第4話 転々と

かなり遡って、

いつも転校生と言われていた小学生時代。

思い出なんて、あまり記憶がない。

幼馴染というモノもよくわからない。


とにかく、いつも引越し引越し……

間取りすら覚えてない家、多数。

転校はしなくても何度引越ししたかわからない。



ひどい時は3ヶ月で転校という時もあった。



田舎→都会→田舎→都会→田舎……

そうやって転々としてきた。

もちろん都会と言っても地方では主要都市と言われる地域の話だけど。



問題なく暮らしたこともあるとは思う。

しかし田舎の学校に行った時は、珍しいものを見る目、好奇の目に耐えなければならず、いじめもあった。



田舎の学校ほど、敵視され、いじめられた。

でも何とも思わなかった。

まあ、慣れというものは恐ろしいもので、

転校?ああ、そう……ふーん、という感じに慣れてくるものである。



なので、小学校●年生で習う✖️✖️……

という、何年生で●●を習う、とか、

わからないし、授業を受けた記憶も思い出せない。



教科書が違ってることもあった。

しばらく手に入らないとか、

すぐに転入させてもらえなかった、とか……

そんなこともあって、

何か小学校で習うべきものを

すっ飛ばしているのかもしれない。


だから、小学生の頃習うでしょって言われても、……困る。



もちろん憶えてる事もあるけど、しっかり記憶があるのは中学校くらいからか?



小学生低学年の時の英会話教室は楽しくてその記憶は鮮明だ。

他国の言語を話すって、面白かった。

英国式だったのか?

ティータイムの作法も習った。



今はカタコトしかできない、長文だとなんとなくしか意味もわからないけど、

発音だけは大丈夫みたいだ。



私の世代は中学生から英語が学校で授業として出てきたけど、抵抗なく入り込めた。

小学校で発音は染み付いたので、大人になってから、たまたま話した外国人にもなんとか通じてた。



ミュージシャンの時は英語の歌が歌えるとの事で重宝された。




朧げな記憶の一つに、絵画教室にも行かされた。結構長く通った記憶があるが、

引っ越して、同じ場所に戻って、また同じ絵画教室に行ったような気がする……


絵画が趣味の父の影響で、絵を描くのは好きだった。

学校でも上手い上手いと言われたが、あまりに子供らしくない絵なので、

展覧会などは出してもらえなかった。



その時は創造力満載だったのに、今はすっかり枯渇して描けない。



通算5年くらいだろうか?

絵画教室に通った記憶がある。だんだんと生徒は少なくなり、最後は私が一人だけだった。あのお爺さん先生はもうこの世には居ないだろう。



他の習い事といえば、算数の教室に通わされた事もあった。

数字が超苦手である。

算数教室に通った事がある、って事だけしか憶えてない。

とにかく嫌で嫌で仕方なくて、

どうやって辞めたかすらもわからない。



当時は発達障害という言葉はポピュラーではなく、

なんでアンタはこれぐらい簡単なのが出来ないの?みんな出来るのに!


私ぐらいの世代は、皆出来るイコールこの子も出来るが普通だった。

個性なんて言われ始めたのはだいぶ後である。



親は嘆いた。なんて頭が悪いのか。

そんな言葉ばかり浴びせられた。



今でも数字が苦手。

おそらくちゃんと診断したら発達障害なのだろうと思う。

計算ができない、

時間の計算もできない。

思考が固まってしまう。



◆◆◆


小学校時代は、大きな地震、近隣の大きな火事、大雪の停電。

そういった事は鮮明だけど、あとはどれも薄く霞がかかっている。



いつも居ない父、居ると何か緊張感が走る空気。

何も知らず、母に溺愛された弟。

父と母がいる時にはいつも不穏な空気だった気がする。



なぜあんなに引越しや転校が多かったかと、

だいぶ大人になってから母に聞いたら、

父が勤務先でケンカしたり、問題を起こすから、その度に異動させられてた、とのこと。



その他にも理由があったが、それは次項で。




熟年離婚した両親。



今となってはもう責めるつもりはない。


未だ父への恨みつらみをいう母。

父はもうただの小さい老人だ。



父はいつも誰かと喧嘩、トラブルを起こして、転職、左遷、引越し、


話してもすぐ怒鳴る。

そんな血気盛んな、気難しい人だった。



しかし、今のわたしの感性や、様々人から褒められた事は、父の教えがあったからだとこの年齢になってようやく思えた。



一緒に食事をした人からは、食べ方が綺麗だと言われた。

父の教えである。

母からではない、女性として恥ずかしくないように、マナーはほとんど父からだ。


幼少期は嫌で嫌で食事中は緊張してしまい、どんなものを食べたか覚えてない。お袋の味と言われるものがよくわからない。



絵画に関しても、父が画材を惜しみなく与えてくれた。

でも父と描いていると母が良い顔をしないといつも思った。

だんだんと描くのが嫌になって、ほとんど描けなくなった。


しかし、この年齢になってから父が絵の具の色や植物の名前、様々な色あいなど教えてくれたのが、情緒形成に繋がったと思えた。



でも今考えると、父も病んでいたのかもしれない。

物心ついてから、まともに話した記憶が無い。

母に影響され父を恨んだ事もあったが、血のつながりは消せない。

紛れもなく父なのだ。


今となっては転々とした幼少期があったからこそ、

他の人とは少し違うであろう感性を待ち合わせる事が出来たのだと思える。







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