【リクエスト】一年前 汐見橙子は恋をする
「そう言えば、聞いたか? 橙子」
休憩室で、たまたま休憩時間が重なった相田が声をかけてきた。
大学一年生、橙子よりも二つ上の、バイトの先輩だ。
ニヤニヤした表情で、相田は橙子の方を見ていた。
「なんのことですか?」
「新人だよ、新人! 高一で、男らしい。確か、お前と同じ学校だったと思う」
「そうですか」
相変わらず耳が早い。
それに、他人への興味が強い。
相田は要領も良いし、他人のミスのリカバリもできる、優秀な先輩だった。
去年は橙子も、幾度となく手助けをしてもらった。
が、お調子者で口の軽いところは、彼の明確な欠点、というか、いただけないところだった。
「なんだよ、橙子さんは興味無し?」
「人並みにはありますが、さすがに相田さんほどでは」
「まあ、そりゃそうだな」
けへへ、と相田は下品に笑った。
新人。
橙子は頭の中で繰り返した。
新人。それに、高一か。
順当に行けば、すぐに辞めるだろう。
この仕事は、キツい。
覚えることは多いし、メーカー自体のブランドイメージが高く、求められる接客の質が高い。
加えて、扱う商材が高額で、ミスのリスクが大きい。
いい加減な仕事をすれば、実質のクビもあり得る。
面接の倍率の高さもさることながら、実際の業務が大変なのだ。
時給1400円、高校生も可、となれば、それくらいは当たり前ではあるのだろうけれど。
辞める可能性の高い者に、仕事を教えるのは非効率だ。
その新人が、残りそうか、そうではないのか。
それをきちんと見極めて、教育スタンスを決めなければならない。
……と、橙子は考えていたが、橙子自身に教育係のお鉢が回ってくることは、きっとない。
つまり、あまり興味がない。
そんな具合だった。
「さすが、橙子は厳しいなぁ」
「前も、その前の高校生も、ひと月で辞めましたから」
「たしかにな。まあでも、最初から辞めそうだと思って接したら、それも伝わっちまうかもしれないぜ?」
「そうですね。なので最初のうちは、あまり私に仕事を教えさせない方が良いかと」
「あっはっは。社員さんに言っとくよ」
相田は心底可笑しそうに笑って、休憩室を出て行った。
橙子の人柄は、職場内では既に周知のものとなっている。
責任感のない者には厳しく、あるものには優しい。
だが橙子の経験上、高校生にはまだ、そういう人間は少なかった。
ふうっ、と息を吐いて、橙子も立ち上がる。
相田の話では、その新人は今日の夕方から初出勤らしかった。
◆ ◆ ◆
「初めまして、月島遥です。よろしくお願いします」
緊迫感のない少年だった。
そして、面接に受かったのが不思議なくらいに、普通だった。
仕事が続くかどうかを別にすれば、この仕事に受かる人間は、どこか華やかな者が多い。
が、月島遥はごくごく平凡な少年で、橙子にはそれが珍しかった。
少しだけ、彼に興味が湧いた気がした。
遥の教育には、相田がつくことになった。
同じ男で学生なので、遥が質問しやすいだろうということだった。
適役だと思った。
少なくとも、自分よりはずっと。
遥は物覚えがあまり良くなかった。
一度教えたことも、大抵次には忘れている。
ただ、毎回確実にメモを取っているため、三度目にはきちんとできるようになった。
要領も良くなかった。
無駄な手間を省くのが苦手で、非効率なやり方で仕事をする。
けれどそれも、相田が少しアドバイスすると、またまじめにメモを残して、少しずつ効率を上げていった。
案外、悪くないかもしれない。
遥の三日目の出勤日には、橙子はそう思うようになっていた。
「橙子さん、ですよね? お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様」
その日の休憩で、橙子は遥と一緒になった。
遥は橙子の冷たい雰囲気を物ともせず、当たり前のように話しかけてきた。
それは、新人にはめずらしいことだった。
「あ、すみません。先輩たちがみんなそう呼んでたので……」
「いや、良いよ。好きに呼んでくれ」
「ほっ。よかった」
「それで、何か用かな?」
「はい。仲良くなりたくて。あはは」
「……私と? どうして」
「学校が一緒だから、っていうのもそうなんですけど……覚えてますか? 一回だけ仕事教えてもらったとき、すごくわかりやすかったので、すごいなぁと思って」
「……ああ。購入メモの書き方だね」
「あ、それです! あの時だけは、俺でも一回で覚えられたから。だから、仲良くなりたいなって、思いました」
「……仲良くなっておくと便利だからかな?」
「そんな言い方だとアレですけど、橙子さんに教わるのが、一番早く成長できそうかなって」
遥は照れ臭そうに頭を掻いていた。
素直なやつだ。
けれど、嫌な印象は受けなかった。
きちんと、仕事のことを考えている。
給料が発生している自覚が、ちゃんとある。
そういう高校生は、今まで橙子以外にはいなかった。
橙子はいつのまにか、月島遥に好感を抱き始めていた。
仕事ができるわけではないが、仕事への姿勢が真摯で、考え方が大人だと思った。
「一人暮らしなんです、俺」
「……ほお、そうなんだね」
「だから、ちゃんと働かないといけない。お金を稼ぐんだから、いい加減なことはしたくないんです」
「……そうか」
その日、橙子は遥に飲み物をご馳走した。
嬉しそうにお礼を言って、何度も頭を下げる姿が可愛らしかった。
悪くない後輩が出来た。
その時の橙子は、その程度にしか感じていなかった。
◆ ◆ ◆
「ねぇねぇ店員さん」
「……いらっしゃいませ。どうされましたか、お客様」
受け答えをしながら、またこういう客か、と思っていた。
見るからに酒が入っている。
その若い男性客は明らかに、橙子をからかおうとしていた。
「今日、シフト何時まで?」
「申し訳ございませんが、お答えできかねます」
「えー。じゃあ次の休みいつ?」
「お答えできかねます」
「カレシいるの? そりゃいるよね。お姉さん可愛いし」
特に苛立ちもしなかった。
ただ、自分の生産性が落ちていることだけが嫌だった。
早く、飽きて帰ってくれないものか。
「申し訳ございませんが、ほかのお客様のご迷惑になりかねませんので」
「いいじゃーん。もうあんまり客いないでしょ?」
「お客様」
「俺と遊んでよー。終わるまで待ってるからさー」
「申し訳ございませんが、できかねます」
「なになに、お姉さん、けっこうウブ? もしかして、処女?」
うんざりする。
この仕事も、そろそろ辞めどきだろうか。
もう大抵のスキルは身につけてしまったし、未練は特にない。
男の下品なセリフを聞き流しながら、橙子はそんなことを考えていた。
「やめろよ、みっともないな!」
橙子は、思わず呆気に取られてしまった。
月島遥が男性客の腕を掴み、怒りの表情で彼を睨んでいた。
「立場と酒を利用して女の人に絡むなんて、大人の男がすることかよ!?」
まずい、と思った時にはもう遅かった。
メーカーの社員が二人、慌ててこちらに駆けてきて、遥を引き剥がしながら何度も頭を下げた。
幸い大事には至らなかったものの、男性客は汚い言葉でこちらを罵った後、ブツブツ文句を言いながら店を出ていった。
当然ながら、遥は丸一時間責任者に絞られた。
始末書とまではいかなかったが、反省文の提出を命じられていた。
本当に、バカなやつだ。
バカで正直で、どうしようもない。
橙子は退勤してからも、遥が戻ってくるのを待っていた。
自分からも何か言ってやろうと思ったし、でも、お礼もしようかな、とも思っていた。
「……おかえり」
遥は、とぼとぼとした足取りでバックヤードに帰ってきた。
「橙子さん……」
「ん?」
「やっちゃいました。あはは」
その時、トクン、というおかしな音がした。
胸が締め付けられるように苦しくなって、なぜだか涙が出そうだった。
弱々しく笑う遥の顔は、優しくて、愚かで、愛らしくて、それから、妙にカッコよかった。
ああ。
「馬鹿。怒られて当然だよ、あれは」
これは、マズいかもしれない。
「はい。でも、橙子さんを守れたから、よかったかも。なぁんて……」
「こら。きちんと反省しないといけないよ」
自分は、どうやらこの後輩を、ひどく気に入ってしまったらしい。
「遥」
「はい。あれ? 遥って、呼んでくれてましたっけ?」
「ううん。今日からそう呼ぶことにするよ。月島だと、長いから」
「やった。なんか、嬉しいです。へへ」
「遥」
「はい、橙子さん」
「また明日から、頑張ろう」
「はい、もちろんです!」
ああ、これじゃあしばらく、辞められないな。
橙子は胸に手を当てて、いつもよりうるさい鼓動を心地よく、ゆっくりと、確かめた。
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