左と右・打算と叱責
朝、加賀美優衣は新しい自分の席に座り、何をするでもなくぼぉっとしていた。
以前までは友人の美乃梨と話したり、勉強をしたり、本を読んだりしていたのだが、この席になってからはそれもほとんどしなくなった。
理由は至って単純で。
「加賀美さん、おはよう」
「つ、月島くん! おはよう……!」
「今日の一限は俺の嫌いな数学ですよ」
「そうですねぇ」
「しかもあの先生、寝てたら怒るし」
「うふふ。でも、寝ちゃだめだよぉ」
月島遥と、話せるからである。
あまり口数の多い方ではない優衣にも、月島遥は頻繁に話しかけてきた。
内容はどれもなんということもないものなのだが、優衣にはその会話が嬉しくて仕方がない。
隣の席になってみてわかったが、月島遥はかなり人懐っこい性格をしていた。
そのうえ、懐いていることを相手に隠さない。
というよりも、もともと感情がわかりやすいのだろう。
嬉しそうに声をかけてきて、ニコニコしながら話している様子を見ていると、優衣は自分が月島遥に好かれているのではないか、と思ってしまいそうになるのだった。
都合の良い勘違いだとわかっていても、月島遥と話すのは幸せだ。
だから優衣は、いつ話しかけられてもいいように、そして、話しかけてもらいやすいように、いつも身体を空けているのである。
「寝ようと思って寝てるんじゃないんだぞ」
「それじゃあ、どうして寝てるの?」
「眠いから寝てしまうんですよ」
「みんな我慢してるんだよ、眠いの」
「加賀美さんも眠い?」
「眠いよー。一限は特にね」
「じゃあたぶん、俺はもっと眠いんだよ。仕方ない仕方ない」
うんうんと頷く遥に、優衣はクスクスと笑った。
しょうがない人だなぁ、とか、そんなところもかわいいなぁ、とか、恥ずかしげもなく思ってしまうあたり、自分はかなりこの男の子にハマっているのだろう。
「そういえば月島くん、ちゃんと宿題やってきた?」
「え? なんだそれ……」
「昨日言ってたよ。練習問題二つやっとけって」
優衣が言うと、遥はあっと小さく叫んで、それからだんだんと暗い顔になっていった。
もともと予測はしていたが、どうやら忘れていたらしい。
チャンスだ、と思ってしまった。
ここで手を差し伸べれば、きっと遥は喜び、自分にちょっとだけ好感を持ってくれる。
「もう間に合わないんじゃない? 今日だけ私のノート見る?」
「えっ……いいの?」
「う、うん。今日だけだよ、今日だけ。特別ね」
「ありがどうぅぅう。加賀美さんは女神だぁ……」
大袈裟に喜びながら、手を合わせて頭を下げる遥。
打算的な自分に、少しだけ嫌気がさす。
が、好きな相手に感謝されるという喜びと安心感で、その気持ちはすぐにかき消されてしまった。
「はい、ノート」
「ありがたく頂戴します……」
「間違ってるかもしれないから、その時は許してね?」
「もちろんです!」
自分のノートに、優衣の回答を書き写していく遥。
その様子を横から、顔がニヤけるのを堪えながら見守る。
放っておけない人だなぁ、と優衣は思った。
犬に懐かれているような感覚だ。
ついつい頭を撫でたくなるが、もちろんそんなことをする勇気はない。
「あ、遥」
「ん? お、絢音。おはよう」
そこへ、他の席で友人と話していたらしい絢音が戻ってきた。
遥を見つけると、すぐに声をかけてくる。
「おはよう。なにしてるの? それ」
「えっ……えーっと、まあ、宿題を少し」
「……それ優衣のノートじゃない? なに? 写させてもらってるの?」
「……き、今日だけ」
「ちょっと、ダメでしょ。そんなことしてるからついて行けなくなるんだからね」
「は……はい」
「勉強教えてあげることにしたんだから、ちゃんと自分でも頑張りなさいよね。優衣の優しさに甘えてないでさ」
「す、すみません……」
遥は絢音に叱られて、見る見るうちに小さくなっていった。
悲しそうに、そして不甲斐なさそうにしょんぼりする遥を見て、庇ってあげたい気持ちになる。
が、優衣も絢音の言うことが正しい気がして、片棒を担いだ自分が情けなくなってしまった。
「ほら、残りの一問だけでも自分で解いてみて?」
「う、うん……」
絢音が自分のイスをずらして、遥のすぐ隣につく。
自然な動きで顔を近づけて、解き方のヒントを与えたり、問題文を解説したりする絢音。
遥も真剣な表情でそれを聞き、ペンを動かしていた。
(……なんだか、お似合いだなぁ)
すっかり蚊帳の外になってしまいつつ、優衣はそんなことを思った。
甘やかさず、ちゃんと遥のためを思って叱り、そして手助けもする。
遥に好かれようとしてばかりいる自分が、少し恥ずかしくなった。
(……好きなばっかりじゃ、やっぱりダメだなぁ)
「……こうじゃないか?」
「んー、ちょっと見せて」
「うん」
「……あ、ここで展開間違えてるわよ。計算の流れは合ってるから、うっかりミスね」
「おわぁぁあ! こんなところに魔物が……」
「ふふ、大袈裟ね。完璧じゃないけど、解けそうじゃない」
「うん。テスト中も絢音が隣にいてくれたら、だけど」
「無理に決まってるでしょ」
「手乗りサイズの絢音が欲しいよ、俺は」
「ふふふ、何よそれ」
「いいじゃんちっさい絢音! 頼りになるし、かわいいだろうし」
「かわっ……あんたねぇ」
遥の言葉に、絢音が一瞬で顔を真っ赤に染めた。
が、少しすると落ち着いて、呆れたように息を吐いていた。
正直なところ、優衣もドキッとしてしまった。
こういうことをサラっと言って、しかもきょとんとしているのは、遥の少し危なっかしいところだな、と感じる。
「あれ? どうした、絢音」
「なんでもないわ……。とにかく、宿題はちゃんと自分でやって。それから、授業中も寝ちゃだめだからね」
「……はい」
「隣で見てるからね、ちゃんと。雪季は甘いかもしれないけど、私は違うんだから」
「はぁい……」
そこで一限開始のチャイムが鳴り、数学担当の教師が教室に入ってきた。
生徒たちが一斉に前を向く。
優衣も身体を前に向けながら、ちらりと横目で、絢音の様子を確認した。
絢音は、再び顔を赤くしていた。
緩む口元を誤魔化すように手を当てて、目を細めている。
嬉しくて堪らない。
そう思っているのが目に見えてわかった。
月島遥と水尾雪季。
二人のことを、絢音はどう思っているのだろう。
絢音も自分と同じように、略奪を狙っているのだろうか。
どちらもわからないけれど、優衣は絢音を見ていると、なぜだか自分の中に勇気が湧いてくるような気がしていた。
(頑張ろうね、絢音ちゃん!)
負ける気はもちろん無い。
けれど、絢音のことも応援したい。
それが今の、優衣の素直な気持ちだった。
(私、やっぱり向いてないよね、略奪)
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