トイレの花江さん

 独り暮らしを始めた。

 進学のために長年暮らした故郷を離れた俺は、大学近くのボロ……もとい歴史あるアパートを借りて、遂に念願の一人暮らしを始めたのだ。

 ……始めたのだが、生活を一新するにあたって問題は山積みだった。

 まず、とにかく部屋が散らかる。

 私物はいい。しかし実家では母が一元管理していた生活必需品――安売りで買ったティッシュや、トイレットペーパーなど、全て一人で管理しなければならない。なにかと忙しい学部なので、こまめに買いに行く……というのも難しく、余暇と安売りが重なったタイミングでまとめて買いだめておくのが習慣となっていた。

 次に、ゴミ出しの問題だ。

 自分で言うのもナンだが、それなりにいい学部に入った俺のキャンパスライフは忙しい。ゴミ出しの時間に間に合わなかったりなんだり(そもそもゴミがまとまっていない場合もある)で、部屋にいくつかゴミ袋が溜まっていた。

 そしてそんな、生活の疲れを感じたとき……ふと、孤独を覚える。身近に密接に頼れる人が居ないというのは、なかなかに寂しいものがあった。軽いホームシックに罹患しているのかもしれない。

 そんな生活を続けること数ヶ月。そろそろ本気でゴミの分別を始めないといけないと思い、しかしイマイチ気が進まないので用を足すことにした。古びたトイレのドアに手をかける。そういえば、このアパートにはちょっとした都市伝説じみたものがあった。昔々、このアパートには不気味な女が住んでいたらしい。真夏でも常にコートを着ていて、長く伸びた前髪とマスクで顔を隠していたのだとか。元々は放射線設備の管理をしていて、事故で全身が焼けただれたのを隠していた……らしい。数年後にその女はトイレに顔面を突っ込んで自殺してしまったのだが、時々幽霊となって現れるのだという。名前は花江さん。上か下かはわからない。

 なぜ急にそんな与太話を思い出したかと言えば、扉を開けたら目の前に髪の長い女が居たからだ。

 地面近くまで伸ばされた黒髪は、手入れがされていないのかテカテカとだらしなく光を反射していて、まるで安物の人形にんぎょうのようだ。マスクと前髪で隠れているのでよく見えないが、コート越しでも女性的なラインは見て取れた。

 俺に彼女は居ない。

 言うまでもなく、花江さんが出たのだ。

 驚いて尻もちをついた俺は、そのまま虫のように後ろ向きに床を這う。あまり広い部屋でもないのですぐに壁に背中をぶつけてしまった。いよいよもって絶たれた退路に縋り付くこともできず、俺は冷や汗を垂れ流していた。

 ……が、花江さんは俺に何もしなかった。

 おもむろにベッドルームに上がりこんだ花江さんは、あろうことか部屋の掃除を始めたではないか。ゴミ袋を広げて、散らばったゴミを手際よく分別していく。俺がやるより何倍も早い。気づけば、部屋はあるべき姿を取り戻していた。

 それから花江さんはトイレに戻ると、バタリと音を立てて扉を閉めてしまった。

 どれぐらい腰を抜かしていただろうか。恐る恐るトイレの扉を開くと、そこに花江さんの姿はなかった。

 ……そんな不思議体験から、半年後。

 俺はすっかりこの状況に慣れてしまっていた。

 部屋が散らかると、トイレから花江さんが現れて片付けていく。何も言わずにゴミをまとめ、挨拶もなしに去っていく。それ以外に何をするわけでもなく、ただただゴミを片付ける。確かに最初は怖かったが、五回目ぐらいにはもうすっかり慣れてしまっていた。

 それどころか、人肌恋しかった状況で部屋を片付けてくれる存在が居るというのは、たとえ幽霊であっても身に染みるものがあった。なにより花江さんは無害だ。彼女が来てから不吉な出来事があったわけでも、祟に遭ったわけでもない。ただ淡々と部屋を片付ける、怪異と呼んでいいのかすら曖昧な存在だった。

 今日も彼女は部屋を片付けてくれた。

 それが何よりもありがたい。

 花江さんが来てからというもの、俺の生活は順風満帆そのものだった。生活に余裕ができる……というのは、精神的な充足に直結する。精神的な充足は、結果にコミットしていく。引き寄せの法則と言ってしまえば胡散臭い話だが、気分が良ければ調子も良くなるので、出鱈目と一蹴するのも非論理的だ。

 そんなわけで気を良くした俺は、オカルト同好会に所属している学部の先輩に花江さんの話をした。

「というわけで、部屋の片付けには困ってないんですよ」

 すると先輩は、おどけるような仕草をしてこう言うのだ。

「呪われてるとかじゃなく?」

「そんなわけないじゃないですか。縁起でもない」

「だよな。でも考えさせられる話だ」

 投げ出していた腕を組んで、先輩は言う。

「すべての物事には因果関係がある。それは霊的存在でも同じことだ。彼らが目的を持っているとは限らないが……そこにいるのには、ひいてはその行動をとるのには、何か必ず理由があるんだ。原因と言ってもいいな」

「理由ですか? 花江さんの片付けにも理由があると?」

「そうだな。特に人形ひとがたの怪異はなんらかの目的を持っている場合が多い。この場合は、そうだな……穢れケガレを集めてるんじゃないか?」

けがれですか? よごれじゃなくて」

穢れケガレだ。要は不浄の概念だな。実際の汚れというよりかは、曖昧な、観念的な汚らわしさに近い。その花江さんっていうのは被爆者だったんだろ? 放射能関連の差別には穢れの概念が根底にあるんじゃないかって指摘がある。生前の花江さんは、その穢れに相当悩まされてきたんだろうな。顔も体も徹底して隠してるぐらいだし。案外、その長い髪はウィッグなんじゃないか?」

「それで……どうして部屋の掃除を?」

「それは単純に言葉の綾で、部屋のよごれとけがれをかけてるんじゃないか。読みが同じなら意味は二の次っていうのも、まあよくある話だよ。特にこの国の怪談ではな」

「それでも肝心なことがわかってないですよ。花江さんは穢れを集めてどうしたいんです?」

 俺の問いに、先輩は曖昧に頷く。

「それは事が動いてみないとわからん。集めてるもんが集めてるもんだから、ロクなことにはならないと思うけどな。今もどんどん力をつけているんじゃないか?」

 話す相手が間違っていた。

 思えばあの先輩は、オカルトなんぞに傾注しているだけあって論理性に欠ける部分がある。趣味にかまけて留年なんぞしているようだし、人当たりはいいがあまりアテにできる人間でもなかった。

 今日も花江さんは部屋を片付けている。

 そういえば、最近現れるスパンが短くなっている気がする。片付けの手際も良くなっている。慣れただけだと、思うのだが。

 花江さんが片付けたゴミの量は、どれぐらいになるだろうか。

 彼女の居ない生活には、もう、戻れない。

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