたしはようやっと気づいたのでした。続くのは友達の関係だけではないことに。


 ――何か云われたの?


 その驚きが顔に出ていたのでしょうか。Kが去った後、江川さんに尋ねられました。わたしは何か適当な冗談でごまかす必要性を感じました。しかし、それも一瞬のことで、江川さんの無表情を見ていると、そんな気も萎えてしまうのでした。


 Kの搾取はその後、再度クラス替えが行われ別々の組になるまで続きました。それまでの間、わたしは「道化」としての地位を確立しながらも、心の底ではいつも誰かに助けてほしいと叫んでいました。結局、その声が誰かに届くことはなく、わたしがKの魔手から逃れられたのも時間の流れに助けられたにすぎませんでした。


 人間不信。


 わたしはもう幼い頃から、人間に対する不信ばかり募らせてきましたけれど、その思いはいっそう強くなり、次第に成熟していく知性もまたその不信を支持するのでした。人間が信じるに価するなんて思える出来事が一度でもあったか? そうやって人のいい顔をしていたところで騙されるだけじゃないか、と。そして、それはこの上ない真実でした。


 なんにせよ搾取は終わった――そう安堵するわたしを待っていたのは、Iという男との出会いでした。Kとは逆に小柄で浅黒い肌をした角刈りの少年はしかし、Kと同じ資質の持ち主でした。つまり捕食者です。


 その後、小学校を卒業するまでの間、わたしは明るい道化者としてクラスの中心的な位置にまで登りつめ、また一方で友達の顔をしたIに金銭を搾り取られ続けるのでした。羽をむしられながらも笑う、その境地。


 道化の頬には涙が一滴……

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