はんぺん美味しいですね

 特番でクイズ番組をやっている。千円札にもなった、『吾輩は猫である』の作者は? って、ちょっと簡単すぎではなかろうか。


「夏目漱石」


 ほとんど声が被った。俺のが早い、とばかりにじろりと見られる。争うつもりはなかったのでさっさと降参してテレビに視線を戻した。やはり正解は夏目漱石みたいで、ナレーターが夏目漱石の説明をしている。正解がわかればさほど興味もない。それを耳で聞きながら、目の前のお鍋を見る。そろそろいいかな。ふたを開けると蒸気がもわりと部屋をつつんで、いい匂いが広がった。

 今日の夕飯はおでんなのである。しっかりと味を染み込ませるために1時間前から準備をしていた。奥の方の大根を引っ張り出すと、いい具合に出汁が染み込んでいる。隠し包丁のおかげだ。たまごも色白だったあのころが嘘のようで、すっかりガングロちゃんに。これは絶対に美味しい。

 ちくわもつみれもそのほかの具材だってすっかり食べごろ。餅入り巾着も中の餅をとろとろにさせているし、蒸気で膨らんだはんぺんは今すぐに食べないとしぼんでしまう。急いで具材を取り分けて、反対側に座る彼に差し出す。


「ん」

「ん」


 どうぞ、もありがとう、もないのである。夫婦というものはいずれそうなるものだ。これはもう宿命なのだ。

 結婚してからは2年。まだまだ新婚とも言える時期なんだろうけど、その前に同棲期間が5年ある。もはや熟年夫婦のようなやりとり。まどろっこしくなくて楽ではあるけど。


「いただきます」


 さて食べようと箸を掴むと、「あ、」と彼が小さくいうものだから、わたしはやれやれと立ち上がる。冷蔵庫から辛子を持ってきて差し出す。


「サンキュ」

「ん」


 これにはさすがに礼を言われた。小さく返して、またテレビを見る。次はややこしい算数の問題になってしまっている。考えるまでもなくわからないので視線を戻した。

 パクッと勢いよくちくわを口に含んだ彼は、熱そうにはふはふと呼吸をしてから飲み込んだ。そして、さっきから飲んでいたビールをぐびっと煽って一言。


「美味い」

「それは良かった」


 いい食べっぷりをしてもらえると、こちらも作った甲斐がある。嬉しいのをこらえて、何でもない風に話題を振る。


「ね、夏目漱石といえば」

「ん?」

「夏目漱石がアイラブユーをなんて訳したか知ってる?」


 あれだけ自信満々に夏目漱石を答えていたから知っているのかと思ったけど、どうやら知らないらしい。視線をあちらこちらへと彷徨わせた後、小さく唸って降参した。


「知らん。わからん」

「残念。“月が綺麗ですね”よ」

「はぁ?」


 私は正解を言っただけなのだが、納得がいかない様子で眉をひそめている。


「月なんてどこにも要素ないじゃんかよ」

「これだから」


 やれやれ、とため息をついて、つみれを一口でぱくり。冷ましていたとはいえ熱い。はふはふ、と小さく息をもらして、咀嚼して飲み込んだ。魚の風味と出汁の味が合わさって美味しい。1時間かけただけある。

 次はどれを食べようかな、と考えていると、彼が不意に言った。


「……はんぺん美味しいですね」

「は?」


 なんで急に敬語? 顔を上げると、いつもと変わらない顔ではんぺんを食べている。あー、確かにはんぺん美味しそう。下の方出汁が染みてるみたいだし。


「……何?」

「いや、こっちのセリフなんだけど……。急にどうしたの」

「いや、そういうことかなって思ったんだよ」

「だから、何が」


 尋ねてから、はんぺんを箸で小さく切って、口に含む。ふわふわとしたはんぺんはすぐに口の中で溶けていくようで、なるほど、美味しい。


「その月が綺麗ですねってやつ。相手と同じ感覚とか、共通の意識を持ちたいみたいなことなのかなと」

「つまり?」

「相手にもそうですねって言ってほしいみたいな。……なんかうまくいえねーけど」

「自分の話を肯定してほしいってこと?」

「もあるけど、月だったら、相手と一緒に綺麗だねって言いたいってことなんかなって」

「あー、なるほどね。……で?」


 それとはんぺんにどんな関係が? いまいち話の核が掴めず、首を傾げて彼を見た。言いたいことが伝わらずもどかしいのか、手元のビールを思い切り煽った。


「だから……俺なら、はんぺん美味しいですねって訳すってことだよ!」

「……あ、」


 なんだそれ。

 めちゃくちゃだし、どこも文学的じゃないし、ロマンチックでもない。伝わりづらいにも程があるし、よりによってはんぺんって。他にもっとあったでしょ。

 そうは思ったけど、何かを告げるのは野暮に思えたので。


「……ね。はんぺん美味しいですね」

「……もう言わねぇ」

「たまごも美味しいですよ?」

「……うるせぇ」


 ちょっと笑っちゃったけど、そんなのも悪くないでしょう。


 長い人生だろうから、これからも2人仲良く舌鼓を打ちましょう。

 その時は、「美味しいですね」と笑いながら。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る